花香り大神の芯燻らせ

真神

 花香り大神の芯燻らせ


 花の香りとは、不思議なものだ。例えば桜が満開に咲き誇ることで、人々の心は喜びに満ち溢れる。無意識に吸った花の匂い、それが生み出す陽気な空気に踊らされ、心というのは前へ前へと押し出されていく。浮き足立つ思考とそれに準ずる欲望が未知を探し求め、未来への希望で胸が張り裂けるほど高鳴る。それが春だ。……ただ、それだけではないのが世の理といったものであろうか。花は咲けば散りゆくものであると決められている。すなわち開花というのは、いつかの落花を約束しているのだ。大切な人、モノ、それに基づく関係にもそれが言えるだろう。出会いは、いつかの別れの運命を決定づける。陽気な空気から引き裂かれることもまた、春の空気と匂いの特徴なのだ。全く、意地悪で趣味が悪いやつもいるものだ。甘い罠に誘われ酔っている愚か者を、ひっそり笑っている悪魔が。


 休み明け月曜五時間目、算数の時間。

「一の段は分かったかな?一が一個二個三個って増えていって、それで……」

 どうやらかけ算の授業のようだ。では肝心の風華はというと……机に突っ伏し、すぅすぅ寝息を立てて気持ちよさそうに寝ている。なんと都合の悪いことに、彼女の席は窓側前から四番目。この時間は睡魔に抗うのに精一杯だろう。いや、もしかしたら彼女にとっては都合いいのかもしれないが。

「ねえねえ、ふうかちゃん?」

 右隣から咲が話しかけてきた。ガバッと体を勢いよく起こし、まるで寝てませんよと言わんばかりに背筋を伸ばし、シャキッとした顔になる。はっきり言って無理がある。そんな彼女を見てなんのアクションも無しに、咲は話を続ける。咲にとってこれはいつもの事なのだろう。

「こないだはごめんね、桜の並木見に行けなくて……」

 どうやら、桜の並木を見る約束を破ったことに申し訳なさを覚えているみたいだ。そのことを咲は思い出したらしいが。

「ううん、大丈夫だよ!まだ桜見れるから」

 そう元気よく大きな声で返事をする。しかし寝ていた影響か、周りの状況を上手く理解出来ていなかったらしい。

「風華ちゃん、桜ってなんのこと?」

 不気味な笑みが貼り付いた先生がこちらを見ている。彼女はドキッとして先生から目を逸らす。そう、今は授業中。話をするのに適していない時間ということだけは確かなのだ。そんな中、咲はピンチを感じて一足先に空気と化していた。彼女を心配する心はどこかに置いてきたようだ。

「じゃあ、風華ちゃん。この問題の答えはなんでしょう?」

 先生は黒板のある文字をチョークで示して風華に問いかける。そこに書いてあるのは『2×6=?』という計算式。彼女はかろうじて一の段を理解していたレベルの頭脳だ。だが、どうやら寝たり話したりしていた間に二の段に進んでいる。何も聞いていない彼女に分かるはずがなかった。

「ヒントを上げましょうか。二が六個ですよ」

「えっと……二が一個で二……二つで四?えっ、あっ、その……」

 指で数えながら目の焦点がぶれていく。彼女の頭のてっぺんから、見えないはずの煙がたっている。彼女は一年生から算数というのが苦手で、嫌いだった。その証拠にたった今、算数によって思考がショート。目を回したがためにノックアウトである。先生はそんな彼女の様子をみて、軽めのため息を吐く。

「全く、ちゃんと聞かないからですよ」

 そう柔らかい声で注意し、彼女への尋問は終わった。教室が笑い声で満たされている。風華は恥ずかしくて耳を真っ赤にした。これはもう、ある種の拷問とも言えるだろうか。だがこんな辱めを受けたその直後なのに、また居眠りし、きっちり怒られるとこまで


 放課後、帰りのホームルームを終えた風華は先生の元へ。先生は自分の教卓で配布資料を片付けている最中だ。先ほど分からなかった、二の段でも教えてもらうのだろうか。

「せんせー、マガミって知ってる?」

 彼女からの不意の質問に一瞬ぽかんとする先生。それもそうだ。先生は授業の質問、もしくはでも聞くつもりだったのだから。そもそも真神なんて言葉は、今日日小学二年生の口から滅多に出ることがない。

「まがみ……というと、真神のことかな?」

「マカミ……?」

 イマイチ伝わってないことを悟った先生が、黒板にチョークで『真神』と書く。

「これでまかみって読むの、どっちも習ってないけど意味はわかる?」

これは神様でしょ?えっと……こっちは……」

「これはね、本物、とか本当、に近い意味の漢字なの」

「じゃあ本物の神様、ってこと……?」

 意味を考え頭を抱える風華。その目は算数の時間とは比べ物にならないほど頭を働かせている、真面目な目だ。しかし自分の興味のあるものに対し真剣になるのは、決して悪いことではない。先生がそんな彼女を見て苦笑しながら話を続ける。

「そういうわけでもなくてね。真神ってのはオオカミの神様」

「オオカミ!」

「そう、オオカミ。ニホンオオカミが神様になった姿って、よく言われるのよ」

「ニホンオオカミって日本のオオカミなの?」

 彼女は言い終わってからハッとする。そう、先日桜真神にも同じ質問をしていたのを思い出したのだ。ただ、そのアンサーはだったので、あながち無駄なことではないだろうか。

「そうよ、でもの」

「いないって?」

「絶滅っていうんだけど。つまり、みーんな死んじゃったの」

 彼女は先生の言葉に息を飲む。そう、ニホンオオカミは日本列島にのみ生息していたオオカミであり、百年ほど昔に絶滅したとされている。その原因は病気なのか、狩り尽くされたからなのかは未だにはっきりとしていない。ただ、絶滅したことだけは確かなのだ。そんな話を聞いた彼女は桜真神の姿を思い返す。もしかして彼は百年以上生きているのではないか。そんな疑問をふと抱いた。一通りの説明を終えた先生は、彼女の悩み抜いている目を見て問いを投げかける。

「それで、なんで風華ちゃんは真神のことを聞いてきたの?」

「あ、それはね!」

 満面の笑みでを話そうとした彼女。しかし彼女は口を、自身の手で勢いよく塞ぎ言い留まった。うっかり話しかけた桜真神についての話を、無理やり奥へ押し込んだのだ。先日、桜真神と交わした約束。それを彼女は律儀に守っていた。約束をきちんと守ろうとする健気な点は、彼女の利点だ。

「ほ、本で出てきたからなんの神様なのかなって!」

 言葉につまりながらも何とか軌道修正をした。挙動不審なので怪しまれはするものの、先生は特に気にすることもなく問の答えを探す。

「風華ちゃんは随分難しい本を読んでるのね?……そうねえ、確か真神は作物を守る、厄除けの神様だった気がするけど」

 先生は難しい顔をし、腕を組み、斜めを上を見て考え込んでいる。

「聞いたことがあるのは、畑を荒らすイノシシとか、シカとかを倒してくれるって話ね」

「あ……!」

 風華はあのボロボロになっていた桜真神の体を思い出す。あれは明らかに、であった。そして森のすぐ側には田んぼだけでなく、ネギやイモの畑もある。きっと桜真神は長年、作物を守ってくれているのだ。あんな不気味な森にはイノシシやシカがいたとしてもおかしくないのだから。納得した表情の彼女は、背負っているランドセルの肩ベルトを掴んで、ぴょんとその場で跳んで背負い直す。

「せんせー、もう帰るね!」

「あらもう大丈夫なの?」

「うん、真神さんのこと教えてくれてありがとうございました!」

「はい、じゃあ気をつけて帰ってね」

 風華は先生に、お辞儀をして走っていった。先生はそんな彼女の後ろ姿を見て、不意に疑問を浮かべる。本で読んだならば、真神という漢字を知っているのではないか。

「……カタカナだったのかしらね?」

 サラッと疑問を自己解決し、作業に戻る。この疑問を深く追求したとして、のはわかっているからだ。子どもの疑問はどこからともなく湧いてくる。先生という立場で必要なのは、その疑問を共に解決しようという姿勢である。子どもを疑うことは一切不必要だ。だがそもそも疑いを向けたとして、彼女が本物の真神に出会った、なんて推測ができるはずもない。彼女が現在体験していることは、全くの異常なのであるから。

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