第10話 洗濯女の日常 / スペイニ国王の独り言

 ※最初はモーガン男爵夫人視点で、☆彡 ★彡以降はスペイニ国王視点となります。



 そして、私が皇宮内で任された仕事は……


 夜が明けきらず、あたりはまだ薄暗い。私は重い足取りで井戸の前に立った。袖口がほつれた粗末な服に身を包み、かつての華やかな姿は跡形もない。震える手で荒縄を握り、じっと井戸の底を見つめる。水面に映るのは、かつてモーガン男爵夫人として贅沢な日々を過ごしていた私ではなく、皇女誘拐の罪によって奴隷へと身を落とされた、今の惨めな自分だった。


「まさか、私がこんなことをするなんて……」


 ほんの数日前、ローマムア帝国に行きたいとフリートウッド国王に願い出たときには、貴族の身分を捨てる覚悟はあった。だが、奴隷にされるとは思ってもみなかった。王に嵌められたのだ、そう思わずにはいられない。


 再び荒縄をきつく握り締め、井戸の中に桶を沈めた。縄が滑らかに動き、澄んだ水が静かに桶へと溜まっていく。ようやく引き上げた桶を抱え込むと、ずしりとした水の重みが服にしみ渡り、少しずつ体に吸いつくように湿ってくる。繰り返し引き上げるうち指先がじりじりと痛み、手のひらには赤く腫れた線がくっきりと刻まれた。


 かつて男爵夫人だった自分が、今はこんな作業に追われているなんて。屈辱と疲労が交互に押し寄せる中、私は眉をひそめて桶を抱え、心の奥で恨み言を呟いた。


 フリートウッド国王の嘘つきめ! あんな国は滅びてしまえ!


 皇宮は果てしなく広い。私は何度も重い水運び桶を担いで各部署に水を運ぶ。そのたびに腰は軋み、肩に重さがのしかかる。手ぶらのときでさえ、まるで肩に大きな石が乗っているかのような疲労感が離れない。両頬に刻まれた奴隷の烙印もひりひりと痛み、そよ風があたるだけで飛び上がりたくなるような鋭い痛みが走った。どうにか火傷用の薬をもらおうとしたけれど、奴隷頭は冷笑を浮かべて私を一蹴した。


「あんた、皇女様を誘拐した大罪人だろう? そんな奴に塗り薬なんて贅沢すぎるよ。ほっとけば、そのまま醜い傷になってくれるさ。さっさと仕事に戻りな。生きてるだけでもありがたく思うんだね!」


「奴隷だって同じ人間でしょう? 少しくらい薬をくれてもいいじゃないですか?」


 反射的に口を開いたその瞬間、理不尽な鞭が背に叩きつけられ、鋭い痛みが走る。奴隷頭の冷たい声がさらに私の耳に刺さった。


「奴隷だから薬をやらないんじゃないよ。お前が皇女様を誘拐したからさ。皇帝陛下や皇太后陛下が、どれほど心を痛められ、どれだけ長くお苦しみになられたか……この皇宮で働く者たちは、皆、慈悲深い皇帝陛下と皇太后陛下を心から敬愛しているんだよ」


 理解している。ここに私の味方などいない。皆が皇帝陛下や皇太后陛下を崇拝し、私を大罪人として見下しているのだ。この皇宮で働く者たちの冷たく突き放す視線が、重くのしかかる水桶よりも私の心をむしばんだ。

 

 ようやく水汲みを終え、皇宮の地下にある洗濯場に足を運ぶと、そこには馬丁、料理人、メイド、庭師らの作業着が山のように積まれていた。

 

 馬小屋で埃と藁にまみれた馬丁の服や、庭の作業で泥だらけになった庭師のズボン、料理人の油汚れが染みこんだエプロンなどが、容赦なく桶の中で泡立つ石鹸水に投げ込まれる。あらゆる場所にしみついた汚れを落とすのは容易ではなく、布地を何回もこすり続けなければならなかった。

 洗い続けるうちに指先がじんじんと痛み、石鹸の刺激で赤くただれ始める。すすぎの泡が消え失せる頃には私の手は腫れあがっていた。それでも、まだ私の仕事は終わらない。


 洗濯し終わった衣類を抱えて、私は皇宮の端にある干し場へ向かう。大量の洗濯物を干していると、聞き慣れた女性の声が風にのって、微かに聞こえた。ここは、高貴な人々の視線が届かない場所だが、時折、木々の向こうに庭園が広がっているのがちらりと見えた。私はこっそりと庭園のほうをうかがう。


 少し離れた庭園の中央にアグネスが佇んでいるのが見えた。きらめく陽光を浴び、淡い薄紅色のドレスに身を包んだその姿は、遠目でもわかるほど華やかだ。隣には皇太后陛下が寄り添い、ふたりは笑い合いながら楽しげな時間を過ごしていた。


 私はアリスから酷い暴言を吐かれたのに、皇太后陛下たちはとても幸せそうに見えた。私の胸の奥で妬みと恨みの感情が芽生えかけたその瞬間、突如として鋭い声が私を責め立ててきた。


「こらっ! 恐れ多くも皇太后陛下と皇女殿下を盗み見るんじゃない。お前のような者が見るだけで、あの方たちの身が汚れるわ。今度盗み見たら、その目をえぐり取ってもらうよう刑史長に言ってやるからね」


 奴隷頭の冷たい視線は、まるで私を常に見張っているかのようだった。ふいに背中に鞭が落ち、鋭い痛みとともに血が滲むのを感じる。ここは地獄だ……些細な仕草ひとつが奴隷頭の癇に触れれば、容赦ない罰が降りかかる。悔しさで涙が滲んでいたその時、思いがけず夫の声が皇宮の屋根の上から響いた。


 「……あんたの旦那は、高所で修繕作業を命じられたらしいよ。ま、落ちて命を失わないよう、せいぜい気をつけることだ」


 ――高所が苦手な夫が、こんな場所で?


 私が顔を上げると、夫が今まさに急な勾配の梯子を慎重に登り、屋根の庇に向かっているのが見えた。その姿は不安に足をすくませながらも、何かに必死にすがりつくようだった。



 ☆彡 ★彡

 


 ローマムア帝国の隣に位置するスペイニ王国は、政治的にも経済的にも途上国である。国土は痩せた土地が多く、豊かな自然の恵みを享受できないため、農作物の生産が乏しい。国王は民衆の窮状には目を向けず、自身の贅沢にのみ熱を入れ、豪華な宮殿と高価な品々に囲まれていた。


「もっと民衆から税金を搾り取らんといけないな。あいつらは余のために存在しているようなものだ」


「おっしゃるとおりでございます。愚かしい民どもにはローマムア帝国への不満だけを抱かせておけばよろしいかと。そうすれば国王陛下に対する批判は一切起こりません。民の不満を全てローマムア帝国に転嫁すれば、ことは簡単です」


「ははは! まさにその通りだ。この世は余のためにある。ローマムア帝国の若い皇帝を冷血皇帝だと触れ回った甲斐があったわ。実のところ、あの若造は腐敗した貴族や役人どもを粛清したに過ぎないのだが、そんな実情など民衆には無用だ。愚かな民どもは、真実よりも過激な噂に踊らされるのだからな」


 余は民に容赦なく重税を課し、貧しい者どもは喘ぎ苦しんでいる。国全体は荒れ果て、貴族と民の間には深い亀裂が生まれた。しかし、それが何だというのだ? 余はスペイニ国の王族として生まれ、この世の贅沢を享受するために存在している。民がどれほど困窮しようと、余の知ったことではない!

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