第2話 残酷な領主様

 私と侍女のマルグリットを乗せた馬車は伯爵の所領をはなれ、平野から黒い森林へ、青い遥かな山脈をこえて、荒涼とした山地へと入っていった。


 公爵の土地は広大だ。青い鋭い山々には雪が降り積もっており、山麓さんろくには鬱蒼うっそうとした木々が生えている。

 

 ひどく寒いので馬車の窓から顔を出してみると、すぐ横に氷河が広がっていた。真下は一面氷である。河上の方にはダムがあるのが見えた。やはりダムも凍りついている。まるで水の流れと共に時が止まってしまったかのようだ。


 身を切るような冷たい風が氷河の上から吹いてきていた。


「お嬢様、風邪をひいてしまいますわ」

 マルグリットが心配して窓の覆いを閉めようとする。


「もうちょっとだけ見させて。あら、マルゴ、ダムの上を見て。お城だわ!」


 それは黒く、尖塔せんとうのつらなってそびえ立つ、不気味なお城だった。青く白い山の上に建っている。吸血鬼の出そうなお城である。伯爵の居城よりもずっと広く、ずっとおどろおどろしい感じがした。


「あれが公爵様のお城なのね。なんて高い場所にあるのかしら。それになんだか恐ろしいわ。ああいう恐ろしい場所って大好き。幽霊が出そうで……。もうお城に到着するのかしら」

 私は夢中になって言った。


 本当に幽霊でも出てきそう外観である。遥か山の上にそびえ建っているし、壁は黒ずんでいばらがからんでいるし。ちょうどゴシック調のホラー小説みたいだった。


「立派なお城ですね。でも今日は近くの旅籠はたごに泊まるんですよ。山の上まで上がる前に夜が来てしまいます。もし雪の中で往生おうじょうしたら困ったことになりますし」

 マルゴが説明する。


 侍女のマルグリットはマルゴという愛称で呼ばれていた。フランスの王妃、マルグリット・ド・ヴァロワと同じである。

 だが、侍女のマルグリットはフランス王妃とは違い、どこに行っても色香ただよう、放埒ほうらつな女性というわけではなかった。反対に生真面目で頭の固いところがある。中身が単なるJKの私には、時々退屈な人に思えてしまう。


 それでも私はマルゴのきっちり真ん中で分けて結んだ髪のきれいなのや、気のゆるんだときに見せる微笑、規則正しさが好きだった。一目見ただけで正直で頭のいい人だとわかる。こういう誠実な人を、誰も嫌いになんてなれないのだ。


「残念だわ。お父様は早めに着いたほうが良いっておっしゃっていたけれど」


 本当は伯爵のことなど忘れていたかった。恐ろしい命令の内容も。公爵を殺さなければ私が殺されるだろう。父の期待にこたえなかった親不孝者。婚約者を殺したとて何になるだろう?


 毒は女の武器という。それにも関わらず、私にはマクシミリアンを殺せそうになかった。まだ会ったことのない婚約者の(きっとハンサムな)、死にざまを想像する。青紫のむくれた顔、口はダランとあき、中から黒い液体が垂れてくる。私が悲鳴をあげると、彼は息をつまらせながら大きな体をこちらに倒してくる。


 思わず身震いした。毒殺なんて、まるでできそうにない。



 旅籠は暖かい、居心地のいい場所だった。領主の居城からは離れたところにある。

 だいたい宿の談話室にいるのは村の男衆ばかりだった。旅人や土地になじみのない者はいない。一日の労働の終わりにくる酒場のような場所らしい。


 私たちは場違いだったけれど、談話室にいた人たちはほろ酔い気分で歓迎してくれた。


 女将おかみさんと赤いほっぺたをした別嬪べっぴんの娘がやってきて、パンや生姜入りのじんわりと温かいスープを出してくれる。


 娘は退屈なのか、私たちと話したがった。テーブルの前に座って、ぺちゃくちゃと喋っている。日に焼けたおさげ髪や、表情がめまぐるしく変わるさまが可愛かった。


「それじゃあ、きっとあなたは領主様の花嫁なのね。遠くから来たみたいだけれど、どこで知り合ったの?」

 娘がたずねる。


「一度も会ったことないわ。ねえ、私の婚約者様って一体どんな方なのかしら。教えてちょうだい」

 私は思わず身を乗り出してきいた。


「恐ろしい方だよ」

 女将さんが娘の隣にどかっと腰をおろしていう。


 周りに人が集まってきて、女将さんの意見に口々に賛同した。


「噂じゃあ、お城の地下牢に大勢の男を閉じ込めてるらしいね。夜になると叫び声が聴こえてくる。拷問だよ。加虐趣味なんだ」

 老人が言う。


「本当だよ。娘っ子には聞かせられないがね。だが、領主様も私ら領民には親切じゃないか。不作の時には税の負担を軽くしてくださるし、貧しい家には食糧を分けてくださる。それでも、飢えと貧困は変わらないがね」


「呪われてるのよ。からすの地って言われるくらいですもの」

 娘が目をキラキラさせながら言った。

「〈黒い女〉を怒らせたのさ。ほら、今の領主様のお母様は氷河に身を投げて死んでしまったでしょう?それで土地ごと呪われてしまったんだわ」


「先代の花嫁の話かい。可哀想な話だねぇ。身を投げてから、先代の公爵が亡くなるまでずっと遺体がそのままだったってさ。今でも氷河の上に血の跡が残ってるっていうじゃないか」



 私は夢中になって話し込んでいる旅籠の人たちの輪からぬけ、外に出た。既に暗く、粉雪が舞っている。白い雪が積もっていて、長靴のつま先が冷たい。


 一人だった。魅せられたかのように、氷河の方へと歩いてゆく。静かだ。音という音が青白い雪の中に吸い込まれていった。


 氷河の底から厳しいほどの風が吹き上げてくる。


 自然と惨劇のあとを探していた。悲しい最期をとげた女の足跡を。


 氷河は広すぎて、血痕など見つからなかった。あたりは真っ暗だ。


 熱い涙が流れ出てくる。嗚咽おえつがもれでた。


「ここはまったく孤独な場所だ。だけど、美しい」


 振り返った。背の高い男が立っている。やわらかな、威厳ある声だ。顔はちょうどかげになって見えない。


「ええ、恐ろしく孤独な場所ですわ。こんな場所、恐ろしくて少しでも立っていられない。

さっき旅籠で気の毒な女性の話を聞いたんです」

 私は慌てて涙を隠そうとしながら言った。


「気の毒な女性、ですか」

 男が繰り返す。


 不思議と、男の声を聞いていると、気持ちが落ち着いていった。


「何か、あなたの力になれることはありますか。あなたは、困っているようだが」


「いいえ、いいえ。とても言えませんもの」

 私は再び恐ろしさで身を震わせた。


 誰かにすべてを打ち明けたい、という誘惑に駆られる。父と私の恐ろしい計画のことを。


「私のことを信じていいんですよ。誰にも口外しませんから」


 秘密を話すことはできなかった。


 男はしばしの間、私を見つめている。戸惑ったような、優しい視線を感じた。それだけで、心が温かくなり、男に身を任せたい衝動にかられる。


「そうですか。ではせめて宿まで送らせてください。無礼だなんて思わないでください。あなたが心配だ……」


 私は氷河の恐ろしさに震えて、まるっきり手足が動かなくなっていた。男は私を軽々と持ち上げると雪道を歩き出す。


「死のうなんて思っていなかったんです」


 男は何も言わなかった。私もそれ以上話さなかった。ただ、男のあたたかい胸に身を寄せていた。

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