第2話

バイクの音がする。

僕は今日、珍しく早起きをした。

いつもならあと2時間は寝ているはずなのに。


「ああー!ハンカチちり紙持った?財布は持ってる?服装はこれでいい?もっと着た方が……いやでも気温上がるのか……ううーん……」

お母さんが慌てふためている。

僕は朝食の食パンを齧っている。

「大丈夫だよ。準備は昨日のうちにしたし」

それでもお母さんは落ち着かないようだった。

「とにかく、何かあったらこのメモを大人に見せて。公衆電話があったらすぐ電話して。あぁ、やっぱり携帯持たせた方が良かったのかなぁ……でも小学生はまだ早くない?そうでも無いのかなぁ……」

お父さんは新聞をバサッと畳んで、お母さんに言った。

「落ち着きなさい。たかが電車でばあちゃんの家に行くだけじゃないか。2時間と少しで着くのだろう?」

「そうだけど……そうだけどぉー!」

お母さんは騒がしい。

僕はお父さんと目配せし、やれやれ、という表情をした。

やっぱりお母さんは男の子の事を分かっていないのだ。

この程度のこと、何を心配する事があるのだろうか。

そりゃ、確かに僕は今日、初めて一人で電車に乗るのだけれど。


駅まで送ってもらい、僕は両親の声を背に、構内へ進んでいく。

さて、切符を買わないといけない。

大丈夫、動画で何度も予習した。

財布からお金を取り出し、投入口に入れる。

そして、おばあちゃんちへは。そうだ、これだ。

無事、切符を購入できた。

このくらい、なんて事はない。

乗り場は。そうだ、これも動画で予習した。

こっちでいいはず。

電光掲示板を確認する。

うん、大丈夫。これで合っている。

ほら、なんて事はないじゃないか。やっぱりお母さんは心配し過ぎなんだ。

そんなに僕の事を信じられないのだろうか。

電車が来て、僕は車内へ足を進める。

扉が閉まり、アナウンスが出発を告げる。

僕の旅が、始まる。


電車に乗ること自体は初めてじゃない。

いつもはお母さんかお父さんが一緒。

だけど今日は一人。

週末、おばあちゃんちに一人で行ってみたい。

晩御飯の時にそう言ったら、お母さんは反対した。危ないと。

お父さんは賛成した。やりたいことはどんどんやりなさいと。

お母さんとお父さんは少し言い合いになったけど、僕が一生懸命頼み込んだら、最後にお母さんは折れてくれた。

子供の成長を見守るのが親の役目、そう言っていた。


座席に座り、窓から外を眺める。

風景がどんどん変わっていく。

この辺はまだ知ってるかも。車で通った気がする。

おばあちゃんちへはいつも車で行っている。

車から見える風景と、電車から見える風景は違う。

本当に知っている場所なのか少し自信がなくなってきた。

車内のアナウンスが聞こえる。乗り換え駅はまだ先のようだ。


大きめの駅に着いた。

人がいっぱい乗ってきた。

僕の前に男の人がやってきて、じろっと僕を見た。

なんだろう。

お行儀が悪いと思われたのかな。

いやいや、ちゃんと足閉じて座っているし、小さい子みたいに座席の上に立ったり、足をぶらぶらさせたりしていない。

何も悪い事はしていないはず。


良い子だね、とよく大人の人に言われる。

褒めてくれているのだろうけど、なんだか僕はモヤモヤする。

つまらない子だね、と言われているような。

ただ悪い事をしていないってだけで、他に褒めるところが無いから、とりあえず良い子と言われているような。


アナウンスが流れる。

そうだ、確か次の駅で乗り換えじゃないか。

車内が混雑している。

すぐ降りられるようにドアの前に移動した方が良いかも。

ごめんなさい、と前の男の人に声をかけて座席から降りる。

空いた座席にすぐにドスンッと男の人が座る。

僕はごめんなさい、と声に出しながら人と人の間をすり抜けてドアの方へ向かう。

その時、ブレーキがかかった。

あっと思う間もなく僕は転んでしまった。


「大丈夫?」

すぐ近くにいたお姉さんが僕に声をかける。

カッと顔が赤くなるのを感じた。

「大丈夫です!なんでもないです!」

すぐ立ち上がろうとしたけれど、床が揺れてうまく立てない。

「ん、手を出して」

お姉さんが僕の方に左手を出す。僕はお姉さんに右手を出す。

お姉さんは僕の手をぎゅっと握って引き上げてくれる。

おかげで今度はうまく立てた。

「次で降りるの?」

「あ、はい。そうです。次が乗り換えで——」

電車が揺れて僕はお姉さんの方に倒れそうになった。

「おっと。危ないからこのままお姉ちゃんに捕まっててね」

「あ、はい。ご迷惑をおかけします……」

「あはっ。君、礼儀正しいね」

「お父さんが礼儀は大事だぞーっていつも言うので……」

「いいね。良いお父さんだ」

「はい、お父さんは良いお父さんなんです。あ、お母さんも良いお母さんなんです。ちょっと心配し過ぎるところはあるけれど」

僕は何を言っているのだろう。

みっともなく転んでしまってから心臓がバクバクして落ち着かない。

「一人?」

「そうです。いつもはお母さんかお父さんと一緒に乗るんですけど、今日は僕一人でおばあちゃんちに行くので」

さっきから喋りすぎている気がする。

「すごいね!じゃあ初めての一人旅ってやつかぁ」

「すごくないです。このくらい、誰だって出来ます」

「褒められたら素直に受け取った方がいいと、お姉ちゃんは思うなー」

お姉さんがニヤッと笑う。

まだ落ち着かない。

アナウンスが到着を告げた。


「ありがとうございました!」

僕は慌ててそう告げて、お姉さんの手を振り解いて電車を降りた。

「慌てると危ないよ。気をつけるんだよー」

お姉さんが手を振ってくれている。

僕は手を挙げてそれに返しながら、走って乗り換え口に向かった。

別に急がなくても良いのだけど、駆け出したい気持ちとその場から離れたい気持ちが、僕の足を急がせるのだ。


すっかりお姉さんの姿が見えなくなって、ようやく僕の足が止まる。

大きく息を吸う。

落ち着こう、落ち着こう。

さて、どっちに向かうんだったか。

ちゃんと動画で予習したはず。だけど、なんか道が違う。

どういう事だろう。何で、どうして。

心臓がずっとバクバクしている。

転んだ時に打った膝がジンジンする。

一旦戻ろうか。

振り返った瞬間、スーツ姿の人にぶつかった。

「ごめんなさい!」

咄嗟に頭を下げると、上の方からチッと舌打ちが聞こえた。

そのままその人はどこかへ行ったようだけど、僕は頭を上げられずにいた。

何をしているんだ僕は。周りをちゃんと見ないから。

床が、ぐにゃりと曲がった気がした。

僕は立っていられなくなり、しゃがみ込んでしまった。

ダメだ、こんなところで。

立ち上がらなきゃ。

そう思っても、体が言うことを聞かなかった。


「少年!何かお困りかな?」

顔を上げると、お姉さんがいた。


「……何で?」

「ん。いやーなんか大丈夫かなーと気になって。ほら、立ち上がって」

お姉さんが僕に左手を差し出す。僕は右手でお姉さんの手を握る。

体が動く。立ち上がる。

「迷っちゃった?」

「はい。ちゃんと動画で予習したんです。でも何だか動画で見たのと道がちょっと違ってて……」

「ちょこちょこ工事してるからねー、この駅。こっちだよ、一緒に行こ」

もう床は曲がっていない。

膝の痛みも気にならなくなってきた。

ただ、気持ちだけが落ち着かないままだった。


「ここまでで大丈夫?」

「大丈夫です!ありがとうございました!」

お姉さんは僕を乗り換える電車のホームまで案内してくれた。

ずっと手を握ったまま。

「んー、電車が来るまでまだ少し時間あるみたいだね」

「大丈夫です!待つのは得意な方なので」

得意って何だ。

お姉さんは少し笑ったあと、手を離した。

「じゃあ、お姉ちゃんは行くね。気をつけて行くんだよー」

「はい、本当にありがとうございました」

お姉さんはバイバイと手を振ったあと、階段を登って行った。

しばらくして、ようやく僕は落ち着く事ができた。

そして電車が来た。


「そう、無事おばあちゃんちに着いたのね」

おばあちゃんちに着いた僕はお母さんに電話している。

「何も無かった?乗り換え迷ったりしなかった?」

「大丈夫だったよ。親切な人に助けてもらったし」

「そう!良かったねぇ、親切なお姉ちゃんがいて」

「……何でお姉さんだと知っているの?」

「え!?いや、なんか、親切なのって大体女の人じゃない?」

「お母さん、それは”ヘンケン”と言うんだよ」

「はい……お母さん反省します……」

「その親切な人は——まぁ、お姉さんだったんだけど——ホームまで案内してくれたから迷う事なかったよ」

「そう。じゃあまぁ、おばあちゃんによろしくと言っておいてね。明日も気をつけて帰るんだよ」

「うん、じゃあね」


今日はおばあちゃんちに一泊。

おばあちゃんが用意してくれた晩御飯を一緒に食べる。

おばあちゃんはしきりに僕を褒めてくれる。

「本当にすごいねぇ。もうすぐお兄ちゃんになるんだもんねぇ。もう立派なお兄ちゃんだねぇ」

何度も同じ事を言うので、やっぱり何だか褒められていないような気がしてくる。

『褒められたら素直に受け取った方がいいよ』

お姉さんの言葉を思い出す。

だから僕は、素直に受け取ることにした。

「ありがとう。これで少しはお兄ちゃんとして成長できたかな?」

「うんうん!もうすっかりお兄ちゃんになってるよ。おばあちゃんが保証する!」


次の日、またもや早起きしてしまった。

早起きする必要はなかったのに。

いつもと違う布団のせいかな。


朝御飯を食べ、おばあちゃんに駅まで送ってもらう。

おばあちゃんにまた来るね、と言ってから電車に乗る。

おばあちゃんは僕が見えなくなるまで手を振ってくれていた。

帰りの電車では窓から風景を眺めることはせず、ぼんやりと乗り降りする人たちを眺めていた。

そして、乗り換えに迷うこともなく、全く問題なく家に帰る事ができた。

こうして僕の初めての一人旅は終わった。


あのお姉さんとは、もう会う事は無いんだろうな。

そう思っていたのだけど、意外とすぐ出会う事になった。

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