モップ
壱原 一
モップを買った。床を水拭きする為のモップ。
柄がねじ込みやはめ込みでなく、伸縮や分解ができない1本の棒のタイプの物。
特別な繊維で作られた専用のクロスを装着し、水だけで綺麗に拭ける。クロスは水洗いして繰り返し使える。
柄が1本の棒なので、たわんだり弛んだりしない。思うさま取り回してごしごし拭ける。厚手でとても拭き心地が良い。
今まで床を水拭きする時は、ありふれたフローリングワイパーに使い捨てのウェットフロアシートを装着していた。
それはそれで、除菌成分が含まれていたり、良い香りがしたり、洗う手間がなかったり、優れた機能があった。
一転、シンプルな水拭きも良い。
高機能の洗浄液でなく、単なる水で拭くからか、床がすべすべさらさらになる。
早朝に窓を開け放し張り切って拭き上げた後などは、吹き込む風と朝日を受けて、凛と厳かな輝きすら湛えているように見える。
すっかり気に入って、頻繁に床を水拭きするようになった。
*
モップはキッチンの冷蔵庫と壁との隙間に立て掛けて収納していた。
住まいは狭い1Kで、玄関を入った左手にキッチン、右手に風呂とトイレ、直進してドアを開けると居室へ至る。
居室のドアの正面に、ベランダへ出られる窓がある。手前にベッドを置いている。
ドアは冬以外開け放しで、開け放したままベッドに寝ると、玄関まで真っ直ぐ見通せる。
それで、ある明け方、薄暗い中で、窓を背に、玄関を向いて横たわっていた瞼越しに、なにか動いている気がして目を開けた。
*
時刻柄、起床に向けて眠りが浅くなり出していたと思う。
害虫だったら嫌なので、早々に見定めて対処すべく、すっと明瞭に覚醒した。
目を開けた先で玄関へ通じる景色に抜かりなく視線を走らせて、違和感の出所を探した。
夜明け前の青鼠色に沈む、天井から床までの所帯じみた空間の半ばに、ぱった、ぱったと定間隔で横揺れしている物がある。
冷蔵庫の陰から斜めに跳び出しては戻る棒状の物。スチールの銀色と持ち手のプラスチックの紺色。
モップの柄が倒れ掛けてはぴたりと止まって戻っている。
まるで誰かが左右の手で交互に投げ受けしている風に、小気味よい反復運動を繰り返していた。
起きたよな、と思った。
夢かな。起きたよな。
あんな風に動く要因って何だろう、どうしてあんな風に動くんだろうと急激に意識が奔走する。
同時に、分からない事はSNSで知ってそうな人に訊けば良いよねと枕元のスマホを取ってカメラを起動していた。
とにかく見てもらわなければ、誰にも答えようがないと思ったから。
ベッドで横たわったままキッチンにカメラを向けた。暗すぎて不鮮明な物の輪郭しか映らなかった。
ライトを点けようと画面上のボタンに指を伸ばすと、自分の腕の衣擦れとは別の音がキッチンから近寄って、画面が丸っこく暗くなり、そこで慌てて画面を消した。
人が歩いてきたと思った。
スマホを両手で握り隠し、視線をキッチンから逸らして、じっと身動きせずに居た。
キッチンから歩いてきた人が、ベッドの傍に到着し、上からこちらを見下ろしている気がしてならなかった。
何回か呼吸した後に、キッチンでバターンとモップが倒れ、数十秒後にスマホのアラームが鳴った。
手探りでアラームを切るのと入れ違いに、ガチャッと鍵が開く音がして、ぎょっとして玄関を見た時、もう見下ろされている気はせず、見に行った鍵は閉まっていた。
*
動いていたのは見間違いで、見下ろされていたのは気のせいで、鍵は近所の人だと思う。
今後なにかが動いても、カメラは向けないと決めている。
モップはなんとなく拭いてから、引き続き愛用している。
柄の頭に穴を開けて紐を通し、壁に刺した画鋲に引っ掛けて収納している。
終.
モップ 壱原 一 @Hajime1HARA
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