game 14. ノラのレッスン


 悠馬は悩んでいた。すでに五分くらい、同じ体勢で見下ろしたままだ。


「どう動きたいのか、言ってごらん?」


 ノラが優しく聞いてくれる。

 悠馬は思い切って、指先を駒に向けた。一度触れてしまったら、もうその駒でいくしかないからだ。


「えっと……このビショップを、ここに」

「うん、それはいい手だ。クイーンにも、このポーンにも、睨みをきかせられる」

「でも、それでルークがここに来たら、クイーンとどっちかとられない?」

「そのルークが動けば、次で王手チェックをかけられるよ」

「あ、ホントだ!」


 カイとは打って変わって、ノラの指導は手取り足取り、丁寧な説明まで付いてくる。

 そうだよ。教えるっていうのは、本来こういうことじゃないか。


 二人でチェス盤をのぞき込んで、次の手を一緒に考えるのは、対戦というより作戦会議でもしているようでなんだか楽しい。ボロ負けに打ちのめされるカイのときとは大違いだ。

 ときには「こう動かすといい」と説明しながら、そのまま勝たせてくれたりもする。キングを追い詰めていくよろこびを、ノラ相手に初めて知った。


「でも、上手くなったな、ユウマ。視野が広くなってきた」


 そして決定的な違いがこれだ。ノラは褒めてくれる。


 悠馬は褒められて伸びるタイプだと自認している。褒められればやる気が出るのは人間のさがだ。

 元来、学ぶことは好きだった。そうでなければ、難関大学医学部受験なんてマゾヒストの所業だ。新しいことを覚え、できることが増える。ときには頭を悩ませて、脳回路がスパークしそうなほどに酷使するのも、またたのしい。


 一局終われば、一緒に駒を並べ直す。ノラの手は動きが速くて、ぶつからないよう注意しながら慎重に並べていると、いつもノラが先に終わってこちらのぶんまで手伝ってくれる。


「カイなんて、こういうのも全部オレにやらせるんだ。横暴じゃない?」

「それは……」


 ノラの手が止まった。


「早く駒に慣れてもらうためじゃないかな」

「え、でも、さすがにもう駒は覚えたよ」

「うん……、それだけじゃなくて」


 悠馬のポーンを定位置に収めながら、ノラは言葉を探すように続けた。


「実際、速く並べられるようになっただろう? 駒を把握できているということだ。相手の駒となると、さらにややこしい。それも慣れると、多角的に陣形が見やすくなるよ」


 たしかに、今はこうして雑談しながらでも並べられるようになった。最初の頃は一つ手に取るたびに「これはビショップで、斜めに動くやつだから、外側から二つ目……いや、三つ目か?」などと考えながら、時間をかけて並べていたものだ。


「それに――」


 言いさして、ノラは並べ終わったチェス盤から顔を上げた。切れ長の目がまっすぐにこちらを見る。黒い瞳には吸引力があった。うっすらと開いた唇が、何かを逡巡するような刹那、悠馬は視線すら動かせずにいた。


「ノラ、電話」


 ふいに後ろから声がして、ヒュッと何かが悠馬の頭上を飛び越えた。

 キャッチしたノラは画面を見るなり顔を曇らせる。黒いスマートフォンはノラのものだ。


 チェスをするとき、ノラはスマホを手元に置かない。いつもカウンターのシオンのもとに預けていて、その対応まで委ねているらしい。大事な着信のあったときだけ、シオンが知らせるのだ。


 その点でいくと、カイも見えるところにスマホを出すことはなかった。悠馬はいつもテーブルの端に置いていたが、それに気づいてからはバッグの中にしまっておくようにしている。

 もっとも、カイの場合はシオンに預けているわけではない。まあ、どうせあいつには大事な着信なんてないだろう。

 もちろん、それは悠馬も同じだ。


「あぁ?」


 と言ったかどうかは定かでないが、そんな感じの、ノラには珍しい強い口調で電話に出た。

 店の入口ドアに向かいながら発せられた二言目は、何を言っているのかわからなかった。早口で話す言葉は明らかに日本語ではないし、たぶん英語でもない。


 ノラは外に出て話を続けた。何語かわからない言葉がガラス越しに聞こえてくる。スマホを持つのと反対の手が時々大きく動いて、電話の向こうの相手に怒っているようにも見えた。


(ノラでも、怒ることあるのかな……)


 ぼんやりそんなことを考えていると、ノラは早々に電話を終えたようで、店内に戻ってくるなりシオンに言った。


「出かけてくる」

「カイを呼び出そうか?」

「頼む」


 短い言葉を交わし、こちらへ向かってくる。


「悪い、ユウマ。続きはカイにやってもらってくれ」

「えぇー。またあのスパルタ・キングとやるの?」

「ごめんな」


 通りすがりに悠馬の頭をポンと撫でて、ノラは階段を駆け上がっていった。


 カウンターの中では、シオンが店の固定電話でどこかへかけている。静かになった店内に呼び出し音が聞こえてきた。

 気がつけば、いつも温和なシオンの顔が、いささか険を帯びている。


「……ダメだ、出ないな」


 チッと舌打ちの音が聞こえた気がした。同時に、二階のほうからメロディが響いてくる。それはだんだん近づいてきて、音とともに階段を下りてきたノラが、さっきとは別のスマホをポンとカウンターテーブルに置きつつ足早に店を出て行った。


「あいつ、また置いていきやがった」


 シオンが忌々しげに呟いて受話器を置くと、スマホも直ちに鳴りやんだ。

 カイのスマホは意外にも赤だった。


「この時間なら、公園にいるだろう。悪いけど、ユウマ、呼んできてくれるかな」

「公園って……子供みたいだな」


 遊具で遊んででもいるのだろうか。


「僕は、聞き分けの悪いガキがキライなんだ」


 シオンがいつもの笑顔に戻って言った。


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