黄泉にすむ人
舘花 縫
第1章
第1章①
春の木漏れ日に似た優しい夢をみていた。
この身を包む2本の腕が心地よい圧迫感を与えている。懐かしい温もりと心が凪ぐ甘い香りに、顔を持ち上げずとも、腕を回しているのが母親であることはわかっていた。その柔らかな胸に寄りかかり、目を閉じて全身で愛情を享受する。幸せが目に見えたなら、きっとこんな色をしているはずだ。
母親は赤子を抱くように体を左右に揺らし、もう子どもではないはずの自分の背中をとんとんと軽く叩く。かすかに聞こえる言葉は聞き取れないが、子守唄を口ずさんでいるのだろうか。
自分が笑うと母親もつられて笑った。言葉にならない声をあげて、幸せを全身で表してみる。ふんわりと頬に触れたその手を、ずっと離さないでいてほしいと思った。
母親の名前も、その顔も、かつて呼ばれていたであろう自分の名前も、今は思い出せない。だからこうして、夢の中でたまに出会うくらいがちょうどいい。親子を結ぶ記憶が悲しいものかもしれないから、知らないほうがたぶん幸せだ。
突然、ごごごという低い音とともに、どこからともなく風が吹き始めた。夢の中だとわかっていても不安を感じるその風は、幸せの色に染まった視界を洗い流すように、徐々に強さを増していく。なぜだか母親がどこかに去ってしまう気がして、服をつかんで「行かないで」とせがむ。だが声は出なかった。
――どうして。どうして置いていくの。お願い、行かないで。
子どもが駄々をこねるみたいに、足をばたつかせ、小さな拳で母親をぽこぽこと殴った。この感情が伝わるならなんだってよかった。それでも、母親はもうこちらを見てくれない。
次第に、自分を抱く両腕が緩んでいくのを感じた。幸せで満たされていたはずの世界はどんよりと曇り、遠くから嵐が迫っている。泣きわめく自分の頬に、風に流された雨粒があたった。小さな水滴はだんだんと群れをなして、顔を、視界を濡らしていく。
風がびゅうと吹いた。同時に母親が両手を放し、体がふわっと浮かび上がる。雨と一緒になって後ろのほうへ飛ばされていく瞬間が、スローモーションのように映った。自分を抱いていたはずの母親の姿は見えなかったが、どんどん遠ざかっていることだけはわかった。
精一杯手を伸ばしても、先ほどまでいた場所はもう米粒大でしか見えない。飛ばされながら何度も虚空をつかみ、何度も体勢を崩した。
手放すくらいなら、愛情を教えないでよ。いつだって手に入れたときの喜びより、失うときの悲しみのほうが大きいんだ。知らなければ、失ったってさみしくないんだから――
ごうごうと鳴る雨風の中で、そう叫んでいた。いつもの夢はそこで終わった。
びっしょりと寝汗をかいていたのに気がつき、上体を起こしたギンカはやや着崩れた寝間着の襟をパタパタと煽った。緩く縮れた髪を両手でくしゃっとつかみ、しばらくの間後味の悪い夢の余韻に浸っていた。
ギンカは畳に敷いた布団から這い出るように立ち上がった。寝起きのふらつく足で洗面台へ向かい、冷水でバシャバシャと顔を洗う。古びた鏡に映っているのは、細長く枝分かれしたツノが生えたオニの姿だ。だが、まだ何かに怯えるような顔をしていた。
ここは地獄で、おれはオニだ。大丈夫、なにも怖いことはない。そう自分に言い聞かせる。けれど、母親のことも、昔のことも、何も覚えていないのは本当だ。
壁にかかった時計に目をやると、針は午前4時過ぎを示していた。仕事に向かうまでにはまだ時間がある。けれど眠気はもうすっかり去ってしまっていて、また布団に戻る気持ちにはなれなかった。
ギンカは部屋の隅にある、古いちゃぶ台に置かれた煙管を手に取った。火皿にたばこの葉を詰め、火鉢の横にあるマッチで火をつけると白い煙がゆらゆらと立ち上がっていく。
そのまま窓際に歩き、ギンカは年季の入った木の出窓に腰掛けて窓を開けた。ところどころ錆びたサッシがきいと音を立て、まだ冷たさが残る湿った風がふわっと吹き込んでくる。空は淡いオレンジ色で、朝がもうすぐそこまで迫っていた。
*
「本日は地獄交通をご利用いただき、誠にありがとうございます。地獄の門を出発した当車両は、死出の山、三途の川を越え、審判庁入獄課まで参ります。道中は揺れることがございますので、シートベルトをしっかりとお締めください」
蒸気に覆われた不気味な赤黒い大地を走るバスの車内で、案内庁に所属するオニのタイラがアナウンスをしていた。爽やかな短髪に2本のツノを生やした好青年は、時折着物の袖を揺らして話しながら、進行方向の逆を向いて立っている。
数枚の書類を束ねたバインダーを膝に、ギンカは運転席のすぐ後ろの座席に座っていた。慣れた様子のタイラに、問題なさそうだな、と心の中でつぶやき、右手に持ったペンでチェックマークをつけていく。オニたちの労働環境を管理する環境庁に務めるギンカは、各庁の仕事ぶりの視察に来ていた。
徐々に険しくなる山道を走る大型観光バスには、30名以上の乗客が揃っていた。スーツで身を包んだサラリーマンや病衣を着た裸足の老人、エプロンを着けた若い女性、誰もが固く口を結んで押し黙り、バスには重苦しい空気が漂っている。
書類に目を落としていたギンカの座席の横に、よいしょ、と小声で言いながら、ひと通りの案内を終えたタイラが座ってきた。
「どんな感じですか、ギンカさん」
まだあどけなさが少し残る純粋そうな顔で、タイラが聞いた。おそらく自分の評価を気にしているのだろう。視察には報告書が付き物だから仕方もない。
「いい感じだと思います。とくに、指摘することもなさそうです」
パラパラと紙をめくりながらギンカが答えると、タイラは「よしっ」と照れくさそうに小さくガッツポーズをした。思ったよりも大きな声が出てしまったのか、慌てて口を押えるそぶりをする。今度はしっかり声をひそめ、耳打ちするように言った。
「やっぱり、改革始まってから、ギンカさんのとこ大変ですよね。僕らの仕事も変わりましたけど、ほかの庁を考えたらまだマシなほうかもしれません。とくに、執行庁とか」
「そうなんですよね」
ギンカは若干答えにくそうにため息を吐いた。
「長く続いた習慣を変えるわけですから、時間がかかるのは仕方ないですね」
*
ダイバーシティ改革は、地獄全体を管理する審判庁が半年前に始めた、地獄の大規模リニューアル計画である。
この世界は天界・人間界・地獄の3界に区分され、地獄では古来より人間界で罪を犯した者に罰を与えてきた。しかし、近年では人間界の文化・文明の発達が著しく、かつて定められた「罪」の認識は古いものになりつつあった。酒を飲んだら。嘘を吐いたら。魚を殺したら。現代でそれを「罪」と呼べば、潔白でいられる人はまずいないだろう。時代は過ぎたのだ。
これを解決するべくダイバーシティ改革では、地獄でも人々の多様性を認め、簡略化した罰を与えるように求めた。そうすることで、審判庁は人間界で無数に広がった罪の明文化を避けたのだった。
また、長らく問題視されていた、亡者の魂がたまり続けている現状を改善していくため、地獄で一定期間を過ごした者の再審判をおこなう新制度も導入された。この制度によって、しっかりと前世の罪を反省していると判断された者は、人間界で新しい人生を送れるようになった。循環しやすい環境が整えられ、地獄にたまっていた魂が減少の一途をたどっているのは良い傾向だろう。
改革の影響で、地獄で従事するオニたちの労働環境は大きな変化を遂げた。刃物や鉄の棒を振り回し、逃げ惑う亡者を容赦なく罰する光景はもうない。人とオニ、それぞれが正しい距離を保ち、適度に介入をする。それが今の地獄だ。
審判庁と現場との間に生まれる認識の差を解消するため、環境庁の職員による定期的な視察が決まっている。だが、実際に現場の声が拾われたためしはないのが現状だ。この視察自体を疑問視する声も上がっているが、それはただの環境庁職員が判断できることではない。
指示を受けたら、淡々とそれどおりにこなしていくだけ。簡単だ。自分の感情も、言葉も、思考もいらないのだから。
*
山を越え、川に掛かった橋を渡り、地獄の入口が刻々と近づいてくる。かつて人々が数日をかけて徒歩で移動していたこの道のりは、改革で導入されたバスに乗れば一瞬だ。着衣で罪をはかっていた
ガイド用のマイクを手に、再び席を立ったタイラが案内を始めた。
「みなさま、まもなく目的地へ到着いたします。本日はこのあと入獄課で簡単な手続きをしていただきまして、それぞれにご用意しておりますお宿でお休みください。明日以降、審判用の書類作成や面談などが予定されていますが、詳しいスケジュールは手続きの際にご確認くださいませ」
乗客たちは周囲の状況を把握しようと、おそるおそる顔を上げている。こんな場所が地獄だと、まだ信じられないのだろうか。無理もない。今の地獄には、亡者を苦しめる針の山も、血の池も、灼熱の大地もないのだから。
バスは平坦な道を進んでいき、やがて建物が見えてきた。手前にある駐車場では入獄課のオニが手を上げて待ち構えており、そのオニの合図でバスは車体を大きく揺らしながら停車した。音を立ててドアが開くと、タイラの案内を受け、座席に着いていた乗客たちが順に下車していく。ギンカはその様子を横目で見守っていた。
運転席に座っていたオニは車のエンジンを止め、客席のほうを振り返った。乗客が残っていないか確認する作業が残っているのだ。
「ジョーさん、おれが見てきましょうか」
ギンカが気を利かせて立ち上がり、中央の通路を雪駄で歩いて客席を見渡す。ちゃんと全員タイラに従って降りたようで、まだ新しいふかふかの座席に残っている者はいなかった。
「助かるよ」
確認を終えたギンカに、運転席でゴソゴソと作業をしながらジョーが感謝を述べた。
ギンカやタイラと同じ着物を着たジョーは、ふたりよりもいくらか大柄で年も上に見える。その顔は何の表情も浮かべていなかったが、あまり感情表現が豊かでないのはいつものことだ。いえ、と短く返事をしながら、ギンカは座席の前方に戻った。
「毎度毎度、ご苦労だな」
運転席に座ったままジョーが低い声で言う。言葉は少ないが、たいした理由もない視察が迷惑だとも言いたげだ。
「審判庁の指示ですから、おれたちは逆らえないですよ」
かぶりを振って答えたギンカは、座席に置きっぱなしにしていたバインダーを手に取り、立ったまま書類に目を落とす。視察先で嫌味を言われるのにはとっくに慣れていた。だが、ギンカにとって大事なのは意味のある行動よりも、指示された仕事をこなすことだ。そこに自分の意見はないのだから、悪く言われても気にならない。
ふと窓の外に目をやると、タイラが入獄課の入り口に人々を誘導しているのが見えた。並んでいる人に呼び止められて質問されているようで、柔らかな微笑みで応じている。
なぜそこまで仕事に熱中できるのだろう。働き具合で何かが変わるわけでもないのに。過度に一生懸命なオニを見ると、そのモチベーションがどこから湧いてくるのか疑問に思う。心の奥底で、馬鹿馬鹿しいと感じている自分がいた。
「タイラは素直だからな」
ギンカが外を見ているのに気づいたのか、ジョーが同じ方向を見ながら声をかけてきた。
「あいつ、視察とか関係なくいつも真面目にやってるよ。まだ若いのに、なんでオニになんかなっちまったんだか」
「ほんとですね」
あまり感情を込めずに返事をした。この話題を広げる価値はない。オニになった者は、誰も自分の過去を覚えていないのだ。
タンタンタンとバスのステップを登る音がして、タイラが戻ってきたのがわかった。入獄課の担当に人々の対応を引き継いだのだろう。
「お待たせしました!」
少し息のあがったタイラが乗り込んだのを確認し、ジョーはバスのエンジンをかけた。
あとは案内庁の庁舎へ戻り、形式的な面談を済ませれば今日の仕事は終了だ。報告書の提出は明日で問題ないだろう。後ろに流れていく景色を眺めながら、ギンカはぼうっと考えていた。
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