見えない隣人

 ある静かな午後、里奈は自宅の小さなアパートの窓から外を眺めていた。

 薄曇りの空に、時折小雨が降り注ぎ、街の景色が少しぼやけて見える。彼女はそんな日が好きだった。

 人々の喧騒から離れ、自分だけの時間を楽しむことができるからだ。


 彼女の隣の部屋には、誰かが住んでいる気配があった。

 これまで一度も顔を合わせたことはなかったが、夜になると微かに聞こえてくる音が、隣人の存在を物語っていた。時には、深夜に響く何かを叩く音や、低い声が聞こえてくることもあった。


 里奈はその音に興味を抱く一方で、不安も感じていた。彼女は内向的な性格で、人と接することが苦手だったため、隣人がどのような人物か想像するのは難しい。

 もしも、

 あの音の正体が危険なものだったら? そう考えると、無性に恐れがこみ上げてきた。


 しかし、日々の忙しさに流され、結局、彼女は隣人に会うことはなかった。ただ、音が彼女の日常の一部になっていくのを感じながら、少しずつ興味が湧いてくるのを自覚していた。


 ある晩、里奈りなはいつも通りソファに座り、読書に没頭していた。すると、突然、隣の部屋から大きな物音が響き渡る。驚いて本を閉じ、耳を澄ませた。音は次第に激しくなり、何かが壊れるような音が続いていた。


 好奇心に駆られた里奈は、思い切って部屋の壁に近づいた。

 耳を当ててみると、何かを叫んでいる声がかすかに聞こえる。心臓が高鳴り、恐怖と興奮が入り混じった感情に襲われる。

 ドアを開けて、中に入る勇気を持てずにいた。


 次の日、思い切って管理人に隣人について尋ねてみた。

 だが、管理人は“隣には誰も住んでいない”と言った。

 その瞬間とき、頭の中に疑念が浮かび上がる。音は一体何だったのか? 隣人は、本当に存在しないのか?


 この出来事をきっかけに、隣の部屋が何か特別な意味を持っているのではないかと考えるようになった。日々の生活の中で、隣人の声や音が心に影響を与え、決めた。


 ある雨の夜、里奈は再び隣の部屋から聞こえてくる声に耳を傾けていた。

 それはいつもと同じように不明瞭で、感情のこもった響きが心に訴えかけてくる。恐る恐るドアを開けて、隣の部屋に足を踏み入れることを決意した。


 ドアを開けると、部屋の中は暗く、埃っぽい空気が立ち込めていた。

 薄暗いランプの光が、壁にかかった古い絵画を照らしている。里奈はその絵に目を奪われた。そこには、かつてこの部屋に住んでいたであろう人々が描かれていた。顔は見えないが、どこか彼女に向かって手を差し伸べているように見えた。


 視界が歪み、まるで夢の中にいるかのような感覚に襲われた。

 周囲の音が消え、心の奥底から何かが呼び起こされる――過去の記憶。


 目を開けると、そこには見えない隣人が立っていた。

 彼は無表情で、ただじっと里奈を見つめている。震えながら、何故かその人に引き寄せられる感覚があった。

 声がなくとも、彼の心の中にある悲しみが伝わってきた。


「お前は、私を理解してくれるのか?」


 彼の問いかけは、声に出さずとも里奈の心に響いてくる。

 自分の中に潜む孤独感と、隣人の孤独が重なり合っているのを感じた。彼に手を差し伸べ、無言のまま共鳴する。


 隣人の表情が一変した。

 目が異様に輝き、薄暗い部屋の中でその姿がどんどん大きくなっていく。彼の手が里奈の腕に触れて、凍りついた。

 駆け巡る全身を、恐怖が。


「私の声が聞こえないのか?」


 部屋が暗闇に包まれた。

 耳元で響く彼の叫び声が聞こえた。それは、彼女の心に響く音ではなく、体を貫くような絶叫だった。里奈は必死で逃げ出そうとしたが、ドアは開かず、身動きが取れない。


「お前も、私の隣人になれ!」


 無数の声が里奈の周りで渦巻き、押しつぶそうとしてくる。何度も叫び続ける彼の声が、力を振り絞り、ドアに向かって突進した。

 ドアは開き、外に飛び出た。


 振り返ると……隣の部屋はなかった。

 無機質な壁。

 だが、

 心の奥では、あの隣人の声が今も響いているのだった。

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