弁当
朝日が窓から照り入り、カーテン越しに朝であると主張している。暖かな気配を感じ、風華は目を細く開ける。時計を確認すると今はだいたい九時四十分のようだ。朝かどうかは怪しい時刻である。上半身をゆっくり起こし、ぐわあ、と大きく体を伸ばして欠伸をする。平日ならば大惨事だが、本日は土曜日。どれだけのんびりしても許される日だ。彼女は立ち上がって部屋から出る。階段をとつん、とつんと足に力を入れたり抜いたりして降り、リビングに向かう。そのリビングからは、ガハハハ、とやかましい豪快な笑い声が聞こえてくる。それはバラエティ番組を見ている風華の父親、
「よぅ、おはようさん。珍しくはええな」
「またおとーさんお酒飲んでる!」
風華はダラしない父親の横に並ぶ缶ビールを指さし、ムッとした表情になる。そんな彼女に対して彼は、缶ビールをすすり飲み、豪快に笑い出す。
「ガッハハハハ。お酒は幸せになる薬なんだぞぉ?」
「はあ、またお母さんに怒られるよ?」
「いいのよ、風華」
台所からやってきた彼女の母親、
「ダッ!?」
彼は困惑と痛感が混じった声を出し、祥子の方を見ながら頭をさする。
「お父さんはね、仕事で会った新人の女性に、
「もーまたぁ?この前だって、
彼はこの二人の会話により、さらに精神に傷を負っているのだが、二人は知る由もない。祥子が持ってきたビール缶を開け、上を向いて豪快に飲み干す。その目からは、太陽光の反射で輝いた涙がさらーっと垂れている。
「だから、私はいいのよ。そうやって苦労して働いてくれているのだから」
「……うん!おとーさんいつもありがとう」
風華の笑顔が父親に向けられる。グシャッと潰れたビール缶を片手に持ちながら
「うおぉ、なんて可愛いんだ風華はぁ!とーさんも風華がいてくれてありがとうだぞぉ!」
酒臭いデブのおじさんは、酔って情緒がおかしくなっている。風華を抱きしめようと彼女に近づくが、「酒臭いからやめて」という冷酷な一言によって硬直させられる。そして小走りで、台所にいる母親の元に向かう。祥子は台所でお弁当を作っている。お弁当箱はおせちの重箱のように、真四角で三つの層に分かれている。中身には断面が見事な卵焼きに、ハムとチーズのサンドウィッチ。サンドウィッチにはポップな柄の、小さな旗が立っている。さらに昨晩のおかずのポテトサラダに、鮭や昆布のおにぎり。デザートとして、椿の花のように艶紅が綺麗なさくらんぼ。まだスペースが空いているが、そこには今電子レンジで温めている、冷凍食品の唐揚げが入るだろう。
「おかーさん、お弁当ありがとう!」
「いいのよ、ピクニック楽しんでらっしゃい」
そう、彼女はこれからピクニックに出かけるのだ。昨日のうちに、母親にお弁当の制作をお願いしていた。しかしこのお弁当はどう見ても一人分ではない。
「ピクニックは咲ちゃんと行くのよね。
「ううん、他にもいるから大丈夫!」
「じゃあ心配ないわね」
唐揚げをも詰め終わったお弁当箱を、祥子は彼女が準備していた大きめのトートバッグに入れる。風華はその隙に洗面台に向い、蛇口から水を出し、ばしゃん、ばしゃばしゃ……と顔を洗う。ボサボサの、ビターチョコレートのような色した髪の毛を櫛で梳かす。普段から手入れをしているからか、肩より下まで伸びた髪はふんわりとしていて艶がある。髪の毛からはほのかにバラが香っている。シャンプーの香りだ。今度は小走りで自分の部屋に戻り、パジャマを乱雑に脱ぎ捨て、乱暴にベッドに投げる。部屋のタンスから、白色のシンプルなスカート。それと水色の、可愛らしいイルカのキャラクターが印刷された服を取り出し、着る。彼女は姿見で自分の姿を見て、満足そうに頷いた。ピンクのリボンの刺繍がチャームポイントの、白い靴下を右足、左足と身につける。これで準備は万全だ。これまた小走りで階段を駆け下りて玄関に向かう。玄関までバッグを運んでいた祥子は、彼女にそれを手渡す。しかし彼女の顔には、娘への不安が浮かんでいるようだ。そんな中、風華は靴を履き終えて準備万端。
「重いけど……大丈夫?」
「うん、ランドセルより軽いよ!」
「そう?じゃあ気をつけるのよ、夕方までには帰ってきてね」
「はーい!」
彼女は肩にトートバッグの紐を引っさげて、元気よく玄関から駆け出していった。
……春風がやんわりと吹いている。少女は陽気に照らされ、田んぼ沿いの道を歩いて進み、森へと向かう。こんな昼間でもこの付近は人気がかなり少ない。車が数台通るだけで、歩行者も自転車も全くいない。静かで、草が風に吹かれている音だけが響いている。風華はそんな状況下、意気揚々と軽い足取りで歩みを進めている。そして森へ、最初訪れたときとは正反対の明るい表情で入っていく。そう、彼女のピクニックの相手は桜真神だ。先日以来、おおよそ一週間会っていなかったが、彼女は完全に彼に魅入っている。花を咲かせる神の御業も強く印象に残っているが、一番の印象はもふもふのあの体。春の陽気のような暖かい空気。頭をさっと撫でられたあの瞬間は、冬のふかふかの毛布に包まれるように幸せで、そんな体験が忘れられないのだ。そして森に踏み入れたとき、彼女は違和感に気がつく。前は無かったはずの黄色のタンポポが、どこかへ続く道を作っているのだ。そしてそれは、常夜灯のようにやんわりと輝いている。それだけで、彼女はこの花を桜真神の力だと確信した。タンポポを辿り走っていると、やがて見覚えのある、灯篭の橙色の光が見えてきた。あははっ、と嬉しそうに声を上げて駆け寄る。ついに辿り着いた祠の前には、彼女が求めていた存在がいた。
「……む、よく来たなガキ。正直来てくれねえほうが助かるが」
面倒くさそうな表情で、顔をしかめているオオカミがいる。そう、桜真神だ。頬に桜の文様のある、オオカミの神様。しかしその姿を見た彼女は何故か唖然としている。それもそうだ。なぜなら、先日会った時の姿とは所々……いや、大きく異なっているのだ。四足のオオカミらしい
「どうしたガキ。俺をじっと見て固まりやがって」
「え、ま、真神さんだよね?」
「はあ?もう姿忘れちまったのか?」
「いや違うよ!違うけど、その」
目を見開き眺める風華に対し、呆れた声色で返す桜真神。そして彼女は、慌てて彼への言い訳を探している。そんな慌てふためく彼女を見て、桜真神は意地悪い笑みを浮かべている。
「冗談だ。全く、真面目だなお前は」
フン、と馬鹿にするように鼻を鳴らす。
「これが本来の俺の姿だ。神らしいだろ?」
「うん、すっごく綺麗だよ!」
彼は子供の浅い感性に文句を言おうと思った。だがそれより先に、フフン、と嬉しそうな鼻息が漏れてしまった。彼は人に姿を見られたことがない。見られることもなければ、容姿に対する感想を貰うこともない。
「あ、真神さん赤くなってる!照れてる?」
「そんなわけないだろ!無作法者がっ!」
「ぶさほうもの?」
「っ……すまねぇ、つい声荒げちまったな」
彼はバツが悪そうに頭をボリボリかく。人間相手にこの程度で声を荒らげるなど、神として恥だ。不意に、彼はなにかに気がついて彼女に近づく。どうやら、彼女が右手にさげているバッグの中身が気になったようだ。
「それはなんだ。食いもんの匂いがするが」
「うん、真神さんと食べるお弁当だよ」
「……は。なんだと?」
桜真神は理解できないという顔で彼女を見つめる。
「だから、真神さんと食べるお弁当!作ってもらったんだ!」
彼女は満面の笑みで元気よく応える。しかし桜真神の口は、指一本入るくらいの大きさに開いた状態で固められたままだ。貢物を受け取るならまだしも、人の子に食事を誘われるなんて経験したことがない。神としてどう答えるのが正解なのか、分からなくなっている。彼女はそんな彼を心配そうに見つめている。
「……どうしたの?」
「あぁ。なんだ、その……いいのか?本当に」
「なにが?」
「なにがって……言わなくてもわかんだろうが。こんな妖しい奴に場所だぞ、いいのかよ」
「えっと、なにがいけないの?」
「はぁ!?」
今度は彼女が困惑で固まってしまった。桜真神は思う。人気のない危険な森に単身で踏み込み、見ず知らずの
「こんな危険な森に独りで来るなんて、異常でしかねぇよ。お前はもう少し危機感というものをな」
「そんなことよりお弁当!」
彼女のためを思い、桜真神は声のトーンを落としてお説教を始めた。しかし彼女は彼のお説教をよそに、バッグからレジャーシートを取り出した。真面目にお説教を聞いてくれるほど、子どもは素直じゃない。それにこの説教をするには、既に遅いと言っても過言ではない。彼女は取り出したシートを広げ始める。二人三人座れるほどの広いものだ。彼女はそれを広げるのに苦労している。何度も忙しない様子でやり直すが、端が畳まれたりくしゃっと潰れたりして、上手く広げられていない。しびれを切らした桜真神は、額に手を当て、大きくため息を吐く。
「……はあぁ。ガキに何言ってもしゃあねえか。ほら、貸してみろ」
説教を諦めた桜真神は、彼女が持っている方とは逆側の端をもち、彼女の動きに合わせて綺麗に広げた。神様にこんな雑用をさせるなど、あまりに貴重な経験である。彼女は目をキラキラ光らせて、ありがとう、と無邪気に笑ってみせた。その表情があまりに輝いているので、光に照らされた彼の顔は思わず赤くなった。彼はそれを隠すように澄まし顔をする。しかし思考とは裏腹に、尻尾がぶんぶんと揺れている。照れている彼を特に気にもせずに、広げられたシートに転がるよう勢いよく座り、シートを叩いて彼に座るよう促す。
「ほら、真神さんも!」
「お、おう」
ぎこちない様子で片足ずつ踏み入り、彼女の対面であぐらをかいて座る。彼女は三段の弁当箱を取り出し、一段ずつ横に並べて置く。
「おぉ……こりゃ見事。美味そうじゃねえか。だが、ちと多くねえか?」
「だって、真神さんいっぱい食べると思って」
「まあそりゃ、出されれば食うが……」
桜真神は目の前の食物をじろじろ見ている。かと思えば体を乗り出し、おにぎりや卵焼きに鼻を近づけスンスンと匂いを嗅ぎ始めた。そんな不審な仕草をする彼に対して、彼女は首を傾げている。彼女に気づいた彼はハッとして弁当箱から目を離し、むぅ、と唸る。困り顔をしながら、きまり悪そうにシートの境界線を見た。
「……実を言えば、こういったのを食ったことがねえ」
「え、どれどれ?どれのこと?」
彼の零した言葉を聞き、風華は彼に食べたことのないモノがあるのかと思って尋ねた。しかし彼女はこの後、彼の言った意味とは異なる意味で受け取っていることに気付かされる。
「弁当っつうか……人が加工したモノだ」
「え!?」
彼は目の前に展開された食べ物を、興味深そうにじっくり覗いている。彼は長らく神として存在していたが、貢物として食べ物を貰ったことがない。……いや正確には、こういった加工された食べ物を貰ったことがない。
「もしかして、料理を食べたことがないの!?」
「りょうり……おう、多分そうだな。俺は穀物とか野菜……あとは酒ぐらいしか貰ったことがねぇ」
「野菜とお酒だけ!?じゃあ早く食べよう。卵焼きとか甘くて美味しいよ!」
彼女は割り箸を取りだして桜真神に差し出す。彼は箸の持ち方は心得ているようで、割り箸を割り、右手で器用に持っている。彼女は八等分され、金色に輝いてる厚焼き玉子のひと切れを箸で掴み、口に運ぶ。
「んー、おいしぃー!」
幸せそうな顔に溶けている彼女を見て、桜真神もゆっくりと卵焼きを掴み、口に運ぶ。瞬間、彼の顔が驚きで染まる。
「な、なんだこれはっ!?口当たりがふわふわで、ほのかに甘い……優しい甘さだ」
「でしょー!」
作った本人ではないのに、何故か自慢げになる。弁当に夢中になっている桜真神は、そんな彼女に目をやる余裕もなく、弁当の具材それぞれを摘んでいく。凶暴なオオカミの見た目や普段の荒々しい口調からは考えられないほど、一つ一つ作法が人間らしく丁寧だ。
「……不思議なものだな」
箸を持ったまま感情にふけるような表情で
「……ありがとうな」
小声で不意に桜真神が呟く。その呟きは、肩の力が抜けて自然と出てしまったものである。いつからか抱いていた穴が埋められ、余裕ができたがために声になった言葉。それを彼女は聞き逃さなかった。顔をぱあっと明るくして、彼との距離を詰める。
「え、今ありがとうって言った!?」
「っ!無視しろ、無視だ!」
照れを隠すように声を荒らげ、すぐさま唐揚げに箸を伸ばして口に運ぶ。よく見ると彼の顔は先程までより、ほんの少しだけ赤みがかっている。そんな彼を見た彼女は、とても嬉しそうにニヤニヤしている。
「真神さんに喜んでもらえてよかった!」
「あぁ?嬉しいに決まってんだろ。これほどに贅沢な賜り物、喜ばなきゃバチが当たる」
恥で冷静さを失っていた桜真神だったが、段々落ち着きを取り戻してきた。尻尾をゆらゆらと揺らし、目を閉じて供物を噛み締めている。だが落ち着きを得たのは彼だけではなかった。
「ねえ、真神さん」
突然、先程までとは違う、静かな落ち着いた声で呼びかける。桜真神もこれまでとは異なる、異質な雰囲気を感じ取り、箸を置いて彼女と真っ直ぐ目を合わせる。彼女の顔は彼に同情するような、憐れむような哀しい顔にも見えた。
「なんで真神さんのこと、誰にも言っちゃいけないの?」
「前も言っただろ、信じる人がいねえ」
そう淡々と吐き捨てて、それだけかと言わんばかりに少しだけ睨む。だが彼女の目はわずかに鋭さを増した程度の、哀しい表情のままだ。
「でも、それで真神さんはいいの?」
「あぁ?急に何を」
「真神さんは、畑を守ってくれてるんでしょ?」
その質問に桜真神は耳をピンと立てる。目を丸くし、口を少し開けたまま止まっている。こんなガキに
「……それがなんだ」
「やっぱり!」
彼の一言は彼女の質問を肯定した。体が前のめりになり、間近で彼の顔を見る。急激に接近してきた彼女に驚き、体が若干後ろに倒れる。
「私、真神さんのこと知りたくて、先生に聞いたんだ」
なぜ彼女が彼とピクニックなどしようと考えたのか。その理由は先日の先生との話にあった。真神は畑を荒らすシカやイノシシから守ってくれる、厄除けの神だと。彼女はそれを聞いた時に思い出した。出会った時の傷だらけの桜真神を。彼について聞いた後も、家に帰った後も、目に焼き付いた彼の痛々しい姿について考えていた。彼の話だと、信仰を得られれば傷が治るらしい。実際彼女が信仰を与えたら、桜真神のボロボロの体は癒えていたように見えた。だがあの様子では、信仰は長らく得られていなかったのだろう。それに彼の話からして、この町の人は畑を守ってもらっているのに、その守り神のことを誰も知らない。それでは彼は傷つく一方だ。しかしそもそも彼は、何故だか信仰を得たがらない。だからせめて自分が、自分だけでも彼を信仰しなければならない。少しでも力になりたい。彼女はそう子供ながら深く深く思考を重ね、今回の計画を練っていた。当の桜真神は眉をひそめ、僅かに彼女を睨みつける。
「おい、約束破ったのか?」
「ううん、聞いたのは真神さんじゃなくて、真神のこと!真神さんのこと、なんにも言ってないよ!」
「……あぁ?」
桜真神は顔を顰めて言葉を噛み砕いた。彼女が言いたいことはわかるが、わかりにくい。真神さん、という呼び方が原因だろう。そんな困惑の渦中にいる彼を置き去りにして、彼女は感情を爆発させている。
「そもそも、真神さんは畑をずっと守ってくれてるのに、みんな知らないなんてひどいよ!」
「……ふん、しょうがねえだろ。人間ってのは
そう言い放った彼だが、尻尾をだらんと垂らし、木々の葉で見えないはずの空をまた見ている。どこか遠くを見ているようだ。そんな寂しそうにも見える彼の様子を見て、彼女も悲しそうな目をする。しんみりとした空気が漂い始めた。
「だからな」
重苦しい空気を断ち切るように、芯のある声がドスン、と落とされる。
「ガキが俺のために気苦労する必要ねえんだ。お前が何かしても、黒く染まったもんは欠片も変わりゃしねえ」
風華は彼の言うことをいまいち理解出来なかった。だが彼女は、同情するような悲しい目で、じっと彼の目を見つめている。そんな彼女の顔を見て、可笑しそうに彼は笑う。
「はっ、そんな不格好に憐れむな。似合わねぇぞ」
「でも」
「しつこい。お前みたいな馬鹿には何もできねえっつってんだ。子供らしく、何も考えず笑ってればそれでいいんだ」
彼女の心配する様子を馬鹿にするように、彼は豪快に笑い飛ばした。まだ浮かない顔をしている彼女に対して、彼はひとつ提案を付け加える。
「今日のお礼に、お前の名を聞いてやろう。神に名を覚えられるなんて、こんな特別なことねぇぞ」
彼の提案に、彼女は目を見開いてハッと驚く。まだ自分は名を名乗ってなかったのか、と。彼女は質問に夢中で、自分のことなど話す余裕がなかったのだ。
「私の名前は風華!華やかな風、で風華だよ!」
「風華か。お前には勿体ないくらいの良い名じゃねえか」
「でしょ!」
罵られてることを知らない彼女を、また小馬鹿にするようにハンッと息を漏らす。だが桜真神は、そんな彼女が嫌いじゃなかった。いつもの騒騒しくて無茶苦茶な彼女が。そんな彼女に、自分の
「あ!このさくらんぼ、真神さんの目にそっくり!」
桜真神にサクランボを一つ摘んで差し出す。彼はそれを手のひらに乗せ、眺めている。
「ふっ。俺の目が、こんな鮮明で麗しい赤にみえるのか」
「うるわしい……?」
「綺麗っつうことだ」
風華にとって知らないことなど山ほどある。子供なので当たり前だ。しかしそれは桜真神にとっても同じである。この場では、双方が知らないことを互いに教え合っている。灯篭のやんわりとした明かりしかなかったこの空間。薄暗くて不気味だったはずの場所は、既に華々しく彩られていたのだ。あぁ、こんなにも春というのは眩しいのか。桜真神は、久方ぶりに覚えた感情に胸を昂らせたのだった。
三人前ほどあったお弁当は、主に桜真神のおかげで空になった。ピクニックの話のタネは、風華から撒かれ続けた。友達と桜の並木を見る約束が叶わなくて悲しかったこと。授業中寝ていたら怒られたこと。課題で描いた桜の絵が、躍動感があると褒められたこと。悲しい話も楽しげに話す彼女。そんな彼女の話を飽くこともなく、桜真神は時折馬鹿にしながら話を聞いていた。子供を見守る親のように、親しみのある笑みを見せながら。
「日が沈みかけてる」
不意に桜真神が上を向きそう告げた。楽しい時間は本当にあっという間にすぎるものだ。特に、外が見えないこの場所での時間の感覚など無いに等しい。
「えぇーもおー?」
足をだらんと伸ばし、露骨に残念そうな顔をして口を尖らしている。
「そう不機嫌になるな」
桜真神は立ち上がって彼女に近づき、彼女の目線に合わせて屈む。そして頭にぽとん、と右手を優しく置く。
「お前の春は長い。焦らずとも、俺は消えやしねえんだ。また暇なときにでも来るといい」
手の温かさと同じように温もりのある瞳が、彼女の目の奥を見つめている。桜真神が纏っている穏やかな風を彼女も感じ、その心地良さで、自然と彼女の顔と心が緩んだ。
「そうだよね。真神さん、また来るよ!」
「おう。供物、期待してるぞ」
彼女は来る時より軽くなったカバンを持った手を、ぶんぶん大袈裟に振る。桜真神はそんな彼女をぎこちなく手を振って見送った。ぎこちない手とは正反対の、優しい笑みをして。
「……春は長い、か」
彼女が見えなくなるほど遠くへ行くと、桜真神はその場に座り込んで、膝に頬杖をついた。その顔は、先程までとは対極的とも言えるくらい険しい。
「消えやしないなんて、無責任なもんだな」
彼は自身を嘲笑するように吐き捨てる。今日の出来事を想起しながら、彼女とピクニックをしていた地点をしばらく眺めていたのだった。彼女に埋められた心を、だんだんと黒い棘が蝕んでいることを誰も知らない。彼自身ですらも。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます