キンダンノキス
「いいかげん、離せよ。痛い」
遊佐くんの声で、はっと我に返る。
「えっ? あ……」
気がつくと、門の外まで遊佐くんを引っ張ってきていた、わたし。
「ごめんなさい」
つかんでいた遊佐くんの腕を、静かに離す。夢でも
でも、今にして思うと、心の準備も少しはできてたのかな。遊佐くんのいる前で、かろうじて、泣かないでいられるもん。
「それにしても」
遊佐くんが、嫌そうに顔をしかめる。
「これから、部室入るたびに悪酔いしそう」
「わ、悪酔いって」
何とも言えない、微妙な表現。
「おまえ、加瀬にふられたって、わかってるよな? ちゃんと」
「そ……当たり前でしょ? さすがに、そこまでバカじゃないよ」
失礼なのにも、ほどがある。
「そうか? もっと、泣きわめいたりされると思ったのに」
遊佐くんに、確認するように顔をのぞき込まれた。
「そ、そりゃあ、泣きたいけど」
ちょっと、ドキッとする。
「でも、今は大丈夫」
合宿のときだって、さんざん迷惑かけたもん。これ以上、遊佐くんに弱味も見せたくないし。
「ふうん。本当に?」
「うん。それにね、失恋しちゃったとき、絶対に聴こうと思ってた曲があるの」
「あ?」
そこで、不審そうな表情をする、遊佐くん。
「わたしのいちばん好きな曲。家に帰って、その曲を聴きながら、一人で泣き明かすの」
そう。きっと、こんなときに、とっておきの曲。
「そんな曲、普通、決めておくか? 暗い女」
まるで、見てはいけないものを見ちゃったような、目つき。
「い、いいじゃん! こういうとき、いちばん好きな曲聴きたいでしょ?」
だから、ショックを受けてるんだってば。もう少し、いたわってくれたっていいのに。
「完全に、ついていけない」
「べつに、遊佐くんになんて、わかってもらえなくてもいいもん」
わたしには、わたしの生き方があるんだから。
「とにかくね、今日は自分の部屋で……あ!」
そうだった。大事なことを忘れてた。
「何だよ? 急に、大きい声出すなよ」
「CD……今、遊佐くんとこだ」
「あ?」
遊佐くんが、迷惑そうに反応した。
「もしかして、俺が今借りてた?」
「そう」
泣きそうになりながら、答える。まさか、こんなにすぐ必要になるなんて、思ってなかったから……と、そこで。
「……今から、取りに来いよ」
ため息をつきながら、遊佐くんが言った。
「えっ? や、いいよ。さすがに、そこまでは」
あわてて、首を振る。
「おまえがよくても、俺が嫌だよ。そんな重いCDが部屋にあると思うと」
「ごめん、遊佐くん……」
わたし、いったい、何やってるんだろう?
「ごめんね。じゃあ、ここで待ってる」
遊佐くんの家に到着した頃には、あたりも真っ暗。ドアの前で小さくなる、わたし。
「寄ってけよ。お茶くらい、出すよ」
「えっ?」
意外なことに、普通に誘われた。
「や、いいって! 受け取ったら、すぐ帰るよ」
だって、時間も時間だし、何より遊佐くんは、一人暮らしで……。
「何? 襲われるとでも思ってんの?」
「ま、まさか!」
バカにしたような顔で、そんなことを言われると。
「そういうことなら、少しだけ」
これはもう、入らないわけにはいかない。落ち着かない心持ちで靴を脱いで、部屋に通してもらった。無駄に緊張して、床の上に正座してしまう。
「はい」
「……ありがとう」
遊佐くんがいれてくれた紅茶。口をつけたら、心が温まった気がする。
「で、どれ?」
前に、遊佐くんに渡した紙袋ごと、差し出された。
「えっとね、これ」
その中から、茶色っぽいジャケットのCDを取り出す。60年代後期のアメリカのソフトロック・バンド、 SAGITTARIUS の唯一のアルバム。
「例の曲って、『 Lonely Girl 』 か?」
「ええっ? なんで、わかるの?」
さらっと吐き出された、遊佐くんの言葉に驚く。
「これの最後に入ってるじゃん」
「え……?」
遊佐くんに手渡されたのは、わたしが前に加瀬くんにあげた、CD-R。加瀬くんのために、一生懸命編集した……。
「そう。よくわかったね。なつかしいなあ、これ」
わたしがいろいろ思い出しながら、ながめていたら。
「それにしても」
遊佐くんが、信じられないっていう顔をする。
「そういう曲を好きな男に渡すっていう、その恋愛のセンスのなさは、どうなんだ?」
「あ。たしかに」
遊佐くんの言うとおりな気が。そもそも、縁起が悪いというか。
「まあ、内容も、自分の世界に閉じこもってて、周りが見えてない女の曲だからな。おまえに、ぴったりだけど 」
「そうだったの?」
「そうだよ」
疲れた表情でベッドに寄りかかる、遊佐くん。
「ゆ……遊佐くんこそ!」
恥ずかしくなってきて、話を遊佐くんに振った。
「若松さんとは、どうなってるの?」
けっこう、いい雰囲気に見えたけど。
「ワカマツ? ああ、軽音の一年の。へえ。名前、調べたんだ?」
「や、違うけど……遊佐くんが、そう呼んでたでしょ? だから」
なぜか、必要以上に、うろたえてしまう。
「ああ、若松ね」
なんだか、おもしろがってるみたい。
「若松さんも、ここに来たことあるの?」
「さあ。どうだろう?」
わたしを見て、遊佐くんが意地悪く笑う。
「そんなの、おまえに報告する必要もないし」
「まあ、それは、そうなんだけど……」
と、何気なく、遊佐くんの手元に視線を落としたら。
「…………?」
あの、ベッドの下のすき間から、ほんの少しだけ見えてる小さな紙の箱。もしかして……!
「見るなよ」
わたしの視線に気づいた遊佐くんが、軽く笑って、その箱を奥に滑らせる。
「ううん、見てない! 勝手に、目に入ってきただけだから。や、違う。視界自体に入れてないから」
動揺して、パニックになってしまう。コンビニとかドラッグストアに並んでる光景は、意識せずに何度か見ちゃったことはあるけど。男の子の部屋に、実際に置いてあるなんて……!
「それより」
と、突然。遊佐くんは、さっきのCDを、わたしの手から抜き取った。
「最後の曲だっけ?」
「えっ?」
気がつくと、CDをケースから取り出してる、遊佐くん。
「やだ。待って……」
わたしが止める間もなく、再生ボタンを押されてしまった。
「や……だ」
もう、スピーカーからは、わたしの大好きなイントロが流れ始めてる。ああ、そうだ。いろいろな想いが、いっぺんに、わたしの頭を駆けめぐる。
去年の学園祭のときのこととか、加瀬くんと初めて話したときのこととか、それから、バンドに誘ってもらったときのこととか。そして、この曲を選んだときの、ドキドキしていた気持ちとか……。
わたし、加瀬くんのこと、本当に好きだったんだよ。本当に、本当に、好きだった。それほど、たくさんの時間を一緒に過ごしてきたわけじゃないけど、それでも。
ただ、なんとなく、加瀬くんの顔を見たり、声を聞いたり。加瀬くんの存在を感じているだけで、幸せだったの。
「加瀬くん……」
押さえた指の間から、涙が流れ落ちる。もう、わたしは加瀬くんを好きでいたら、いけないんだ。これからは、加瀬くんを好きでいられるのは、美緒ちゃんだけなんだ。そんなの、嫌だよ……と、そのとき。
「…………?」
わたしの左の頬に、ひんやりした手の感触があることに気づいた。
「遊佐……くん?」
そして、次の瞬間には、遊佐くんの左手が、わたしの髪に。ウ、ソ……。わたしをまっすぐに見る遊佐くんの目に縛られたみたいに、身動きがとれない。
遊佐くんの手で、ゆっくりと顔が引き寄せられていく。そんな、遊佐くんの吸い込まれそうな瞳を正視できなくなって、ギュッと目を閉じた、そのとき。
「止まった」
「へっ?」
不意に耳元で聞こえた、遊佐くんの声。わけがわからず、固まる。
「涙。止まったじゃん」
わざとらしく笑って、そう言ったかと思うと、遊佐くんは、あっさりと両手をわたしから離した。ゆ、遊佐くん!
「何? 何だったの? 今の、あの……」
心臓が今にも爆発しちゃいそうで、何をしゃべってるのかも、わからない。
「べつに、何もしてないだろ?」
遊佐くんは、笑いをこらえてる。
「してないけど……でも、しようとしたでしょ?」
「え? 何を?」
「な、何って」
思わず、口ごもる。そんなこと、わたしの口から……。
「何?キスされるとでも、思った?」
今度は、おかしそうに、わたしの顔をのぞき込む、遊佐くん。
「思わない……! 絶対、思ってないもん」
わたしは自分のバッグをつかむと、早足で玄関へ向かった。信じられない。こんなときに、からかうなんて。わたし、本当に傷ついてたのに。
「嫌い。遊佐くんなんて、大嫌い」
ありったけの力を込めて、言葉をぶつける。それなのに。
「ほら。これを取りに来たんだろ?」
悪びれない遊佐くんに、笑いながら、例のCDを差し出された。
「あ」
そうだった。わたしは、これを取りにきたんだった。
「ごめん」
無言で、CDを受け取る。
「悪かったって」
「…………」
「逆に、最後まで、ちゃんとしてほしかったとか?」
「そ、そんなわけないじゃん!」
そこで、つい返事をしてしまう。
「へえ。本当に?」
遊佐くんが、そんなことを言うから。
「当たり前でしょ?」
取り乱して、よけいなことまで、口から出てくる。
「ちゃんとした彼女もいないのに、あんなものを常備してる遊佐くんに、わたしの気持ちなんて、わかるわけがないよ」
しかも、あんな場所に置いてあるなんて、リアルすぎるし……!
「あんなのって?」
「や、だ、だから……」
そんなの、言えるわけない。
「まあ、おまえには、一生縁のないものってことで」
「そ、そ……」
こういう場合、どう返したらいいの?
「それにしても、腹が減った」
「ん? あ、うん」
どうでもいいように話題を流す、遊佐くん。たしかに、わたしも……。
「駅まで送るついでに、おごってやろうか?」
「……うん」
一応、ふてくされた表情を保ちながら、遊佐くんの横に並んで歩いていく。
「次は、学園祭か」
「わたしも、また入れてもらえるのかなあ」
もし、できることなら、練習もライブも、加瀬くんと遊佐くんと続けていきたいけど。
「多分、そうなるだろ? 加瀬も、おまえのドラムは気に入ってるみたいだし」
「…………」
今の。加瀬くん“も”ということは、遊佐くんも、そう思ってくれてるっていうこと?
「どうした?」
「ううん」
うれしかったの。声に出しては言わないけど……と、ふと遊佐くんとの会話が途切れた、その何気ない瞬間。わたしは心の中で、一年分の加瀬くんへの想いに別れを告げられた気がしたの。
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