game 24. 声②


 翌日、悠馬は予定通りに朝寝坊をして、優雅な朝食をとった。堂々サボるのって気持ちイイ。


 もう一日頑張れば土曜日だけど、それとこれとはワケが違う。休みだからゆっくりするのではなくて、平日にサボってやるからこそ良いのだ。この背徳感、優越感……そんなふうに思っていたのは初めのうちで、すぐに罪悪感が取って代わろうとする。根本的に、悠馬は不良行為には不慣れなのだ。


 でも、いつもアラームに叩き起こされて、眠いのを我慢して大学へ行くのと比べたらどうだ。食パンを口に詰め込んで、急いで出掛ける朝を思い出してみろ。


(ふふん。今日は、卵焼きまで食べてやるもんね)


 それから、コーヒーも淹れよう。

 トーストと卵焼きで中和しながらだったら、最後まで飲みきれる。「ブラックコーヒーを美味しそうに飲む大人」への道のりは遠い。


 牛乳で割ったって、苦いものは苦い。苦いだけじゃなくて、ほのかな酸味があるのがいけない。苦味と酸味は、腐っていて食べられないものを識別するための味覚だと誰かが言っていた。逆に甘味と塩味は、必要な養分を摂取するためだそうだ。

 だからといって、お砂糖たっぷりで飲むのも、何かに負けた気がする。


 そういうわけで今のところ、こんがりトーストにバターも乗せた、しっかりめの朝ごはんのときにしかコーヒーをドリップして“淹れる”ことはできない。他の日は無糖もしくは微糖のコーヒー飲料だ。時間がかかるから、というのもあるけれど。

 いつか、この味に慣れるのだろうか。


 シオンやノラなら、ブラックコーヒーが似合いそうだ。カイはお子様舌だから、どうだろう。でも、考えてみればノラもかなりの甘党だ。

 大人の必要条件って、何だろう。


(また、つまらぬことを考えてしまった……)


 悠馬は車窓にうっすら映ったニヤけ顔に気付いて引き締めた。

 もはや通い慣れた道。ほとんど無意識で自転車を漕ぎ、電車に乗り、パブまで辿り着ける。駅を降りてから地図アプリを開くこともなくなった。

 そのぶん、余計なことを考えてしまうのだろう。


 このところ、奇妙な現象が起きている。

 パブの行き帰りの電車の中で、大学のキャンパスで、買物に寄ったスーパーで……あらゆる場所で、ふと、あの三人の声が聞こえるのだ。


 いるはずがないとわかっているから、注意して耳をそばだてる。すると、全然似ていない他人の声だったと気づく。ああほら、やっぱり。違うじゃないか。少しガッカリしている自分に気づく。


 それとも、無意識のうちに探してしまっているのだろうか。

 少し低くて、やわらかく包み込む大地のようなノラの声。澄んだ風が、凛と涼やかに通るのはカイの声。小川の清流のように、穏やかに流れていくシオンの声。雑踏の中に求めて、少しでも共通点のある声を拾い集めてしまうのだろうか。


 それから、自分の名を呼ぶ幻聴も。


 ユウキ、ユウヤ、ユウト……「ユウ」のつく名前は多い。そういうのに度々反応してしまう。先日も、電車の中で「ユウタくん」と小さな男の子を呼ぶ声に振り向いてしまった。

 下の名前で呼ばれることなんて、ずっとなかったからだ。それが最近は……


「ユウマ」


 ああ、ほら、また……。


「どうした、考え事か?」

「うぇああっ!?」


 ノラの顔が目の前にあって、少し身を屈めて覗き込んでいた。

 慌てて一歩退くと、King‘s Crossキングス・クロスの赤い木枠が目に映る。いつの間にか店の前に着いていたようだ。無意識ってコワい。


「あ、の、ノラ。出掛けるの?」


 その顔を見ると、たちまち二日前の光景がフラッシュバックする。

 ノラの部屋で全脱ぎしているサシャの姿を目撃して以来、マトモに顔を合わせるのはこれが初めてだ。ちょっと気まずい。昨日も会っているけれど、店の営業中だったから個人的な話をする状況ではなかったのだ。


 その上、さっき後ずさりした拍子に道路に飛び出しそうになったところを、ノラに抱き留められている。この体勢もちょっと、いや、だいぶ気まずい。


「ああ。さっき呼び出されて」


 ノラは持っていた黒いスマートフォンを掲げて見せた。ようやく悠馬の背中を離れた反対の手には、黒いレザージャケットを提げている。

 呼び出されたって、またサシャだろうか。


「そうなんだ。大変だね……」


 何がどう大変なのかは、知らないけれど。


「いや、大変なのは、シオンなんだ。手伝ってやってくれるか、ユウマ?」


 ノラは笑って、背後の店のほうを指す。ガラス戸にちょうど陽光が反射して中の様子は見えない。


「夕方には帰るから。またあとでな」


 また少し腰を屈めて、悠馬の頭を撫でると、その手をヒラヒラ振りながら去っていった。まるっきり、子供扱いかよ。


 二日前の件にも触れなかった。もしかしてサシャから何も聞いていないのだろうかと、ちょっとだけ期待したけれど、急いでいただけかもしれない。

 それとも、これが“大人の余裕”というやつだろうか。


 見てろよ、今にきっと……。ジャケットに袖を通しながら遠くなる、黒い背中を睨みつけて考える。

 身長で追い越すのは、たぶん無理だけど。年齢は、追いつきようがないし。じゃあ……体重なら、なんとか……いや待て、早まるな。


 そうだ、そのうちすっごい金髪美女でもつかまえて、見返してやろう。そうしよう。

 それに将来性でいったら、オレのほうが有望だもんね。


 悠馬はちょっとだけ気を良くして、店前のステップを上がった。ガラス戸の向こうにシオンが見える。なるほど、大変なことになっていた。


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