II. アンパッサン

game 11. カイのレッスン


「えっ? ちょっと待って。何だよ、今の!?」

「何って?」


 カイはチェス盤から顔を上げもせず、憎たらしいほど澄ました態度で聞き返してきた。


 ポーンという駒は、前に一歩ずつしか進めないが、最初の一歩だけは二マス進むことができる。

 一マス進めればカイのポーンと斜向かいになってしまうから、二マス進めたのだ。これで隣り合わせになった。


「ポーンが相手の駒をとれるのは、斜め前にある時だけだろ?」


 それなのに、カイは隣のポーンを斜めに進めて、悠馬が動かしたばかりのポーンの後ろに置くと、返す手で悠馬のポーンを持ち去ってしまった。


「アンパッサン。今みたいに、ポーンが二マス進んで横にきた場合には、こうやってとれる」


 コン、と音を立てて、カイはさらったポーンを脇に置く。


「はあ? そんなの、聞いてないし!」

「今言った」

「最初から教えろよ」

「最初に教えて、全部覚えられるのか?」


 ぐうの音も出なかった。初日にシオンから教えてもらった各駒の動きさえ、すぐには覚えきれていなかったのだ。その日はさっそく対戦形式をとりながらも、何度も確認しながらのプレイとなった。


「卑怯だぞ! こっちは、始めたばっかの素人なんだから。ちょっとは遠慮しろよ」

「オレだって、シロウトの相手なんか楽しくないね」

「ぐぅ……っ」


 自分から言ったとはいえ、素人呼ばわりされては面白くない。


「こっちは、おまえらのためにチェスを覚えようとしてやってるのに」


 こう言えばどう返ってくるかはわかっていた。わかっていても、止められないのだ。


「言っただろ、こっちはおまえじゃなくたっていい。やると決めたのはおまえだ」


 さっきからこれの繰り返しで、つまるところ、悠馬はカイに負け続けていた。


「まあ“アンパッサン”も、特殊なルールだからね。やっていく中で覚えたほうがわかりやすいんじゃないかな」


 横で見ていたシオンが仲裁に入る。


 どうせなら対戦相手もシオンにやってもらいたかったが、カイのほうが上手いからと言って逃げられた。曰く、ルールは知っているけれどプレイはほとんどやらない、“観る専門”なのだそうだ。


「座れ。ゲームはまだ終わっていない」


 カイに言われて初めて、悠馬は自分が立ち上がっていたことに気がついた。こんなに感情的になるなんて、らしくない。

 おとなしく着席したが、やっぱりまだ言い足りなかった。


「教えてもらっていたら、今のところに動かさなかったし」

「一回教わるのも、一回負けるのも、同じことだろ」

「違うし! それに、まだ負けてない」

「ムキになるなよ。シロウトのおまえが何回負けたところで、気にすることじゃない」


 誰だ、カイが人見知りだとか言ったのは。


「それに、負けて悔しかったら、そのぶん頭に残るだろ」


 だからわざとボロ負けにさせてやっている、とでも言いたげだ。


 実際、何度も何度もカイに叩きのめされるうちに、負けパターンがなんとなくだが見えてきた。


 相手の駒をとれそうだからと調子に乗って追い回していると、いつの間にかキングの前がガラ空きになる。かといって守りを固めすぎると、身動き取れなくなって追い詰められる。


 ポーンが動いた途端、その陰にいたキングとクイーンが同時に射程にとらえられたこともあった。キングをとられたら終わりなので、そうなると泣く泣くクイーンを見捨てるしかない。


 一つ駒を動かす前に、考えることはたくさんある。ネット検索で見つけた解説を読んでもわからなかったが、対戦で駒を失うたびに痛感した。一手一手がものすごく重たい。


 公園でカイとノラの対戦を見たとき、卓球のラリーのようにテンポよく進めていたのは何だったのだろう。エキシビション・マッチとして、予め決めた通りに駒を動かしていただけなのだろうか。

 それはそれで、すごいと思うが。


「終わりだな」


 悠馬がようやく駒を動かして、手を離すと同時にカイが言い放った。そして最初から決めていたかのように、すぐさま自分の駒を動かす。

 それでも、王手チェックはかかっていない。


「え、なんで? ……いや、何が?」

「ああ。三手以内に、キミは負けるね」


 混乱する悠馬をよそに、シオンが盤を見下ろして宣告する。

 そして実際、その通りになった。


「ほら、並べ直せ。もう一回」

「スパルタ・キングかよ」


 負けたほうが並べる、というルールが課せられていた。そうなると当然、毎回悠馬がやることになる。カイはそれをソファにふんぞり返って見ているだけだ。


 悠馬はこのところ、パブの店名の“King”というのが、カイのことではないかという気になっていた。カイは他の二人に対しても遠慮がなく、まるで小さな王様だ。

 King‘s Crossキングス・クロス = King is Cross(王様はご機嫌ナナメ)とは、読めないだろうか。


「カイとノラだったら、どっちが強いの?」


 シオンは“観る専門”だとしても、教えるのはカイとノラの空いているほうがやることになっていた。とはいえ、この数日間ほとんどカイが相手だ。いい加減、スパルタ・キングから解放されたい。


「そういえば、あの賭けって結局どうなったっけ?」


 悠馬の質問をそっちのけに、今度はシオンがカイに聞いた。


「ああ、オレが勝った」


 カイがほくそ笑む。それからようやく、シオンは悠馬に向けて解説した。


「ユウマも見に来てくれた、チェス・マッチ。そこの公園でやってたやつ。二人は、どっちが多く勝つか賭けをしていたんだよ」

「え、そんなことしてたの?」

「もちろん、チェスをやってくれる人を探すための、デモンストレーションだったんだけどね。前の週からやっていたから、四日間で合計……十一戦になったかな?」


 デモンストレーションという言葉が、なんだかしっくりきた。

 抗議活動のデモではなくて、テレビ通販の実演なんかのほうのデモだ。あの試合を見て、悠馬も一気にチェスに惹きこまれた。


「あれ? でも、賭けってことは、普通に勝負してたの?」


 カイは片眉を上げ、シオンは眼鏡の奥の目を瞬いた。どちらも、何を言っているんだこいつは、という表情だ。


「いや、だって、めちゃくちゃ高速プレイじゃなかった? チェスって、もっとじっくり考えながら打つものかと」

「それは、三秒ルールでやっていたからな」

「三秒ルール?」


 それって、落ちたやつを食べるかどうかの境界線に関する取り決めじゃなかっただろうか。


「三秒以内に次の手を打つ。時間は計っていたわけじゃなくて、感覚だけどな。それくらいのほうが、面白いだろ」

「もちろん、公式なチェスにはないよ、そんな鬼畜ルール」


 シオンが笑顔で補足する。

 当然だ。あってもらっては困る。悠馬にもやれと言われたら、鬼畜どころか無理ゲーじゃないか。何が面白いのだ。


「賭けって、何を賭けていたんだよ? 金?」

「ああ、もうすぐ帰ってくるんじゃないか」


 カイがそう言ったとき、店のドアベルがカランカランと音を立てた。


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