第31話 月巫女の誓い


「来たか、桜真の月よ」


 御簾に映った影は動かないまま、美乃梨を真っすぐに迎える。周囲に他の気配はない。その影は美乃梨のことも把握しているようだった。


「時神様、ですか?」


 御簾の向こうから発せられる厳かで強い気配に、美乃梨は息が苦しくなるのを感じた。自分が口を聞いて良い相手ではないと、彼女が嫌でも実感するほどの重い気配だ。

 それでもどうにか絞りだしたのが、先の問いだった。


「如何にも。して、月よ、この時ノ主に如何なる用か」


 柔らかい声なのに、美乃梨は自分が海底にいるような重圧を感じて、中々口を開けない。手の平が汗ばみ、心臓が張り裂けそうになる。それでもここで引く訳にはいかなかった。

 美乃梨は大きく息を吸い、臍の辺りに力を込める。


「時を、戻してほしいんです。私が堕霊だりように印を刻まれたあの日に。桜真が命を投げうった、あの夜に」


 たったそれだけを言うのに一日分の体力を全て使い果たしてしまったような気がした。賽銭箱の前でお祈りをするのとは全然違う。頭では分かっていた神という存在の大きさを、全身で感じていた。


「桜真の想いを踏みにじることになるぞ」


 時神からの圧力が増したような気がした。


 確かに、今美乃梨が過去に戻れば、桜真が命を投げうった意味がなくなってしまう。護ろうとした相手が自ら危険の前に姿を晒すのだから、その愚かさは語るまでもない。


「あの堕霊は、元は力ある神だった。それこそ時を超えた因果を其方そなたに刻みつけるほどに」


 美乃梨は自分の右手の甲を見た。今は無い印がその因果であり、だからこそ桜真は何度も時を戻す必要があった。


「あの子が何度も時を戻し、障害を排除していっても、最後には必ず、其方は堕霊のもとに誘いだされた。運命にすら干渉していたのだ」


 美乃梨は拳を強く握る。彼女の思った以上に、あの堕霊は恐ろしい存在だった。


「何十、何百とあの子は時を遡った。それでも月を、其方を救うことは叶わなかった」


 時桜を初めて訪れた時、桜真は『やっと』と言った。人ならざる身の、何百年の時を生きた桜真の『やっと』だ。どれほどの試行錯誤があっただろうか。考えるだけで、美乃梨は気が遠くなった。


「その桜真の思いを、君は踏みにじるというのか?」


 あまりの圧力に美乃梨の喉がしまり、息が出来なくなる。彼女に向けられるそれは怒気と言って良いほどに煮え滾り、荒ぶる気だ。物理的な力すら伴って、雪洞の影を揺らす。

 かつて桜真は、時神のことを親のようなものだと言った。時神も同様だった。桜真のことを実の子のように思っていた。


 だが、桜真を思っているのは美乃梨も同じだ。時神は彼の意思を尊重してその命を諦めた。しかし美乃梨は、それほどに達観できない。所詮自分は二十一年ばかりしか生きていない小娘なのだと、彼女は自身を奮い立たせた。


「それでも、私は桜真を助けたいです。また一緒に、桜を見たい。美味しい料理を食べたい。他愛もない話をしながら町を歩きたい。一緒に、笑いあえる日々を取り戻したいんです」


 美乃梨は時神の影へ真っすぐ視線を向ける。叩きつけられる怒気を、静かな重圧を、彼女は正面から受け止める。負けてはいけないと思った。時神を納得させられないと、桜真を助けられないのだから。


 時神は中々口を開かない。地に伏せそうになるのを堪え、歪みそうになる表情を平然に保つ。

 彼女の魂が命の危険を訴え、やっぱり良いと言ってしまいたくなる。それでも、彼女は桜真を諦めたくなかった。


「フっ」


 小さく笑う声が聞こえた。同時に、濁流のような圧力が消え失せる。

 美乃梨は倒れこみそうになった身体に再度力を込めて、どうにか姿勢を保った。


「良かろう。この時ノ主、其方そなたの力となろう」


 御簾の影が立ち上がった。影は足音を立てることなく移動して、御簾の向こうから姿を現す。

 時神は一見すれば普通の人間のようであった。まつ毛の長く涼し気な目元も、薄い唇も、人間のものだ。人間のものではあるのだが、その美の程度で言えば人外の域にあった。


 だが美乃梨が目を見開いたのはそんな美しさ故にではない。彼の顔は、桜真にそっくりであったのだ。いや、よくよく見れば細部が違うし、時神の方が表情豊かではある。何より瞳の色が違った。時神の瞳は銀色で、白髪と合わせて彼の人外味を補強しているようだった。


 時神は美乃梨の前までやってきて、床に腰を下ろす。白と紫紺の狩衣も相まって、正座が様になっていた。

 彼は手で彼女の足元を指し示し、座るように促す。美乃梨に断る理由はない。


「初めに言っておくが、其方の身体ごと時を遡らせることは出来ぬ。色々と不都合が生じてしまうのでな」


 思い返せば、美乃梨の記憶にも桜真が同じ時に複数の場所に存在しているような、不自然な違和感はなかった。


「故に其方の意識のみを過去へ送ることになる」

「分かりました」


 タイムスリップではなく、タイムリープと呼ばれる現象だ。

 タイムスリップだと現在の自分が消えてしまわないように過去の自分に出会わないようにする必要があり、美乃梨としても有難かった。


「もちろん、不都合が無いからと言って代償もないわけではない。時を渡るという行為は、人の身には過ぎたものだ。悪ければ、存在そのものが消えてしまう可能性もある」


 そうでなくても、記憶に欠損が生じたり、精神が壊れて廃人になってしまったり、取り返しのつかない可能性は少なくない。


「其方の血ならば、最悪はまずないだろう。それでも、普通の人間として暮らすことはもう叶わぬと思わなければならない」


 時神は口元を固く結び、真剣な眼差しを美乃梨へ向けた。先ほどのように圧力を伴ったものではない。寧ろ彼女の身を案じるようなものだ。

 そんな様子を見ていると、なるほど、彼は桜真の育ての親なのだと実感できる。


「覚悟の上です。むしろ、桜真と暮らすのならその方が良いじゃないですか」


 自然に笑みが零れた。サークルの集まりで彼女が見せるような、作って張り付けたものではない。心の底からの笑みだ。


「ふふ、本当に、桜真は良い月を見つけたものだ」


 時神の笑みは柔らかく、心の底から喜んでくれているのが美乃梨にも分かった。

 彼はすぐに表情を真剣なものに戻す。


「いいかい、私が其方を過去へ送れるのは一度限りだ。二度目は恐らく、其方の魂が耐えられない。魂が壊れれば、其方はこの世界に存在しなかったモノとなってしまう」

「そうなると、どうなるんですか……?」

「其方が生まれたその時まで遡って、あらゆるモノの記憶から抹消されるだろう。其方は生まれなかったものとして新たな時が刻まれ、私ですら、其方を知り得なくなる」


 美乃梨が存在しない世界。桜真も、彼女の両親も、彼女を知らず、存在を許されない世界。それはそれで桜真を悲しませずに済むのかもしれないが、美乃梨の望んだ世界ではなかった。

 美乃梨の望んだのは、桜真と美乃梨、二人で一緒に笑える世界なのだから。


「月よ、必ず生きて桜真を助けよ。死んではならぬ。でなければ、あの子を救えないと知りなさい」

「はい、必ず」


 唇をきゅっと結び、美乃梨は頷く。その瞳に宿った光は、時の神を以てして頼もしいと感じるに相応しいものだ。


 時神は美乃梨へ少し近づいて、その額に指を当てる。


「それでは、送るぞ」

「はい」


 静かで強い返事に、時神が微笑んだ。続けて途方もない程の神力が動いて、美乃梨の身体が銀色に輝き始める。


「そうそう、桜真を探す前に時守神社の本殿に寄ると良い。きっと、助けになるはずだ」


 美乃梨の意識が途絶える直前、時神はそう告げた。


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