コノキモチハ……?



「おはよう、璃子」


 朝、電車を降りると、いつもどおりに声をかけてきた、美緒ちゃん。


「あ、美緒ちゃん。おはよう」


「なんだ、元気じゃん」


 美緒ちゃんの口調は、軽かったけど。本当は、眠れないほど気にかけていたんだろうなあって、わたしには、ちゃんとわかる。


「うん。まあね」


 だから、気にしていないように返すと、美緒ちゃんの足が、ぴたっと止まった。


「……ごめん。わたし、最低なことした」


「や、ちょっと、びっくりはしたけど……!」


 うつむいた美緒ちゃんに、あわてて、言葉を探す。


「だって、わたしと加瀬くんなんて、何もなかったわけだし。ただ、わたしが、一方的に好きだったっていうだけで」


「…………」


 美緒ちゃんは、何も答えない。


「つき合うことになったんだよね? わたしなら、大丈夫。美緒ちゃんでよかったって、本当に思ってるよ」


 そう。これは、嘘や偽りのない気持ち。


「でも、わたしが言うのも、変なんだけど」


「何?」


 美緒ちゃんが、ゆっくりと顔を上げる。


「加瀬くんのこと、大事にしてあげてね」


 大好きな加瀬くんと、大好きな美緒ちゃんが、いつまでも幸せにいられるように。


「ありがと、璃子」


 美緒ちゃんが泣き笑いの表情を浮かべた、そのとき。


「……おはよ」


 後ろから歩いてきた、加瀬くんとも合流。さすがに、決まりの悪そうな顔をしてる。


「おはよう、加瀬くん。ライブ、楽しかったね」


「うん。お疲れ。それと、昨日は、お見苦しいところを……」


 めちゃくちゃ、恥ずかしそうな加瀬くん。


「や、びっくりはしたけど。でも、おめでとう……で、いいのかな」


「遊佐、何か言ってた?」


「悪酔いするって」


「あーあ。大失敗」


 そんな加瀬くんに、わたしも自然に笑顔を向けられた。と、そこで。


「あれ? 前歩いてるの、遊佐?」


 遊佐くん? 加瀬くんの言葉に、ドキドキする。


「あ。でも、女の子と歩いてる」


 前の方を確認した美緒ちゃんも、声を上げた。


「誰なの? あれ」


 不服そうな美緒ちゃん。


「ん? ああ、軽音の一年かな?」


 軽音部の一年生……。


「あ! 若松さん?」


 ついつい、大げさに反応してしまった。


「そう。よく知ってるなあ」


「あ、うん……」


 偶然、会ったの? それとも、待ち合わせ? いやいや、そんなの、わたしにはどっちでも関係ないんだけど。


「あのさ、若松さんって、可愛い子だよね?」


「一年の中じゃ、目立つ方かもね」


 さほど興味もなさそうに、加瀬くんが答えると。


「そう?」


 美緒ちゃんが、横目で加瀬くんを見る。


「いや、俺は全然だよ? でも、一般的には、受けがいいんじゃない? ああいう外見で、すきのある感じの子」


 遠目に遊佐くんと若松さんを見たら、全く違和感のない、普通のカップル。


「最近、やたら遊佐に絡んでる気がするけど」


 うかがうように、加瀬くんがわたしを見た。


「……じゃあ、つき合ってるのかも」


 なぜか複雑な気持ちで、つぶやいた。


「え?」


 加瀬くんと美緒ちゃんが同時に、驚いた声で聞き返してくる。


「あの女の子とつき合うかもみたいなこと、前に言ってた気がするし」


 遊佐くんの部屋にだって、何度も呼んでるかもしれない。そして……と、そこで。


「ねえ。ちょっと、顔見に行こうよ」


「えっ?」


 わたしが考える間もなく、美緒ちゃんに手を引っ張られていた。


「遊佐くん、おはよう」


 追いつくなり、美緒ちゃんが普通に遊佐くんに声をかける。


「加瀬に、部室でやるなって言っときなよ」


「あはは。今度から、気をつける」


 あっけらかんと笑う、美緒ちゃん。


「で」


 今度は遊佐くんが、わたしの方を見る。


「昨日は、またあれから、あの曲で盛り上がった?」


「…………!」


 また、バカにして。


「あの曲、もう当分聴けないじゃん! 遊佐くんが部屋であんなことするから、思い出しちゃ……」


 意地悪く聞いてくる遊佐くんに、いつものように言い返してしまってから、気がついた。まずい。若松さんがいるのに、よけいなことを。訂正しなくちゃ。


「あの、あんなことっていうのは、やましいことではなくて。それに、されそうにはなったけど、遊佐くんの方には、全くその気はなくてね? でも、決して、わたしから誘惑したとかでは」


 なんだか、わけがわからなくなってきた。


「おまえ、それ以上、しゃべらない方がいいよ」


 むしろ気の毒そうに、遊佐くんに言われてしまった。


「まあ、わかったよ。じゃあ、おまえが次の男にふられたとき、俺があの曲歌ってやるよ」


「もう、その話はいいから。とにかく、わたしは……」


 加瀬くんも、すぐそのへんにいるのに。


「あ、加瀬先輩」


 若松さんの鈴が転がるような声で、わたしは、ぴたっと黙った。


「おはようございます。昨日は、加瀬先輩、格好よかったです」


「あー、ありがと。若松も、ギター上手になってたね」


「ありがとうございます。わたし、邪魔になっちゃうと悪いんで、先行きますね」


 遠慮がちに言った若松さんの視線が、わたしの視線とぶつかった。


「じゃあ、失礼します」


 小走りで、わたしたちから離れた若松さんは、少しして振り返ると、遊佐くんにだけ、笑顔で軽く頭を下げた。顔だけじゃなくて、声とか雰囲気まで、本当に女の子っていう感じ。


「遊佐」


 若松さんが見えなくなると、加瀬くんは遊佐くんを見た。


「何?」


「遊佐、若松とつき合うつもり? 若松みたいな子がよかったの?」


「なんで? べつに、 可愛いじゃん。何か問題でもある?」


 しれっと、遊佐くんが答える。なんだか、わたしに言ってるようにも感じるけど。


「ふーん……」


 納得のいかないような顔をした加瀬くんに、遊佐くんが調子を変えて、笑みを浮かべる。


「それよりさ。今度、俺の部屋、貸してやろうか?」


「…………?」


 どうして、遊佐くんの部屋を加瀬くんに? わたしには、意味がわからなかったんだけど。


「……そのうち、お願いするかも」


 少し考えてから、そんなふうに遠慮がちに答えた、加瀬くんに。


「何言ってるの?」


 美緒ちゃんが、おかしそうに笑ってる。


 あ、そうか。遊佐くんの部屋の白いベッドが思い浮かんだ。つまり、そういうことなんだ。胸がざわざわする。なんで? どうして、今、こんな嫌な気持ちになってるんだろう?


 でも、考えてみたら、そうだよね。遊佐くんも、あの部屋で、若松さんとか誰か他の女の子と、キスだって……ううん、もっとすごいことだって、してるよね。


 遊佐くんの、あのひんやりした手で、ふざけて、わたしにしたみたいに。若松さんにも、あんなふうに、優しく触れるの?


「どうしたの? 璃子」


「えっ? あ、ううん」


 美緒ちゃんの声に我に返ったけど、胸が張り裂けそうになるという感覚を、わたしは初めて知った気がする。






「あ」


 わたし、いったい、何やってるんだろう?


「加瀬くん! 部室の鍵、持ってない?」


 休み時間になってから、大事なことを思い出した。あわてて、加瀬くんの席へ走る。


「ん? 持ってないけど、なんで?」


「わたし、昨日のスティック、どこかに置き忘れてきちゃったの。もしかしたら、部室にあるかもしれないから」


 昨日のライブの記念に、ずっと取っておきたかったのに。


「ああ、鍵なら遊佐が持ってるよ」


「遊佐くん?」


「うん。今朝、渡したから」


「そう……」


 遊佐くん。その名前を聞いただけで、胸がまた、キュッと何かにつかまれたみたいになった。


「わかった。ありがとう」


 お礼を伝えて、遊佐くんの教室に向かう。


「遊佐くん」


 ただ、名前を呼ぶだけなのに、前とは違うドキドキを味わう。


「おまえか。何?」


「ごめん。部室の鍵、借りたいの。忘れ物を捜したくて」


 心臓の鼓動の音を聞かれないよう、口早に用件を伝える。なんとなく、遊佐くんの顔を直視できなくて、視線をそらす。遊佐くんの髪、光に透けて、柔らかそう。


「俺も行く」


 すぐに、遊佐くんが席を立った。


「や、いいよ! 一人でも行けるから」


 あわてて、首を振ると。


「べつに、俺も用があるだけだから」


 遊佐くんに、横目で見られる。


「そ、そっか」


 バカだな、わたし。一人で意識しすぎてるみたい。でも、そういえば、学校の廊下を遊佐くんと並んで歩くのなんて、初めてだよね? 周りから、痛いほど視線を感じる。この状況、どう見えるんだろう?


「おまえも、しつこい女だよな」


 黙って歩いていたら、遊佐くんが唐突に口を開いた。


「何が?」


 いきなり、そんなこと!


「今朝、また泣きそうになってただろ?」


「あ、あれは」


 加瀬くんへの未練じゃなくて。


「違うもん。全然、関係ないもん」


 遊佐くんのことを考えてたからだなんて、絶対に言えるわけないけど。


「そういえば」


 ふっと、遊佐くんが調子を変える。


「加瀬を好きになったのって、学園祭だよな? 一年のときの」


「ええっ? どうして、それを……」


 わたし、そんなこと、美緒ちゃんにも教えた覚えがないのに。


「そのとき、俺、おまえの隣にいたんだよ」


「でも、だからって」


 不思議でたまらない。


「あのとき、加瀬が面白いことやってんなあって、見てたら」


「うん。見てたら?」


「横で、俺は、人が恋にちるときの顔を、初めて目の当たりにした」


 そこで、抑えきれなくなったように笑い出す、遊佐くん。


「な、なんで?」


 よっぽど、間抜けな顔してたの?


「あれで、ぼーっとなるのは、おかしいだろ? どう考えても」


「おかしくないじゃん! 全然!」


 つい、声を荒げてしまう。


「加瀬、人手不足で、よりによって、プログレ好きの先輩誘ったりするから……あの曲で速弾きって、ありえない」


「そうだった?」


 細かいところは、あまり記憶が……。


「あれは、笑うところだよ。加瀬は確信犯だけど、おまえ、頭おかしいよ」


 笑いすぎて、苦しそうに遊佐くんが言う。


「そ、そこまで言うこと、ないじゃん」


 わたしも恥ずかしくなってきた。


「いや、でも」


 遊佐くんが、やっと笑いをこらえて、話し出す。


「あれでいいんなら、俺が歌ってるところとか見たら、おまえは完全に恋に堕ちるな」


「そ……!」


 何を言ってるの?


「堕ちるわけないよ。絶対に」


 自分に言い聞かせるように、反論する。


「どうだろうな。まあ、好きになられても、こっちは困るんだけど」


 最後に意地悪く笑った、遊佐くんの顔を見ないようにして、ひたすら、わたしは部室まで歩く。


「遊佐くんが、困る必要なんてないもん。わたしは、遊佐くんなんて、何があっても好きにならないから」


「へえ。ずいぶん、必死」


「…………!」


 結局、スティックは無事に見つかったものの、遊佐くんに言われたことが、ずっと頭から離れない。


「スティック、あった?」


「あ、う、うん。お騒がせしちゃって」


 おかげで、教室で加瀬くんに声をかけられても、動揺したまま。


「そうそう。今日の放課後、急に部室が空いたらしいんだけど。立原、時間ある?」


「あ……ある!」


 練習できると知ったとたんに、さっきまでのもやっとした気分が消えて、体がウズウズしてくる。そう。まさか、今日が運命の日になるなんて、夢にも思わずに。






 放課後、部室のドアを開けると、先に来ていたのは、遊佐くん。


「えっと、今日もよろしく。加瀬くんに、よけいなことは言わないでね」


「よけいなこと? 何だっけ」


「……何でもない」


 さっきの会話なんて忘れたように、適当な態度の遊佐くんに、何気なく目をやる。やっぱり、いつもと同じように椅子に座って、ベースのチューニングを……と、あれ?


「遊佐くん、それ」


 何か、違うような。


「合同も終わったから。今日から、こっち」


 心なしか、いつもよりうれしそうに、よく似合う赤いギターをいじってる、遊佐くん。わたし、遊佐くんがギター持ってるところは見るのは、初めて。


「おまえの大好きな加瀬のベース姿も、今日見れるよ」


「えっ? あ……そ、そうだね。いや、うん」


 そこで、必要以上に取り乱しちゃったんだけど。


「ごめん。遅れて」


 すぐに、加瀬くんも到着。ピックをくわえながら、ベースを準備する加瀬くんも、新鮮な感じ。


「まず、何やる?」


 加瀬くんが遊佐くんを見る。新しく練習する曲は、初心者のわたしの意見を尊重しつつ、決めてくれていた。


「じゃあ、『Christmas Tears』で。あれなら、すぐ叩けるよな?」


「うん! きっと」


 大好きな、HIT PARADE のクリスマスの曲。


「いいね。Spotify に入ってなくて、覚えるのに苦労したけど」


「あ。そっか、ごめん」


 わたしったら、何も考えずに。


「中古CDでしか聴けない曲を集めるのが、趣味なんだろ? 友達にも、一人いるよ。そういう、おまえと似たような趣向のやつが」


「本当? ちょっと、会ってみたいけど……あ。じゃあ、いい?」


 加瀬くんの準備も終わったみたい。慣れてきたわたしは、ワクワクしながら、カウントを打つ。同時に入る、シンプルなイントロ。何かが始まるみたいに、体に音が刻まれていく感じ。すごく、いい! それに、加瀬くんの声まで聴けるなんて。


 …………。


 違う。一瞬、わたしの世界が止まったみたいになった。遊佐くんだ。遊佐くんの声だ。待って。お願いだから、ちょっと待って。自分でも、何がなんだか、わからないの。


 こんなの、反則だよ。いつもの遊佐くんの声と同じ。透明で、甘くて、でも、こびない。いつまでも聴いていたい、遊佐くんの声。


 全部見透かしているように、わたしの方を見て、遊佐くんが笑った。わたしは、恋に堕ちてしまった。ううん。本当は、とっくに堕ちてたんだ。



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