渡り鳥

清明

第1話

夜明け。

ヘルメットを被り、グローブに指を通す。

キーを回し、セルスイッチを押す。

静かな住宅街にエンジンの音が響く。

バイク乗りの朝は早い。

渋滞に巻き込まれないように少しでも早く出発したいから。

あるいは走る時間を長く楽しみたいから。

あるいは、この朝焼けが綺麗だから。


私は今日、遠く離れた友達のもとに荷物を届けに行く。

届ける荷物は私自身。

ギアを切り替え、アクセルを回す。

さぁ、出発だ。


「さむっ……」

もう少し着込めば良かったかもしれない。

でもこれから気温が上がってくるはずだし、今は我慢。

冷えた空気が体にぶつかり、後ろに流れていく。

肺に入った空気が、中からも体温を奪っていく。

もう少し走ったら休憩を入れて温かいコーヒーを買おう。

アクセルを回す右手に少し力を入れた。


ガコン、と自動販売機が音を出す。

しゃがんで缶コーヒーを取り出す。

かじかんだ手に熱がぐんぐんと伝わっていく。

カシュッとプルタブを引き、黒い塊を口に注いでいく。

喉から順々に熱が下へ落ちていき、体の中心から熱が広がっていくのを感じる。

「たまらん……」

普段はコーヒーを飲まないのだけど、バイクに乗る時だけは別。

走って冷えた体で飲むコーヒーは最高に美味いと思う。

そういえば彼女は——私の友達は、コーヒーが嫌いだったのを思い出した。


「間違って買っちゃったからあげる」

「え、いらない」

彼女が缶コーヒーを私に手渡そうとしていたが、私は拒否した。

「なんでよ。コーヒー嫌い?」

「嫌いじゃないけど……そんな好きなわけでもない。あと今飲みたい気分じゃない」

「私は嫌い。なんで間違えちゃったかなぁ。どうしよう、これ」

「私に言われても……」

初対面だった。なのに彼女は物怖じせずグイグイくる。

「後から飲みたい気分になるかもしれないじゃん。タダなんだから貰っとけば?ほらほら」

彼女は無理やり私に缶コーヒーを持たせた。

そして、右手を差し出した。

「……何その手?」

「タダで貰おうなんて虫が良すぎると思わない?コーヒー代」

なんだコイツ、と思ったが、私は無言で缶コーヒーを彼女の右手に置いた。

「うそうそ冗談。ちょっとした小粋なジョークってやつ。コーヒーはあげる。面白かった?」

「全然面白くなかった」

何が面白いのか、彼女は笑いながら私の肩をバシバシ叩いてきた。

それから彼女と何度か話すようになり、いつしか友達と呼べる存在になった。


「あっ」

道を間違えた。

この交差点じゃなくて次の交差点で右折だった。

ナビが自動でルートを再検索し始める。

まぁどこかで左折すれば本来の道に戻るだろう。慌てる必要はない。

焦ってUターンとかしては却って危ない。

ナビがルートを示した。

うん、もう少し先で曲がればいけそう。

運転する時に焦りは禁物。リラックスしないとね。


彼女とは何度か喧嘩もした。

私が悪かった場合もあるし、彼女が悪かった場合もある。

いや、大抵は彼女が悪かったような気がする。


「私は悪くない」

彼女は私を睨む。言葉だけではなく、その目からも彼女の意思が伝わる。

明らかに喧嘩の原因は彼女なのに、どうしてそんなに強気でいられるのだろう。

彼女は待っているのだ。私が折れるのを。

「もういいよ。こうなるかもしれないと覚悟して貸したし」

私の手元には水に濡れてふやふやになった本がある。

「最後に一言謝ってくれればこの件はおしまいにする」

「覚悟してたならそんなに怒んなくてもいいじゃん!」

「謝るの?謝らないの?」

「……ごめんなさい」

彼女は意外と素直なのだ。


峠道に入った。

曲がりくねった道をひたすら上っていく。

バイク乗りの中には峠が好きな人もいるが、私はそう好きでもない。なんなら少し怖い。

カーブで先が見えないし、大体道が酷い。

落ち葉や砂利で滑らないように気を遣う。

エンジンが悲鳴を上げる。もう一段ギアを落とした方が良さそう。

ガコッとギアが切り替わる音がして、エンジンが息を吹き返した。


彼女が遠くに引っ越してからも付き合いは続いた。

年賀状を交換したり、電話したり、メッセージを送ったり。

どこにいようと彼女は彼女だった。

時折全く面白くないジョークを挟みつつ、この街はここが良い、今日はどこそこに行った、あの店のあのメニューが美味しい。

私が興味ないことでも一方的に話してくる。

私は適当に相槌を打ったり、たまには自分の方から話題を振ったり。

あまり彼女の興味を引けた試しがないけれど。

こんな会話でも彼女は楽しいのかな?と思うこともあるが、彼女は楽しんでいる様だった。

なんだかんだで彼女との会話に付き合う辺り、私も結構楽しんでいたのだろう。


ここからは下り坂。

下りは少し楽しい。

相変わらず道は酷いし、カーブで対向車がセンターラインを超えてこないかビクビクする。

それでも、エンジンブレーキを効かせながら下っていくのはなんだか楽しい。

峠を上るにつれて寒くなってきた気温が、下るにつれて暖かくなっていく。

街が近づいている。


ある時、彼女の声に元気がない様な気がした。

「別に。何もないよ」

「そう?なら良いけど」

「まぁ、周りが馬鹿ばっかでちょっと疲れてるってところはあるかな」

それからは彼女の愚痴が少しずつ増えていった。

真剣に聞いた方が良いのかと思ったが、すぐに話題を変えるし、大した事じゃないかのように振る舞うので、私はこれまで通りに適当に相槌を打ったり、彼女の興味のない話をしたりした。


平坦な道が続いている。

田畑が広がり、空の青と雲の白が彩を添える。

歩いている人はほとんどいない。車もまばらだ。

気温は丁度良いくらいになった。

私はこの時が一番好きだ。

スピードを出すなんて勿体無い。のんびりトコトコ走る。

穏やかな空気が流れる。

悩みも、嫌なことも、全ては遥か後方へ置き去りにしていく。

いつかは取りに帰らないといけないとしても、今だけは。


彼女との連絡頻度が減ってきていた。

「最近忙しくて」

嘘では無いのだろう。愚痴も減ってきていたし、彼女の声も元気が戻ってきたように思えた。

周りとの関係が改善して、向こうの生活が充実してきたのだろうか。

そうすると、そのうち私とは疎遠になっていくのかもしれない。

少し寂しいけれど、彼女が向こうで元気でやっているのなら、それでいいと思う。

そう思っていたのに。


道の駅に到着。

小腹が空いていたので、何か食べる事にした。

牛串にするか、ソフトクリームにするか——

やっぱりソフトクリーム。

運転は脳を使う。

脳にエネルギー補給をしなければならない。つまり、糖分。

そう、ソフトクリーム。これが正解。

食べ終わった後、ストレッチで体をほぐす。

彼女の家まではまだある。

この先も適度に休憩を入れながら走ろう。


「それで言ってやったわけよ。それってゴリラじゃん?って。どう、面白かった?」

「全然面白くなかった」

「あははっ!素直に笑えば良いのに!まっいいや。じゃーねバイバーイ」

昨日のことだった。

久しぶりの彼女からの電話だった。

話はいつも通り大した事ではなく、ジョークもいつも通りの出来だった。

ただ、いつもより彼女の声が元気過ぎる気がした。

何か良い事でもあったのだろうか。

あるいは。


風呂から上がって携帯を見ると、彼女からメッセージが届いていた。

ただ一言。

「会いたい」


人通りが多くなり、交通量も増えてきた。

街の中心地が近い。

ここを過ぎて、住宅街の方へ向かえば彼女の家。

もう少し。

待ってて。


バイク乗りには口実が必要だ。

バイクに乗る理由、遠出する理由。

彼女が会いたいと言ったから。立派な口実だ。

何かあったのだろうか。

それとも何もなくて、単純にふと会いたくなっただけなのか。

それならそれで良い。

丁度次のツーリング先を探していたところだった。

彼女に会いに行く。

彼女の顔を見て、お喋りして、元気でいる事を確認する。

そしたらその後は少し観光しよう。

ネットカフェに一泊して明日のんびり帰ろう。

彼女の家は、もうすぐ。


「本当に来た」

彼女は呆気にとられた顔をして玄関から出てきた。

「行くって言ったじゃん」

「そうだけど……昨日の今日でそんなすぐ来るとは思わないじゃん」

「迷惑だった?」

「そんなことないけど……」

「会いたくなかった?」

「そんなことないけど……」

「会いたかった?」

「……うん」

彼女は掠れ声になり、私に抱きつく。

彼女の匂いと温もりが私を包む。

私も彼女をぎゅっと抱きしめる。

「それで、どうしたの?私で良ければ話聞くよ?」

「ふふっ!私を口説きに来たの?」

彼女が笑った。


夜が明ける。

住宅街にエンジンの音が響く。

「本当に朝早いんだねぇ……」

寝惚け眼の彼女が見送りに玄関から出てきている。

結局昨夜は彼女の家に泊まらせてもらった。

「まぁ、こんなに早く出る必要は無いんだけど……やっぱり朝走るのは気持ちいいしね」

「ふーん」

「じゃあまた。会いたくなったら連絡くれればすぐ駆けつけるよ」

「かぁっこいいー惚れちゃうー。でももう大丈夫、いっぱい話聞いてくれてありがと。今度は私から会いに行くね」

「うん、待ってる。じゃあ」

「気をつけてね」

ギアを切り替える。アクセルを回す。

朝焼けが空を染めている。

さぁ、帰ろう。

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