✰✰夜の、片隅。

かかとは、まだ痛い。


ヒールをそっと脱いで見れば、透明なストッキングの下に見える、見るも無惨な、靴擦れ。


「痛い…」


それでもいつまでも、くゆったような夜の底に蹲っているわけにもいかないから、そうっと、立ち上がる。


ズキン、とする痛みに困り果てるけれど。


「新しいヒールで駆けた私が……悪いかな」


なんて、自分を責めてみる。

そのほうが、安心だ。


普段ならば、下ろしたてのヒールで駆け出すなんて馬鹿、いくら私でもやらないけど(なんたって七センチヒールだ)。

しかも私のはいているのは通称キャバヒール。

夜の世界のオンナの足元をキラキラさせるには向いていても、全力疾走には全く不向き。


「安かったけど……もったいない」


多分この一回で、お役御免。



「見ぃつけたあ」


…その時。聞こえてきたのは走る原因になった、高い、声。


「チョロチョロし過ぎぃ。…おばさん」


鼓膜に纏わりつくキャンディのように甘く高い声。


造られたキュート。


「手ぇ掛けさせやがって。時間がもったいねえのによ」


後ろから付け足される、軽薄そうな男の声。


「私、おばさん?」

「え!なあにイ?オバサン?」

「…私、二十二よ?……愛実めぐみちゃんよりは二つ上だけど」


まだジンジンと足は痛み続ける。

逃げれそうには、ないか。

時間潰しに、言い返してみると。


「うるせえ!うるせえなあ!!オバサン!!きょうちゃん、早くこのオンナ、っちゃって、そこらに捨てて?店に来られないようにして?

私、こいつがアンアン無様によがってんの、我慢して動画取るからさァ?さらしてやんのよ!ブザマな顔を!

それが楽しみで今日一日、こいつの近くで笑う振りしてたんだから!!」


発狂する、【愛実ちゃん】。

またか。

つり上がった眼。歪んだ唇。

何回目かなあ、数えるのはやめたけど。

人は変わってもみぃんな、同じ。


「良いのかよ(笑)、俺は良いけどさあ、顔さえ映してくれなきゃオーケー。その代わり、店きて高いの入れてくれよ?靴もスーツも新しいの欲しいなあ♬」

「分かったわよぅ。このババァ、ズタボロにしてくれんなら何でもするからぁ」


甘い言葉と軽い声。

ふわふわと物騒に、通りすぎてゆく。


足、痛いなあ。

爪もちょっと、割れてそう。他もヒリヒリする。


絆創膏の買い置き、あったっけ?

防水の、やつ。


タイムセールで買ったの、もう終わりだったっけな。


なんてぼんやりかんがえてたら、髪を思いっきり引っ張られ、頬を張られる。


いつの間にか、片手にスマホを構えた愛実が近くにきていた。


「ぼんやりすんなよ、ババァ!腰抜けたかよ!」


頬を張ったのは、軽薄そうな軽い声の主、見るからに三流ホストだって誰でもわかる男。


私の前で地団駄を踏む、二週間前に私が入った店の、年下の【センパイ】のイイヒトだろう。

愛実は売り上げで、入ったばかりの私に負け続けだ。


「こいつの売り上げ、減ると困るんだわ、俺もさあ。

お互い、【楽しんだら】、捨てるついでに知り合いのメーカーと居場所、紹介してやっからよ、あと腐れなく消えろよな?」


メーカー?居場所……?


「…AVに売るの~?可哀想~」

「お前が言うかよ(笑)悪いオンナ(笑)」



下卑た軽薄。薄ら笑いの悪意。


ちょっと口のなか、切れたなあ。

男の力で張り飛ばされれば、ね。

随分と血の味が、しょっぱい。引かれた髪の生え際も痛いし。


お酒、沁みそうだなあ。シャンプー、痛そう。


なんて考える私の気持ちを知らぬげに。


「その陰になった路地のとこ、死角っぽいからそこでやんなよ。脱がさないで立ったまんまならバレにくいしさあ」

「そうだなあ(笑)」


女は言い。

男は笑って。

乱暴に私の襟元を掴んで、立たせようとした。



だけど。


男は私を動かせなかった。

闇の底から伸びてきた脚が、男を蹴り飛ばし、私から引き離したから。



「悪い、遅れた、花乃」



ああ。安心する、低音。


「ううん、待ってない、ちょうど」

「そうかよ、それはよかった」


長くて、カッコいい脚の持ち主は、私の頭を形の良い指先で、一度だけ撫でる。


「報連相、サンキューな」

「ん」

「今日の朝と、変わったところは?」

「…靴擦れと、髪の毛、十本くらい抜けた、多分。あと頬を張られて、口んなか切れた」

「…了解」


私の横に立つ低音の持ち主の姿は乏しい灯りのなか顔も姿も分かりにくく、急に現れた邪魔者に男女はパニック状態だ。


「あ、あんた、誰よ!」

「いてえ!いてえよ!腕!腕がァ!」

「花乃」


だけど低音の持ち主は男女を見もせず。


「ん~」

「だからやめろって、言ったろ?あのあたりは前より質が落ちた。…お前の事だから止めたっていっちまうのは知れてたがよ」

「…ごめんね」

「帰りに湿布買う。明日は美容室サロンとエステ、これは決定」

「……分かった」

「よし」


甘い言葉とジャケットが、彼から離れて私の頭上に降ってきて。


「預かって、子猫キティかぶってな」

「…了解」


返事をすれば。


途端に変わる、声の温度。



「さて、仕置きかね。…さすがにな」


あ~あ。


「俺は退屈が一番、嫌いでねえ」


ジャケットがシールドになって二人は見えなくなってるけど。


「だけどそのつぎに嫌いなものは」


ドカッ!

ガシャーン!!


「ギャアッ!!」


ドカッ!!ドカッ!!


「ヒィィィィィィィッ!」


ガチャン!!バキッ!グシャ。



【何か】を蹴り飛ばし、それがどこかにぶつかり。

上がる悲鳴を消す勢いで蹴り続け。

更なるおびえには【お仕置き】を。


「俺の退屈を癒してくれる愛玩に、ちょっかい出されることでねぇ。…なんて言ったか?こいつをやり捨てて、よがる姿を撮るんだったか?」


……やっぱり聞いてた。

声の調子がそうだった。


私によこす甘い響きに微粒子状のイライラが混じっているのがわかるくらいには付き合いが長いのだから。


「ご生憎あいにく。美味い肉しか食わせてないんだ。安売りの肉でくようにはしつけて無いんでな」


耳に心地よい低音の温度が、また、下がる。


「もっとも、スマホごと手の骨砕き潰されてりゃあ、もう撮れねえなあ、なあ、メスガキ?」

「…っ……っ……痛………助け……」

「可哀想に。もうグラスも持てねえよ」

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