第30話 桜散りて月墜つ

 

「明葉さん……」


 美乃梨の口から洩れた声に、赤い髪で若草色の瞳を持った、人間の肘から先程の大きさしかない少女が反応する。


「あれ、私のこと知ってるんだ」


 美乃梨は返事を返すことが出来なかった。胸の痛みを無視することが出来なかった。


「うん? まあいいや。ていうかあんた達さ、私の店の前で何してるの?」

「あ、いや、俺たちはただ……」

「美味そうな匂いの人間がいたから追いかけてただけで……」


 明葉に対して妖たちはしどろもどろになる。焦って弁明しようとして、失敗している様子だった。


「その子、神術使おうとしてたじゃん。神使様のどなたかのお客さんでしょ? いいの、食べて? ていうかあなたも、そんな大きな術を町の中で使おうとしないで欲しいな」


 友人に向ける視線ではなかった。優しい視線ではあったのだが、明葉からのものとは思えないほどに距離を感じさせる他人行儀なものだった。美乃梨も頭では当然と分かっているのだが、今の彼女が受け入れられるものではない。


「こ、これで良いんだろ?」

「じゃあ、俺たちはもう行くからな!」


 掴まれていた腕を急に離されて美乃梨は落下する。普段なら今のタイミングでも問題なく着地するのだが、叶わず地面に膝を突いてしまった。


「まったく。あなたは大丈夫そ?」

「あ、はい……」


 明葉の手を借りて美乃梨は立ち上がる。その顔に生気はない。

 

「そか。じゃあまたね、良い匂いのお姉さん!」


 手を振る姿は、美乃梨の良く知っている明葉だ。それがいっそう、美乃梨を打ちのめした。


(……早く、桜真に会いたい)


 美乃梨の拠り所は、もう桜真だけだった。

 少しふらつく足を町の中央にある社へ向ける。騒動が伝わったのか、これ以降美乃梨を襲おうとする者はいなかった。


 誰からも声を掛けられることなく、社の門まで辿り着く。橋の向こう側にある白木で作られた重厚な門は、彼女の記憶にある通り半透明で手足や首にあたる部分の無い門番二人に守られていた。


「止まれ。人間が何用か」


 威圧的な雰囲気ではなかったのは、美乃梨にとって幸いだった。


「あの、桜真、様に用があって来ました」

「桜真様だと?」


 門番たちは顔を見合わせる。それから、随分と声音を和らげて、眉根を下げた。


「桜真様は、おられぬ」


 いっそ、悲しんでいると言っても良い雰囲気を門番たちは纏っていた。美乃梨の胸のざわつきが大きくなる。


「桜真様は、お亡くなりになった。半年ほど前のことだ」


 時が止まってしまったように錯覚した。美乃梨の世界から色が失われて、ガラガラと崩れていく音が聞こえる。


「神ならざる身でありがなら、忌々しき堕霊だりようめと相打ちになられたのだ」


 門番は親切のつもりで伝えたのかもしれない。しかし、その話は、美乃梨を奈落の底に突き落とすものだった。


(じゃあ、桜真は、私を護るために……)


 美乃梨の足から力が抜け、へたり込む。彼女は目を見開いたまま、虚空を見つめた。瞳は揺れ、門番の慰めの言葉も耳には入らない。

 涙すら流すことが出来ず、その心を闇に沈めていく。


 門番は尚も彼女の為に言葉を重ね、桜真を讃える。

 だが、そんなものが何となるのか。それらは寧ろ美乃梨の心を削るもので、耳に入っていないのは幸いですらあった。

 

(なんで、どうして、桜真……)


 なんでなんて、そんなこと、美乃梨自身分かっていた。分かっていたが、そう思わずにはいられなかった。


(あなたがいないと、意味が無いのに……。もう誰も私の事、覚えてないんだよ?)


 つい先ほどの明葉の反応が蘇る。蓮も、その夫の大入道も、他の友人たちも同じだろう。


(私、本当に独りになっちゃうよ、桜真……)


 最後の希望を搾り取るように、彼女の頬を一粒だけの光が伝う。月の光を反射したそれは寂しく輝いて地に落ち、土に吸い込まれて消える。

 そんな彼女に門番たちはかける言葉を見つけられず、再び顔を見合わせた。


 不意に強い風が吹いた。それは美乃梨の髪を巻き上げて、彼女に瞼を閉じさせる。

 再び開かれた無し色の景色には、舞い落ちる一欠けらの桃色があった。


(桜……)


 桜真を思わせるそれはきっと、時桜のものだろう。先ほどの強い風がここまで花びらを運んだのかと、落ちていく花びらを美乃梨はぼんやり追う。


 桜真の好きなもの。桜真を示すもの。桜真が美乃梨に見せたいと思ったもの。


 時桜に関するあらゆる記憶が脳裏に現れては消える。

 

 一年中花を咲かせるもの。明葉と実験したもの。美乃梨に失われた時を伝えたもの。そして、時神の力を宿した、特別なもの。


 次の瞬間、美乃梨は立ち上がって走り出していた。困惑する門番を押しのけて白木の門を押し開き、社の内へ侵入する。その瞳には、再び光が宿っていた。


(そうだ、私も、同じことをすればいいんだ)


 やしろの内へ入るのはこれで二度目。その時の記憶を思い出しながら、やしろ内の静謐せいひつな空気を乱す。門番が追ってくる様子はない。時神の気配から位置を把握するのも難しくはなかった。


 自分が待たされた客間を通り過ぎて、更に奥へ向かう。誰かに声を掛けられても無視をするつもりだったが、ここまで誰にも会っていない。

 明かな異変だがそれすら気にする余裕もなく、何度も足を滑らせそうになりながらひたすら走る。

 

 辿り着いたのは、社の最奥。美乃梨は息を整えてから、眼前のふすまを静かに開く。広く奥行きのある部屋だ。雪洞ぼんぼりにばかり照らされていて薄暗い。時神は、最も奥にある御簾みすの向こう側にいるようだった。


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