夜の魔女
奉仕って何をするのか。
疑問に思うだろう。
答えは簡単。
「あ、これ、飲み物です」
「ありがとう」
パシリだった。
ダッシュで学食前の自販機に向かい、自腹で飲み物を買う。
ダッシュで戻り、指定された飲み物を差し出す。
米良先輩は受け取った水を両手で抱え、じっと真下を見つめている。
現在、ボクらはプールにいた。
時刻は、19:00。
夜中だというのに、プールに呼び出されたボクは、水を買ってくるように言われて、先輩に付き添っていた。
正直、何をしたいのか分からない。
不思議ちゃん、と言われたら、まあそうだ。
『魔女かぁ……』
『魔女の下僕、ね』
米良先輩は、周囲の女子から距離を置かれていた。
魔女って言葉が頻繁に飛び交い、ボクはどういうことだろうと首を傾げていた。
言葉の意味は分からないが、今のところ、無茶なお願いはされていない。何だか、拍子抜けしたっていうか、もしかしたら当たりを引いたと安心していた。
「ねえ、ポチ君」
「……はい」
でも、ボクを人間扱いはしないんだよね。
飽くまで、犬って感じだ。
飛び込み台に座った米良先輩が手招きしてきた。
ボクは先輩の隣に立ち、黙って端正な顔立ちを見つめる。
「ワタシね。産まれてから、父以外の男の人と話したことがないのよ」
「……そう、なんですか?」
「ええ。幼稚園。小学校。中学校。全部女子校なの」
世間知らずで申し訳ないが、今の時代、全部が共学になってると思い込んでいた。ところが、先輩の話を聞くと、あるところにはあるっぽい。
小、中、高と女子校続きな先輩からすれば、男子は異質な存在に違いない。
「え、もしかして、この学校の人って……」
「大半が同じ学校の人よ。高校だけは、別の学校を受けた人もいる」
思った通りだ。
つまり、歪んだ箱入り娘の集合体が、この学校の正体だった。
「だからね。ワタシ、男の人を知りたいの。どういう生き物なのか。ワタシ達と何が違うのか」
先輩がボクを見上げた。
感情のない瞳で見つめられ、ボクは何て反応していいか困ってしまう。
おもむろに先輩が言った。
「男の人って、……運動が得意なのよね」
「そういう、わけでは……」
先輩が立ち上がり、ボクの後ろに回り込んできた。
何だろう、とボクは先輩を追いかけて振り返る。
「……う」
顔を少しでも前に突き出せば、胸に当たる距離に先輩が立つ。
驚いた拍子に仰け反ってしまい、ボクはある事に気づいた。
先輩が、ボクの爪先を踏んでいた。
「本当かしら?」
どんっ。
軽い調子で、先輩が肩を押してきた。
「へ?」
つま先を踏まれているせいで、バランスが取れなかった。
遠ざかっていく先輩の姿。
気のせいか、先輩が嗤っている気がした。
ちょうど、月明かりが真上から当たっていて、先輩の顔は陰影が濃くなっている。でも、口元だけは薄っすらと見えたのだ。
バシャン。
背中から水面に飛び込んだボクは、味わった事のない感覚に目を見開いた。
「い、って! うわ、痛い痛い!」
春先のプールは、水こそ張っている。
たぶん、掃除をしていないから緑色に濁っているに違いないだろう。
屋内ではなく、屋外にあるプールだから、ずっと冷却されてるのと同じ。
つまり、冬が空けて間もない水を全身で味わう羽目になったのだ。
「いってぇ!」
「痛いの?」
「いったい!」
真冬同然の水を全身で味わったらどうなるか。
寒い、とか。冷たい、とか。
そんな感覚は驚くほどない。
――痛い。
――全身が熱い。
この二つだけに支配されてしまう。
心臓はバクバクと強く脈を打ち、急激に冷えた全身は声が上がるほどに痛かった。痛みと同時に、体の内側が熱くなり、訳が分からなくなる。
「ひ、ひい!」
手が思うように動かない。
それでも、火事場の馬鹿力で、ボクはプールから上がろうと梯子を目指す。
泳ぎは得意ではなかったけど、手足を死に物狂いに動かすと、何とか梯子まで辿りつくことができた。
でも、梯子のすぐ奥には、米良先輩が屈んでいた。
「大丈夫?」
「はぁ!? アンタ、狂ってんのかよ!」
「……あら」
口元に笑みを浮かべて、米良先輩はペットボトルのキャップを開けた。
「せっかく可愛いワンちゃんが、反抗期」
ばちゃ、ちゃ。
梯子を掴んでる手に水を掛けてきて、思わず手を離した。
プールの水以上に冷却された飲料水を掛けられ、思わず手をプールの中に入れてしまう。
「ご奉仕、してくれるんじゃないの?」
ばちゃちゃ。
今度は顔に掛けられ、水から逃げるためにひっくり返った。
「ぶはっ! やっべ! こいつ、狂ってる! 誰かぁ! いませんかぁ!」
許容範囲なら、まだ耐えられた。
耐えている間は、敬語でも何でも使う。
でも、ここまでされて自我を抑えられるわけがない。
「プールってね」
震える手で梯子を掴み、何とか片足を引っ掛ける。
「だ~れも来ないの。体育館とか。寮とか。施設から遠い場所に作ってるのよ。市民プールと違って、覗き防止の板で囲んでないけど。片側は雑木林があるし、渡り廊下には今の時間誰も来ない」
チャラチャラと指で摘まんだ鍵を見せつけ、魔女先輩は笑った。
「二人だけの世界よ」
見間違いじゃなかった。
先輩は笑っていた。
微笑ではなく、目尻を持ち上げて、楽しげに笑っている。
「いや、知らねえし!」
雰囲気に呑まれず、ボクは梯子を駆け上がった。
プールから這い上がると、体はもっと熱くなった。
じんわりと皮膚だけが熱を持ってる感覚。
大げさではなく、焼けてるんじゃないかってくらいの違和感があった。
「な、何が女子だよ。奉仕だよ。ボクらは、奴隷なんかじゃない! 血の通った、一人の人間だよ!」
急いでプールから離れ、ボクは更衣室に向かった。
混乱していたボクは、すっかり忘れていた。
ここは女子校で、男子更衣室が存在しない。
プールから出るとロッカールームに直で繋がっており、ここを抜けると、渡り廊下に出る事ができる。その前に、ボクは濡れた服を脱ぎたくて仕方なかった。
濡れた服で温度がぐんぐん下がっていく。
嫌でも体温が下がっているのが分かって、乱暴に衣服をその場で脱ぎ散らかした。
最悪、誰かに見られたとして真っ直ぐに男子寮へ帰れば、着替える事ができる。お風呂は、20:00にならないと男子は使えないので、布団に包まるつもりだ。
「ど~こ行くの?」
ぐいっ。
脱いだズボンを拾おうとした所に、横から押された。
ロッカールームを背に追い詰められたボクは、両手を米良先輩に押さえつけられる。
「う、ぐ、ああああ! 離せ!」
「……どうして?」
「や、寒いんスよ! すぐに寮に戻りたいんだ!」
「へぇ。戻ればいいじゃない?」
ぎゅぅ。
手首に爪が食い込むくらい、強く握られた。
まず、ボクは男でありながら女子に力で勝ったことがない。
挙句に、寒さで手足が震えて、思うように動かなかった。
「はな、し、てえええ!」
「力づくで退かせばいいんじゃないかな」
「無理ぃ!」
「どうして?」
「ぼかぁ、非力なんだぁ!」
米良先輩は覗き込むようにボクを見つめ、笑っている。
「男子って、力が強いんじゃないの?」
「強くないっス! 一部の、何か、外人みたいなマッチョは強いっす! ボクは違います! 無力系男子なんですぅ!」
ズルズルとずり落ち、ボクは懇願した。
「お願いです! このままだと、凍え死んじゃう!」
「うーん……」
すっ、と先輩がボクの胸に手を当てた。
手の平から伝わる体温が、胸の薄い皮膚と肉を通して、心臓を温めてくれる。
「おぉ、……ぉぉ」
「まだ動いてるから、大丈夫よ」
「そ、そういう問題じゃ……」
ボクがガチガチ震えていると、先輩はなぜか急に制服を脱ぎ始めた。
制服の上着を脱ぎ、中に着ているカーディガンを脱いで、
「はい。これなら寒くないでしょう」
ボクに着せてきた。
モコモコして温かいカーディガン。
ほのかに米良先輩の匂いがした。
「男子って、やっぱり犬と同じなのね」
「……いや……犬とは……」
「同じ犬でも、種類あるものね。ダックスフントかな」
爪先で頬を撫でられ、ボクはゾクっとした。
この人、本当に――魔女だった。
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