桜真神

 ザッザッザッ。外は夕方にもならない真っ昼間であったはずだ。それに太陽の光は煩いくらい主張していた。しかしこの森ではそんな光でさえ、重なり合った木々の葉に阻まれ、頼りにならない淡い光に。それはもはや、光としての役割は果たしていなかった。この森、昼間でも足元をうっすらとしか視認できないほど暗いのだ。小さな冒険者である風華も、ここに至るまでは威勢がよかった。しかし実際に入ってみればその暗さに怖気付いている。ほのかに吹く風が葉っぱを揺らし、サーサー……と背筋が思わずピンとなるような音を鳴らしている。彼女はその不気味さに、既に音をあげようとしていた。いや、既にもう限界は来ていた。彼女ほどの幼さであれば当然と言ってもいいだろう。彼女は来た道を引き返そうと決意を固めた。今回の経験で、後先を考えることの大切さを知っただろうか。だが、彼女が周りを見渡すと同時に……顔に不安が浮き出た。そう、もう後戻りができないことに気がついたのだ。何も考えず歩いてきた上、光を遮る葉がもたらした闇によって、来た道が分からなくなってしまった。彼女のうるうると涙を溜めた瞼からは、今にも雫が零れ落ちてしまいそうになっている。絶望を感じて歩みを止めて途方に暮れていると、先の方にが見えた。ほんのわずか、灯篭のようなぼんやりとした灯りが。足元をよく見ると、地面に点々と石畳の跡が、僅かに浮き出ていた。この道を辿ると何があるのだろう。彼女は怖くてたまらなかったのに、急に好奇心が恐怖の上塗りに成功した。そして彼女はこの印に沿って足を進める。背を縮こめ、きょろきょろ見回しながら、数段の段差のある道を辿る。すると、二つの灯篭の間にある石造りの祠を見つけた。彼女の背と同じくらいの大きさの、小さな祠だ。どれほどの間、手入れがなされてないのか。その祠はひび割れ、苔に侵食され、ギリギリそのなりを保っている。だが、彼女の目に映ったのはそれだけでは無かった。祠の前に、が寝そべっていたのだ。間違いない、先程目撃した生物だ。遠目から見た時はそれなりに大きいと感じただけだったが、こう間近で見ると……やはりかなり大きい。先程の祠と比べ、全長は恐らく三倍……いや四倍はあるだろうか。この犬がその気ならば、彼女を丸呑み出来てしまうだろう。存在するだけで空気が気圧されるほど巨大だ。だが、空気が押しつぶされるようなピリピリとした威圧は、巨大だからというだけで感じるわけではなかった。彼女はその生物から、を感じているのだ。その犬の体毛は薄い桃色、それだけでなく、全身の毛がほのかに白く発光している。ボロボロで毛並みはボロボロなのに、思わず美しさでため息が漏れてしまうような、風格のある毛色をしている。……神秘的だ。彼女がそうして眺めているうちに、は目覚めた。身体を起こし、彼女を赤色の眼光で睨みつける。彼女は恐怖で声も出せず、逃げ出すこともなく固まってしまった。数秒目を合わせた後、やっとそれが口を開く。

「……見えてるのか」

 想定外の言葉が彼女の耳に響く。目の前の動物が喋ったことに驚いているのもあるが、それより気になるのは内容。?彼女の瞳にはしっかり映し出されているのだから、当然見えているに決まっている。見えないものは見えない、それは当たり前のことだ。

「おい人の子、なぜここにいる。迷ったのか?」

 泣き出しそうなほど怖い顔。威圧感のある低い声。しかしその恐さとは裏腹に、こちらを気遣うように話しかけているようだ。それを感じ取った彼女は恐る恐る返事をする。

「えぁ、その……森に入る犬を見つけて」

「犬だと?」

 彼女が犬と呼んだ者の顔が強ばる。彼女の恐怖がまたぶり返した。

「……あぁそうか、か?」

 当の本人は苦い顔をして、小さくブツブツと唸る。彼女は恐怖で支配されているものの、彼の傷跡が気になって仕方がなくなっている。爪で引っかかれたような傷、何かに刺されたような傷など、体中に目立つ真紅の傷跡がいくつもあり、痛々しい。そこで思わず彼女は声を出してしまう。

「その傷、だいじょーぶ……?」

 勇気を振り絞り、震えた声で話しかける。彼はそんな彼女を一瞬鋭い目で見つめ、すぐさまそっぽを向く。

「……ふん、ガキに心配される傷では無い。それより、用がないなら立ち去れ。ここはお前のようなガキが来るような場所じゃねえ」

 どうやら、大きな犬の生物は彼女に帰って欲しいようだ。しかしその気持ちは、恐怖で正常な判断を失った彼女には届かない。いや、元から好奇心で正常な判断はしていなかったが。

「ねえ、どうして喋れるの?もしかして着ぐるみ?」

「着ぐるみ……?」

 犬の生物の耳がピクりと反応する。と同時に顔がより強ばる。

「この俺が着ぐるみだと?恥を知れ、痴れ者が!」

 いっそう険しい、牙がむき出しになった顔で恐喝する。彼女の顔は恐怖に染まり、重々しい雰囲気が彼女を突き刺した、その直後。犬の生物は彼女に迫り、方を前足で掴んで大きく口を開けた。四隅に生えた四つの大きな牙。その気になればコンクリートにさえ穴を開けてしまえそうなほど尖った歯。肉食らしいドロドロの唾液で満たされた口内、そして舌。まるで赤ずきんに出てくるオオカミだ。……食べられる。そう悟った風華は震えることも出来ず固まっている。怖くて勝手に視界が閉ざされる。こんなことなら森に入らなければよかった、なんて今更反省しても遅い。凶暴なオオカミは、彼女を頭から……。

「……なんてな、だ」

 気の抜けた声がぽつん。オオカミのような怪物は彼女から離れ、やれやれと言った顔でその場に座り込む。実は彼、この厄介な少女をどうやって追い返そうかをずっと考えていた。それはこの森は危険だからといったも含まれているが、単に眠りを妨げられたくないからだ。この森の主のような生物も、子供という存在をよく知っているようだ。彼女は頭ごなしに拒否したところで居座るだろう。その根拠は、彼女が彼に興味を持ってしまったと推測できるから。子供に興味を持たれたら最後。満足するまで質問攻めをされ、こちらの話がまともに通じない自己の欲求を満たす怪物へと化す。要するに、相当に面倒くさい存在であるということだ。そこで彼は、子供ならば少し怖がらせれば泣いて逃げる、そう思ったのだ。あとは使上手く誘導し、外まで連れて行けばいい。そう考えていたが、彼の企みは甘かった。子供とは予想外の行動をとるものであり、予定を狂わせるのが子供の役目。

「あ……ううあああああああ!」

 恐怖で埋め尽くされた彼女は、その場に体を固定されたままギャーギャー泣き出した。……まあ、この行動は予想の範疇ではあるだろう。子供のいろは入門編だ。しかしどうやらこのオオカミの予想にはなかったらしい。実はあまり子供を知らないのかもしれない。

「はぁーあ、少々やりすぎたな、こりゃ」

 引きつった顔で面倒くさそうに彼女を見ている。だがこのまま泣かれたら、さらに面倒なことになることは分かっていた。なにより彼が、静かに眠ることができない。

「仕方ない」

 オオカミの化け物がポツリと呟いたと思ったら、。するとどうだろうか。驚くことに、風華の地面に可憐な花々が咲き始めたのだ。花々は手のひらで包めるほど小さい。しかしそのどれもが鮮やかで、自分というものを強くアピールしている。彼女はそれが目に入ると、泣き止むどころか、目を輝かせるほどの興奮を覚えた。

「すごいすごい、魔法みたい!」

「そうだろう。俺には花を咲かせるなんて造作もねぇ」

 調子を取り戻した彼女を見て、胸を撫で下ろした。その彼を、また新たな興味と興奮が襲う。

「ねえ、もしかして異世界から来たの!?」

「あぁ、イセカイ……?」

「魔法が使えるし、犬が喋ってるんだもん!アニメで見たことあるんだ!」

「あにめ……?」

 彼に怒涛の質問が襲う。現代に知らない人がいるほうが珍しいそれらを、彼はどうやら知らないようだ。ちなみに彼女は、普段から異世界転生の漫画やアニメを読んでいる。派手な魔法が彼女の大好物だ。彼女の質問攻めに負け、彼は「わかったから落ち着けガキ」と静かに唸る。ただその声と表情には、微小な戸惑いが混じっていた。

「……まず一つ約束しろ。俺が今から話すことは誰にも話すな、いいな?」

「えーなんでー」

「いいな?」

 強い口調の念押しにより、彼女の顔が曇り、目が潤む。また今にでも、森を大きく揺らすほどの轟雷が響きそうだ。

「チッ、だから……じゃあ、俺とお前だけの秘密だ、いいな?お前だけの特別だぞ」

「特別!うん、わかった!」

 実に単純。言い換えただけでスッと納得してしまった。それから静かな落ち着きのある声で、犬かオオカミか未だ謎の生物は話し始めた。

「俺は桜真神サクラノマガミ

「さくらのまがみ?」

「……簡単に言えば神だ」

 本当に簡単に言うものだ。犬なのかオオカミなのかも分からないから聞いたのに、帰ってきた答えは神。

「え!神様なの!?すごいすごい!」

 彼女の好奇心はさらに勢いを増す。私は神です、という発言を信じてしまうのは非常に子供らしいだろう。しかしそれでいい。神である彼にとって、シンプルで一番に求めていた反応であった。生意気なガキなら、うそだあ!と笑いながらからかっていたのだろうか。そのガキがどうなるかは……この凶暴な体を見れば想像は容易い。

「マガミさんってなんの神様なの?戦う?」

「あー……真神というのは、俺のようなオオカミの神様だ。ニホンオオカミっつうらしいが」

「にほんおおかみ?日本のオオカミってこと?」

「なんだ知らねえのか。ま、ガキのお前にゃあまりピンとこねえか」

「ううん、すごいことはわかるよ!」

「そりゃ分かってるうちに入んねえだろ」

 興奮冷めやらぬ彼女に軽く苦言を零すが、もちろん耳に入るわけがない。

「それでそれで、まがみってことは、桜の力を使う神様なの?」

「ま、概ね間違ってねえな。正しく言うとすれば豊穣の……つっても分からねえか」

「ほう、じょう?」

「そうだな……お花の神様だ」

 お花の神様と聞いて、彼女は先程の、足元に花が咲き誇るあの光景を思い出した。魔法と呼んだあの技、あれは神の御業だったのだ。さらに彼女の目はキラキラと輝く。その瞳には畏敬の念が篭りはじめた。

「ねえねえ、うちの近くの桜の並木もマガミさんの力なの?」

「桜の並木……ああ、あの場所のことか?まあ、そうだな。一重に俺だけの力とは言えないが」

「やっぱり!ありがとう、私あの場所好きなんだ!」

 ありがとう。その言葉に思わず桜真神の耳はピクピクッと余分に反応する。しばらく聞くことのなかった、感謝の言葉。一瞬、狼狽えて目を丸くしていたが、すぐにフンと鼻を鳴らす。平然を装っているが、隠しきれていない得意げな表情が滲み出ている。

「よくわかってんなガキ。俺もあの場所はお気に入りだ」

 そう語る彼を、風華は不思議そうに見つめていた。なにを見つめていたのだろうか。それは、だ。

「マガミさん、ほっぺに桜の花がついてるよ?」

「……あ?」

 彼自身も気づいていなかった。それは彼の左頬。神秘的な薄桃色の毛並みに、鮮やかな桃色の桜の印が浮き出ていた。彼は右の前足で、自ら触って確認する。……温かい。春の陽気に照らされたかのように、温かかった。

「どういうことだ、が」

「しんこうの力?しんこうってなーに?」

「そうだな……」

 彼は体の隅々を見渡す。その様子を見て、彼女もようやく気づいた。まるで信じられないものを見たかのように、風華の目に驚きが浮き出る。ボロボロだったはずの傷だらけの体は、いつの間にかそこにはなかった。彼はひとつの結論を生み出す。今このとき、彼女から信仰を得ているのだと。桜真神にとっては……というより、信仰を力とする神々にとっては信仰こそ生きる力なのだ。何を当たり前のことをと思うだろう。しかし実際にそうだとしか言えないのだ。例えば信仰があれば、彼のように傷も即時に癒え、神の御業も十分に行使できるだろう。彼は風華に信仰について理解してもらうために、言葉を選んで話しはじめた。

「信仰ってのはな、神を信じて尊敬することだ。今のお前みたいな感じでな」

「えっと……私何もしてないよ?お金も持ってきてないし」

「はは、ガキの金に期待してねえ。それにな、信仰ってのはそう大層なもんじゃねえ」

 彼女の頭に前足をぽふっ、と優しくおいて話を続ける。彼女は一瞬不思議そうに固まるが、春風のような心地よい温度で安心を覚え、気持ちよさそうな顔にほぐれる。

「俺を神だと信じる、俺がここにいると信じる。それだけでも信仰となり、力の一部となるというもんだ」

「……うーん?」

 未だ理解していない表情をしている彼女を見て、毛でふかふかの右手を頭から離す。そしてため息をついて気恥ずかしそうに一言。

「つまり、お前が俺に興味を持ってくれたおかげで力が湧いたっつうことだ。ったく、なんで俺がこんなこと言わなきゃならねえんだ」

「……うん!どういたしまして!」

 これは。少し思考は試みたが諦め、いつもより明るく返事をして誤魔化している。彼はまた深くため息を吐いた。

「マガミさんはしんこう?があれば元気になるんだよね?」

「そうだ。お前だって、応援してもらったら嬉しいだろ?」

「うん!あ、じゃあ友達にもマガミさんのこと」

「ダメだ」

 彼女が言い終わらぬうちに、彼が食い気味に制止する。当然、彼女はぽかーんと放心状態になる。

「あのな、神が見えるのも、信じてくれるのもお前くらいだ」

「え、そんなことない!みんな優しいもん」

「そうかもしれねぇ。だが、最初に約束しただろう?俺らだけの秘密だって」

「うん……でも」

「気持ちは嬉しい。だが、その優しさは時に残酷な結果を生むんだ。だから必要ない。……

 秘密、風華だけでいい。そんな言葉に、またも簡単に納得し元気になる。単純でよかった、そう彼はため息を深く吐いて思った。

「じゃあ、また会いに来ていい?」

 彼女の突然の申し出を彼は呑み込めず、唖然とした表情で固まる。この子供は怖い思いをしておいて、また会いに来ると言うのだ。それは神だから?見返りを求めているから?卑しい目的があるから?……いや、きっとそんな思考ものはない。対等の存在、それも友達にでもなろうとでも考えているに違いない。実に子供らしく愚かだ。

「……面白い」

 思わず思考の一部を漏らす桜真神。その顔には、何かを夢みたような笑みが映っている。すくっと立ち上がって彼女の前に立ち、また先程のように目を閉じ念じ始める。彼女はその光景を、興奮しつつ静かに見守っている。すると桜真神の体毛と同じくらい、薄く発光している桜の花びらが足元に出現し、照らしだした。その花びらはどこかに向けて一本の道筋を作っていく。

「この印を辿れば外へ出れる。暗くなる前にとっととお前は帰れ」

「ねーねー、また会いに来ていいの?」

「……勝手にしろ」

「勝手にしろって?」

「……勝手にしろってことだ」

「うん!!」

 彼女は元気よく飛び跳ねながら手を振って去っていく。まさに嵐のような騒々しさだった。桜真神は、彼女が去っていった方をしばらく見つめている。

「……ふっ」

 まるで新たな楽しみができたような笑みを残す。は、口を大きく開けて欠伸をし、体を伸ばす。力を得たとしても、疲れはとれるものではない。不意に訪れたに、満足そうに舌なめずりをし、丸まって眠りについた。

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