第25話 路地裏

 道路に飛び出そうとし、行き交う車の多さに思わず立ち止まる。


「くそっ」


 最短距離での横断を諦め、信号機のある横断歩道へと走った。

 赤信号。

 対向車線の信号が黄に変わり、赤に変わった瞬間、俺は道路に飛び出した。


 目の前を車高の低い黒塗りの車が猛スピードで横切る。

 けたたましいブレーキ音。

 車は少し横滑りし、道路の真ん中で止まった。


「危ねえだろクソガキ!」


 窓からスキンヘッドの男が顔を出し、唾を飛ばした。


「うるせえ!」


 感情のまま怒鳴り返す。

 スキンヘッドが何かをわめいたが、無視して道路を渡った。


 向かいの歩道にたどり着き方向転換したところで、歩行者とぶつかりそうになった。

 慌てて止まろうとして、相手があの小柄なサラリーマンであることに気がついた。

 少女が連れ込まれるのを目の前で目撃しておきながら見て見ぬふりをしたあの男だ。

 生え際が後退し、皮脂で顔全体がてらてらと光っていた。

 神経質そうな細い目が驚きからか見開かれている。


「どけ!」


 俺は衝動的に男を突き飛ばした。


 ビルの隙間はどれも同じように見える。

 しっかりと確認していなかったせいで、一つ一つ路地裏を覗かなければならなかった。

 四つ目に覗いたビルの隙間から、かすかに人の気配がする。

 勢いを殺し切れずに駆け抜け、慌てて踵を返した。


 そこは袋小路だった。

 幅は四メートルほどあるが、置かれたポリバケツや室外機のせいでずっと狭く感じる。

 その奥、突き当たりに人影が蠢いていた。


 そして、押し殺したような少女の悲鳴。


「お前らっ、何して——」


 暗くて焦点の合っていなかった視界が、像を結んだ。


 少女は地面に横たわり、その上にリーダー格の大柄な男が馬乗りになっている。

 取り巻きが手足を押さえつけ、一人は口を塞いでいた。

 少女は服を脱がされていて上半身が露わになっていた。


 かっと頭に血が上る。

 後先も考えずに駆け出し、リーダー格の男の背中に体当たりする。

 男は地面を転がった。


 少女の上から退かせることはできたけれど、それが失策であることにすぐに気がついた。

 俺が態勢を立て直した時には、取り巻きの男たちに囲まれてしまっていたのだ。


「テメェ」


 リーダー格の男もすぐに立ち上がり、凶悪にすがめた目で睨んでくる。

 どこか猛禽類もうきんるいを思わせる顔立ちだ。

 近くで見るとそれほど身長は高くなかった。


 俺より少し低いくらいだろうか。

 それでも横幅が俺の倍はあった。

 相当鍛えていることが素人目にもわかった。


 リーダー格の男に気を取られていると、横腹に衝撃を受けた。

 ぐらっと体が揺れたけれど、踏ん張りなんとか転倒は免れた。

 視線を走らせると、取り巻きの一人が前蹴りを入れてきたのだとわかる。

 ひょろりとした体躯の猿みたいな顔をした男だった。


「くそ」


 猿顔の男を睨み付けたとき、視界の端でリーダー格の男が拳を振りあげた。

 ごっ、と鈍い音が自分の内側から響いた。


 視界が揺る。

 背中から地面に倒れ、衝撃で肺の中の空気を全て吐き出してしまう。

 息苦しさを覚えたけれど、痛みでうまく呼吸ができない。

 意識が朦朧とし、見当識を失った。


 つんとした腐臭が鼻をついた。

 どうやら倒れた拍子にポリバケツをひっくり返してしまったらしい。

 生ごみが吐瀉物のように地面に広がっている。


「押さえてろ」


 リーダー格の男が怒鳴り、少女に近づいていく。

 ハッとし、俺は立ち上がろうとした。

 けれど足に力が入らない。

 ほとんど這うようにしてリーダー格の男を追った。


 取り巻きの男たちは生ごみまみれの俺に怯んでいる様子だった。

 けれどそれも、リーダー格の男の恫喝に硬直が溶けてしまう。


「聞こえねえのか!」

 囲まれ、袋叩きにされた。

 俺は丸くなり耐えることしかできなかった。

 無意識のうちに後頭部を手で庇う。

 本能的に、そこを守らなければならないと強く思ったのだ。


 俺は顔だけを上げる。

 リーダー格の男が少女ともみ合いになっていた。

 助けなければと思っても、体が言うことを聞かない。

 声を上げる余力すらなかった。


 その時だ。


「おいこらァ!」


 ドスの利いた声が袋小路に響いた。

 暴行の手がぴたりと止まる。

 俺は首をめぐらせて声のほうへ視線をやった。


 袋小路の入り口に、先ほどのスキンヘッドの男がいた。

 額には遠目に見てもわかるほど野太い青筋が浮いていた。


「……あァ?」


 その狂暴な顔が不審そうに歪んだ。


「なにやってんだお前ら」


 男は胡乱うろんそうに目を走らせる。

 それだけで空気が張り詰めた。

 取り巻きたちが指示を仰ぐようにリーダー格の男を見た。


 リーダー格の男も動揺している様子だった。

 スキンヘッドの男はリーダー格の男よりも縦にも横にも一回りは大きい。

 数人で囲んだとしても勝てるとは思えない。


 いや、実際に大勢に囲まれて勝てるかどうかは微妙なところだ。

 そんな戦闘技術を持った人間はそうはいない。

 スキンヘッドの男はよくみると意外と年配で(四十代半ばくらいだろうか)、腕力はあっても運動能力はかなり衰えているはずだ。

 数人で一斉に襲い掛かれば、勝てない相手ではないだろう。


 けれど実際に勝てるかどうかは関係なかった。

 重要なのは、その男に『何人がかりでも勝てない』と思わせるだけの迫力があることだ。


 取り巻きの男たちは意気消沈したように佇み、リーダー格の指示をただ待っていた。

 士気が下がるとはこういうことなのだな、と俺は思った。

 平和な国に生まれた俺にはゲームや漫画の中でしか聞かない言葉だけれど、初めて実感した。

 こうなってしまえばもうどうしようもないだろう。


 リーダー格の男は小さく舌打ちした。


「行くぞ」


 取り巻きに声をかけ、袋小路を出ていく。

 スキンヘッドの横を通るときは背中を丸めて視線を合わせないようにしていた。

 それを滑稽こっけいに思うと同時に、そんな相手にいいようにやられた自分が惨めに思えた。


「おい」


 スキンヘッドの男は逃げていく連中にそう声をかけたが、力づくで制止しようとはしなかった。

 状況が掴めていないのだろう。


 袋小路には俺と少女だけが取り残される。

 少女は肌けた服を正すと、立ち上がり袋小路を出ていこうとした。


 その足が、俺の前を少し過ぎたあたりでふと止まった。

 少女は振り返り。

 潤んだ瞳で俺を見た。


「いつもありがとう、お兄さん」


 それだけ言うと、少女は去って行ってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る