第1章②

 すっかり夜が訪れた頃に仕事を終えたギンカは、地獄にある商店街を歩いていた。


 環境庁や案内庁、執行庁などの各庁舎は円を描くように並んでおり、ちょうど中央部には労働者向けの飲食店や小売店が密集しているエリアがある。


 昼間は誰も立ち寄らず店も営業していないのだが、夜になると退勤したオニたちが集まってきて、それぞれの仕事の疲れを酒で忘れるのだ。提灯のぼんやりとした明かりに照らされて酔っぱらったオニたちが騒ぐ様子は、地獄にいる人々から見れば野蛮で恐ろしい光景だろう。


 路面に並べられた座席で飲み食いをするオニや、串焼きを食べながら歩いているオニを縫うようにして、ギンカはいつもの中華料理屋へ向かっていた。少し歩くと見えてくる、赤い看板が目印だ。


「鶏鳴楼」と書かれた店のドアを引き、中に入る。ガラガラと音を立ててドアを閉めると、混雑した店内でこちらに手を振っている馴染みの姿に気がついた。首には、ギンカと同じ環境庁の所属を示す紋章がかかっている。


「お疲れ、ロク。今日は早かったんだね」


 ギンカはそう声をかけながら、お疲れ、と挨拶をするロクの向かいに腰掛けた。


「いやあ、今日もあの人の話長すぎて、帰れないかと思ってさ。正直無理やりだったけど、早めに切り上げてきて正解だったぜ」


 ロクはやれやれと肩をすくめると、片手を上げて店員に合図をした。


 あの人とは、案内庁の長官、レイゲンのことだ。悪いオニではないのだが無類の話好きで、案内庁長官の訪問が予定されている日はだいたい帰りが遅くなる。それを適当にあしらうのは、人たらしのロクだからこそなせる技だろう。


 ギンカとロクはほぼ同時期に環境庁で働き始めた同僚である。地獄にやってきてまだ日も浅い頃、右も左も分からぬまま現場研修へと連れ出され、たっぷりと苦い思いをしたのも今となれば酒のつまみだ。


 ロクのほうが年齢は一回りほど上に見えたが、苦境をともに乗り越えたふたりには、いつの間にか強い仲間意識が生まれていた。だから新人と呼ばれなくなって久しい現在も、こうして仕事終わりに鶏鳴楼で過ごすのが日課だった。


 注文を取りにきた店員のオニにビールといくつかの料理を頼み、ギンカはふうと息を吐いた。庁舎で事務仕事をしている日に比べ、やはり視察は疲れとストレスが溜まる。


「そっちはどうだった? たしか、ジョーさんとこのバスだよな」


 テーブルの端にあった前菜の皿を中央に寄せながらロクが聞いた。


「うん、ジョーさんのところ。今日も嫌味っぽく言われたよ。おれに言ったって、なんにも変えられないのわかってるはずなのに」


「ほんと、おれたちだって仕事じゃなきゃわざわざ案内庁まで行ったりしないっての。あの人はひたすら昔の話ばっかりするしさあ」


 ロクは不満をこぼしてテーブルのザーサイに箸を伸ばした。


 もみあげを刈り込んださっぱりとした短髪に、直線的な男性らしい顔つきをしたロクの頭部には2本の短いツノが生えている。見た目は強面だがその口調には感情が込められており、内向的な自分とは正反対のロクをギンカは好いていた。


「まあ、執行庁よりはだいぶマシだけどね。いろいろ言われるのにももう慣れたし」


 ちょうど届いた餃子を口に運んでから、ビールを喉に流し込む。大きなため息とともに、ロクが相づちを打った。


「あそこは嫌味なんてもんじゃないよな。長官の性格がキツすぎる。地獄にルールが無かったら、今頃審判庁に嚙みついてるんじゃねえの?」


 冗談っぽく言ったが、壁にもたれかかったロクの表情に笑みはない。思い出したように着物の懐から手帳を取り出し、スケジュールを確認する。明日は執行庁視察の予定が入っていたはずだ。案内庁とは違い、執行庁を訪れるときはだいたいふたり一緒の予定が組まれる。それだけ必要なエネルギーが多いのだ。


 ため息がギンカの口をついて出た。明日のことを考えると気が重い。仕事と割り切っていても、役立たずだと罵られるのを想像すると気分は良くなかった。執行庁にも守りたい領域があるのは理解できなくもないのだが、面倒なのはロクも同じはずだ。パタンと手帳を閉じて懐にしまうと、ロクは店員を呼んだ。


「すみません、芋焼酎2つください」


 すっかり憂鬱になったふたりは、夜が深まるまで酒を飲み明かした。そうでもしないと、明日を乗り越えられる気がしなかった。





 翌朝、二日酔いぎみのオニたちはふらふらと自宅をあとにし、勤務地である環境庁の庁舎に向かう。ギンカとロクが庁舎のドアを開けたのは、間もなく始業の鐘が鳴る頃だった。


 改革が始まる前から長く使われている木製の庁舎の外観は、廃村に隠れた古い校舎を思わせる。建物は2階建てで、1階には職員がパソコン作業をする事務室や会議室、応接室などが設けられており、2階には資料や書類を保管している倉庫と長官室、副長官室が並んでいた。


 だが、今は環境庁に副長官はいない。副長官だったカエンは何かのはずみで生前の記憶を取り戻し、審判を経て人間界への転生が決まった。職員総出で、地獄の出口である輪廻の門に出向き、彼の再出発を見届けたのはつい先週の出来事だ。長官はその後始末に追われているようで、まだ後任は発表されていない。


 地獄で働くオニは、全員がかつては人間界で暮らす人だった。しかし、稀に地獄に到着したときに生前の記憶を無くしている者が現れる。その状態では正しい審判がおこなえないため、オニの名前を与えられて人々に罰を与える役割を担うのだ。


 オニがオニでいられるのは、人だった頃を忘れているうちだけ。「そのとき」がいつ訪れるかは誰にもわからない。もしも記憶が戻ったら、審判の結果で天界か人間界への転生か、地獄で罰を受けるかが決定する。後者の場合に待ち受けているのは、見知った者に裁かれるという真の地獄だが、それがこの場所のルールだ。


 ギイと音を立てて開いた古いドアは、室内にいるオニたちの気を引くには十分で、時間ちょうどに入ってくるふたりは気まずそうに奥へ進む。部屋の隅にあった自分の名前が書かれた出勤札を裏返して席に着こうとしたとき、ひとりのオニに呼び止められた。


「珍しいな、こんなギリギリに来るなんて」


 環境庁長官のウカイだ。一般の職員が身に着けている渋い薄緑色の着物とは違い、艶のある高級そうな紺色の着物に同じ色の羽織を着ている。白髪交じりのグレーの長髪をひとつに束ねており、頭部には弧を描く立派なツノが生えていた。


「おはようございます、ウカイ長官。ハハハ、すみません……」


 慌てて挨拶をしたギンカは叱責を覚悟して目を泳がせたが、すぐに別の用事があると理解した。ウカイの後ろに、見慣れない若いオニが立っているのが見えたからだ。

 ウカイはゴツゴツした手でそのオニを指した。


「彼はジキト。審判庁から配属され、この環境庁で働くことになった。今日はふたりで執行庁の視察だろう? 研修ついでに同行させてやってくれ」


 ジキトと呼ばれたオニは、怯えか緊張か小さく震えているようだ。体の横に伸ばした手で、薄緑色の着物をぎゅっと握っている。少しの沈黙のあと、足元に目線を落としたまま囁くような声で挨拶をした。


「よろしくお願いします……」


 一列に揃えられた前髪と、額から生えた1本のツノに隠れた表情は浮かない。一度ちらっとこちらを見たものの、すぐに俯いてしまった様子からもまだ幼いように見える。見た目の年齢は10代前半といったところだろうか。


 ちらっと横に立つロクに目をやると、憂慮を浮かべた顔と目が合った。よりにもよって、執行庁視察の日とはついていない。気難しい長官以外に気にかける事項が増えてしまったのだ。


 しかし、薄氷を踏むような面持ちのオニたちに反して、ジキトは口をぎゅっと結ぶと覚悟を決めたような力強い目で再びふたりを見上げた。


「よろしくお願いします。僕、やれるので」

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