第24話 誰か

 そんなことがあった日の夜。

 時刻は二十二時過ぎ。


 ここ数日降り続いていた雨が一時的に止んだ。

 相変わらず空はどんよりと曇っていて、またいつ降り出すかわかったものじゃなかったけれど、それでも俺はすぐに身支度を整えた。


 ずっとランニングができずにフラストレーションがたまっていたのだ。

 走れないぶん筋トレを増やしてみたりもしたのだが、解消されなかった。

 有酸素運動の大切さが身に染みる。

 なんなら筋トレや日常生活の疲れをランニングが癒してくれると言っても過言ではなかった。


 最近買った上下黒のジャージに身を包む。

 自宅の鍵と小銭入れをポケットに突っ込み部屋を出た。


 玄関でランニングシューズを履いていると、リビングから父が顔を出した。

 おそらくトイレに立ったのだろう。

 タイミングが悪い。


「こんな時間にどこに行く」


 低く無愛想な声だった。


「ランニング」


 俺は振り返らずに答えた。


「雨の中か」

「今やんでるから」

「またすぐに降り出すんじゃないのか」

「わかってるって」


 俺は少しだけ語気を強めた。

 肩越しに父を見て、それから続けた。


「なに、やめとけっての」


 身長は同じくらいだが、俺は上がり框に腰かけていて、自然と見上げる形になる。

 玄関の電気はついていない。

 リビングから漏れる薄明かりが全てだ。

 父の顔には濃い影が落ちていて、表情は窺えなかった。


 父は言った。


「好きにしろ」


 俺は鼻を鳴らし、家を出た。

 近所を回るだけのつもりだったんだけど、なんだか無性にイライラとしてきて、少し遠くに行ってみようという気になった。

 最近暖かくなってきたし、多少雨に降られても体調を崩したりはしないだろう。

 住宅地を離れ、コースを決めず町中をでたらめに走った。


 ——好きにしろ。


 嫌な言葉だ。

 小さなころから、父はよくその言葉を口にした。


 鬱積うっせきした気持ちを振り払うように、俺は速度を上げた。


 国道沿いをひたすら走る。

 最初に飛ばしすぎたため、かなり呼吸が乱れていた。

 それでも歩くことはせず、お年寄りのジョギング程度の速度は保っていた。


 道路標識に目をやり、自分が隣町にいることを知る。

 復路を思い狼狽したが、家に帰る気にはなれずそのまま進んだ。

 片側二車線で交通量は多いものの、時間が時間だからか、あるいはさっきまで雨が降っていたせいか、歩行者の姿はほとんどなかった。


 だから、その集団には自然と目がいった。

 向かいの歩道に数人がたむろしているのだ。

 体格からして、おそらく中学生だろう。

 柄が悪いのが遠目にもわかった。


 男ばかりが六人——に見えたけれど、どうやら中央にもう一人、少女が混じっているようだった。

 白に近い金髪。

 俺はアリサを連想したけれど、鮮やかさが全然違う。

 おそらく、というか、まず間違いなく染められたものだろう。


 距離が縮まるにつれて彼らがどうやら揉めているらしいことがわかった。

 一番大柄な、おそらくリーダー格の男が少女の手首を掴み何かをがなり立てている。

 痴話喧嘩だろうか。

 男の髪もくすんだ金髪で、お似合いと言えばお似合いかもしれない。


 道路を行き交う車の隙間から、ふと少女の表情が窺えた。

 彼女は明らかに怯えていた。

 背中を丸め、泣きそうな目で自分の腕を掴む男を見上げている。


 焦燥のようなものが胸に広がった。

 本当に痴話喧嘩なのだろうか。

 そもそもなぜ、少女は彼らに取り囲まれているのだろう。


 四車線越しに彼らとすれ違ったときだった。


 リーダー格の男が少女を引っ張り、ビルの隙間へと連れ込んだのだ。

 取り巻きの男たちが密集し、少女を周囲の目から隠すように立ち回っていた。


「……おいおい」


 俺は足を止め、少女が連れ込まれたビルの隙間を見つめた。

 その前を何人かの人が通りかかる。

 よれよれのスーツを着た小柄なサラリーマンやリュックを背負った大学生らしき若者。

 彼らは金髪の少女が無理やり連れ込まれたビルの隙間にちらと視線やるが、どちらも立ち止まろうとはしなかった。


「おい助けろよ」


 見て見ぬふりをする連中に苛立ちを覚え、無意識のうちにそうぼやいていた。


 警察に通報しようにも、携帯は自宅だ。

 それに警察が駆け付けるまでの猶予があるとも思えない。

 通報を受けてから現場に駆け付けるまでの平均が十分前後だと、テレビか何かで聞いた覚えがある。

 もしかしたら救急だったかもしれないけれど、そう違わないだろう。


 俺は視線を巡らせた。


「誰か」


 そうつぶやいたとき、路上駐車されていた車の窓に自分の姿が映り込んでいることに気が付いた。

 黒いジャージをきているせいで、暗闇に顔だけが浮いているように見える。


 ——誰か?

 それは誰だろう。


 俺は自問した。

 答えは簡単に見つかった。

 自分以外の誰か、だ。


 自分が少女の元に駆けつけることなど、思い付きすらしなかった。

 いや、でも……と俺は自分に言い訳をする。


 俺と少女の間には四車線の隔たりがあるのだ。

 俺なんかよりもよっぽど近くで目撃し、目の前を通り過ぎている連中がいる。

 俺よりも、彼らが行動を起こすべきで——


 四車線の隔たりがあれば助ける必要がないのだろうか。

 どこからが行動すべきで、どこからが行動しないでいいのか、その線引きはどこにあるのだろう。


 自然と、視線が足元に流れた。

 そこには線が引かれていた。

 ただの心象風景にすぎないけれど、それを生み出している俺自身にははっきりと視認することができた。


 みんな同じなのだ。

 小柄なサラリーマンもリュックを背負った大学生も、俺と同じように自分の目の前に線を引いている。

 そうやって自分を安全圏に立たせ、より前にいる誰かに責任の全てを押し付けている。


「自分が彼らの立場だったら迷わず助けるのに!」


 なんて、見て見ぬふりをしておきながら自分の善性を本気で信じている。


 物理的な距離なんて関係ないのだ。

 目の前で行われていようと、四車線の隔たりがあろうと、たとえ世界の裏側で起きていようと、一歩でいい。

 ただ一歩、自らが引いた線を越えることさえできれば——

 俺は足を持ち上げーーそして自らが引いた線を踏みにじった。

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