第11話 屋根修理職人になったモーガン男爵 

 モーガン男爵side(モーガン男爵視点)

 

「皇宮の屋根に登れだと? そんなの無理だ。昔から高いところが苦手で、そんなところに登ったら最後、たちまち足を滑らせて下に真っ逆さまだ。いくら奴隷だからって他に仕事があるだろう? 他の職人たちは若い者ばかりじゃないか」 

 私は歳も経験も浅そうな修理作業監督官に対し、顔を歪めながら文句を並べ立てた。


「こういった作業は慣れがすべてだ。初めは誰しも恐怖を感じるし、自分には到底無理だと思うものだが、サーカスの芸人だって厳しい訓練を重ねて超人的な技を身につけているんだ。自分を信じてやるんだ。それから、お前は今や奴隷だ、口の利き方には気をつけろよ。ここでは俺があんたの上司だからな」

 監督官はきっぱりとした口調で、迷いや躊躇を一切感じさせない声を響かせた。

 

「……無理です。私はもう中年だし、サーカス団員のように元から素質があるわけじゃない。そもそも若い頃から運動能力も優れていないんですよ!」

 私は口調を改めながらも再び反論したが、監督官はその言葉に耳を貸す様子もなく冷笑を浮かべただけだ。


「年齢や運動能力なんて言い訳に過ぎない。ここで必要なのは、与えられた仕事をやり遂げる覚悟と責任だ。奴隷になったからには、できるできないの話じゃなく、やるしかないってことを忘れるな」

 監督官はあくまでも揺るがぬ態度で言い放つ。もうひとりの監督官はすかさず私に鞭を振るった。


「お前のような大罪人が、自分で仕事を選べると思っているのか? 高所が怖い? だったらなおさら、この仕事はお前にふさわしいじゃないか。まさに神が与えた罰――お前への試練というわけだ」


 つまり、監督官たちは私が落ちることを期待しているのか? アグネスのおかげで死刑は免れたものの、「不慮の事故」で命を落とすことなど、容易に演出できるではないか。この状況に思い至った瞬間、恐怖が胸を締め付け身の毛がよだつのを感じた。これは単なる仕事などではなく、冷酷な刑罰の一環なのか?


 


 私はハンマーや金属のくさび、瓦用の鉤(かぎ)などを腰にさげた。汚れてもいい粗末な上着を身につけ、丈夫な革の手袋もはめる。


 「さぁ、下を見ずに一気に登るんだ。少しでも迷えば、お前は下に落下して……その身体は地面の上でグチャグチャさ。忌まわしい大罪人の血で皇宮の敷地を汚すなよ」

 監督官の冷たい声にゾッとした。


 私以外は手慣れた屋根修理の職人たちで、軽やかに梯子を登りながら、こちらをからかうように口々に不安をあおるようなことを言ってきた。

「顔も判別できなくなるぜ! 何しろ、この高さから落ちたらひとたまりもないよ」

「落ちるなら派手にいってくれよ。下の見物人も喜ぶだろうさ」

 彼らの軽口が、私の恐怖をさらに増幅させていった。

  

 私は足下をなるべく見ないようにして、一段一段急な勾配のある階段を登っていく。

 梯子が軋む音が聞こえるたび、心臓が跳ねた。見上げた先に見える屋根はまだ遠い。幼い頃から苦手な高所に、この場に及んでなお怯えている自分を情けなく思いながらも、目を逸らすことができなかった。


 風が吹き抜けるたび梯子がわずかに揺れ、地上からの距離を思い知らされる。下を見てはならないと自分に言い聞かせながらも、ちらりと目線が落ちると、そこに広がるのは地面からの高低差だ。息が詰まり、足元がしびれるような感覚に襲われた。


 一段一段ゆっくりと進むのだが、その時間が恐ろしく長く感じられた。ついに皇宮の屋根が目前に迫ったが、そこで初めて足をかける場所の不安定さに気づく。瓦の表面は滑らかで、ほんの一歩間違えれば足を滑らせてしまう。恐怖と緊張で息を呑み、屋根に這いつくばるようにして慎重に手を伸ばした。


「あと少しだ……」と自分に言い聞かせるものの、心臓は早鐘のように鳴り続けている。しかしその瞬間、足元の瓦が突然滑り落ち、私の体がざざっと屋根を滑っていった。そして、恐ろしいほど静かに真下へと落下し始めた。


 ――ひぃ~~っ!


 心臓が跳ね上がり、次の瞬間には自分が地面に叩きつけられる未来がはっきりと脳裏をよぎった。これが最後だという感覚が全身に広がり、幼いころからの記憶が走馬灯のように駆け巡る。私は必死に手足をばたつかせ、空中で何かにすがりつこうともがいた。


「た、助けてくれぇ! 嫌だ、このまま死にたくない! お母様、お母様ーー!」


 母に頼ってばかりだった幼い日の記憶が、この極限の瞬間に鮮明に甦り、心が子どもの頃のように母を求め叫んでいた。


 しかし、いつまで経ってもその強烈な痛みの衝撃はこない。下を見れば地面から遙か上にまだ自分がいて、ぶら下がった体は皇宮の屋根から突き出るかのように宙に浮き、風にあおられて揺れていた。空中で左右に大きく振り回されるたび、心臓が喉元まで飛び出すような恐怖に襲われた。

 

 私の腰に結ばれた綱は、屋根の傾斜部分で構造が強固な隅木すみぎに固定されていたのだ。いわゆる命綱というものだ。宮廷の使用人たちが下から見上げ、私の様子を眺めているのが見えたが、誰も心配する様子はない。むしろ、冷たい視線を浴びせ、時折、笑い声が聞こえた。


 「いい気味だ。皇女様誘拐なんて真似をしておいて、天罰が下ったんだな」


 命綱が切れるかどうかの恐怖を感じながら、私は命懸けで体を振り揺れを抑えようとするが、風にあおられて逆に大きく振り回された。何度も何度も体が左右に揺れ、そのたびに命綱が軋み、不安な音を立てる。冷や汗が頬を伝い、全身の力が抜けていく感覚に襲われた。


 ようやく、縄を引っ張り上げる人影が現れたが、私が見上げるとその表情には冷笑が浮かんでいた。

「今回は命拾したな。だが、少し焦らされるのも悪くなかっただろう?」

 監督官は緩慢に命綱を引き上げ、わざと時間をかけて私をじらすようにしていた。落ちる恐怖と、下の人々からの侮蔑の視線に晒され続けた私は、屈辱に歯を食いしばるしかなかった。


 やっと、引き上げられていったん地上に戻された。地面に足をつけた時、私はふらつき膝から崩れ落ちた。恐怖で固まった足は思うように動かず、膝をついたまま地面にうずくまる。周囲にはまるで滑稽な人形でも見下ろすかのような視線が集まっていた。

 「命拾いしたんだ、ありがたいと思えよ」

 「さあ、まだ瓦の残りがたくさんあるぞ。次はもう少ししっかりやれ」

 「あんたの命綱、今度こそちぎれてしまうかもなぁ」


 私はその言葉の一つひとつが、皮肉ではなく私への処罰を意味していると思った。以前のような地位や尊厳は今はただの幻だ。皇女様誘拐犯としての過去が人々に忌み嫌われ、その罪の報いを受け続けるべき存在とされていることが、痛いほどに伝わってきたのだ。


 再度、屋根に登ることを強要され、またあの恐怖の時間が訪れた。だが、私に休むことなど許されない。私は使い捨ての奴隷なのだ。むしろ、過去に地位があった分だけ、周囲の冷たい視線と嘲笑の的にされる存在になった。


 私はただの笑い者として存在する。皇宮の使用人たちは、私が再び落ちることを心から願い、楽しんでいるのだ。


 そして、私は再び足を滑らせ…… 


 ――ひゃぁ~

 

 今度こそ……




 

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