game 10. ギャンビット
カイは
二つのソファの間あたりに菱形のボードがかかっている。店の床をギュッと縮小したような、淡いグレーと濃いグレーのチェック柄。ただの装飾品と思っていたが、少し角度を変えれば立派なチェスボードだった。
ノラは窓辺のチェストへ。そこに中世ヨーロッパの砦みたいなオブジェが飾られている。屋根部分が取り外せるようで、中からは取手のついた木箱が出てきた。チェス駒を描いた精密な彫刻が美しい。
中身は彫刻とそっくりの木製の駒で、悠馬はすぐにそれが公園のチェスで使っていたものだと気づいた。
入口側のテーブルに持ち寄って、先日公園で見たように三人で駒を並べる。それからシオンに促され、悠馬もカウンターチェアを降りてスツールに移動した。
シオン自身は向かいのソファには座らず、横に立ったまま、悠馬の前に並ぶ白いチェス駒に手を伸ばした。
「まずは、一番数の多い『ポーン』。これは歩兵で、将棋の『歩』に似ているね。基本的な動きは、前に一歩」
コトンと音を立てて、シオンはキングの前のポーンを一マス先へ進める。
「横にも後ろにも進めない。一歩ずつ、前へ進んでいくだけの実直な兵士」
コン、コン、とさらに二マス進めると、今度は向かいの黒いポーンをとって、一マスこちら側へ引き寄せた。
「ただし、相手の駒をとるときは“斜め前”でないといけない。つまりこの状態では、とれないということだね」
盤の上では、白と黒のポーンが前後に隣り合っている。顔突き合わせて、メンチ切っている歩兵たちを悠馬は想像した。
「じゃあ、この状態だとどっちも動けないんじゃないで……ないの?」
「そう。察しが良くて助かるよ」
チェス盤から顔を上げて聞くと、シオンは笑顔で頷いた。
盤上のポーンのことなのか、それとも悠馬が危うく敬語になりかけたことなのかは、考えないでおくことにした。
「ポーンは凡庸なようでいて、特殊ルールの多い駒だ。例えばその一つ。まだ動かしていないポーンの“最初の一歩”は、一気に二マス進めることもできる」
そう言うと、シオンは隣の列のポーンを二マスぶん前へ進めた。最初の白ポーンの斜め後ろに控えるかたちになる。
「次からは、必ず一マスずつだけどね」
さらに一マス進めて横並びになった。白と黒、二対一のケンカだ。
「そしてこの並びなら、相手の駒をとれる」
シオンは二つ目に動かした白ポーンを、斜め前の黒ポーンのほうへスライドさせて、黒ポーンを盤上から外した。
「駒をとったら“ファイル”、つまり列が変わるということも留意するといい」
今度は白のポーンが二つ、電車ごっこのように前後に並んでいる。前のポーンが動かない限り、後ろは身動き取れないということか。
それからシオンは、ポーンの動きをひと通り説明し終えると、すべての駒を初期位置に戻して、順番に他の駒も説明してくれた。
最重要の「キング」はとられたら終わりの駒だが、一マスずつしか動けない。逆に縦・横・斜めの全てに何マスでも動けて、盤上を縦横無尽に狩りまわるのが最恐の妃「クイーン」。縦・横にだけ動くのは「ルーク」で、斜めが「ビショップ」。残る「ナイト」は将棋の桂馬に似て変則的な動きだ。
「意外と少ないんだな、種類」
改めて盤上の駒を見渡して、悠馬は言った。もはや敬語云々を忘れて、普通に感想が漏れていた。
「それじゃ、ユウマもやってみる?」
「えっ、やるって……?」
「この状況で、チェス以外に何やるってんだよ」
カイに馬鹿にされた。これから一か月、三人にチェスを教えてもらうということなのに、この態度はどうにかならないものか。
「まだいくつか、特殊な動きもあるけど、実際に駒を動かしてみるのが早いからね。ここまでのところで、何かわからないことは?」
「え、いや……」
並んだ駒をしばらく眺めてから、悠馬は「大丈夫」と答えた。実際には、何がわからないか、それがわからない。なるほど、たしかにまずは動かしてみたほうが良さそうだ。
「そういえば」
ふと思い出して、聞いてみた。
「“ギャンビット”って、チェスだっけ?」
「ああ。よく知っているね」
どこだったか、ドラマか漫画で見た気がする。
「ゲーム序盤の戦術として、わざと自分の駒をとらせるやり方だよ」
「わざと、とらせる……。でも、駒が減ったら不利なんじゃないの?」
「通常はポーン」
シオンは並べ直したチェス盤の向こうで、クイーンの前のポーンに手をかけた。
「コイツがいなくなれば、後ろの駒が動きやすいでしょ」
手と言っても、実際に使ったのは長い人差し指の先端だけで、ポーンの頭に乗せて、コトンと前に倒す。ポーンは盤上を転がり悠馬の眼前にクイーンの姿が露わになった。
「先に犠牲を払って、自陣を有利に展開するんだ。もちろん、ただ減らせばいいってわけじゃない。そこはあくまで、戦略的にね」
シオンは銀縁眼鏡の奥で目を細めた。
「犠牲」
真っ先に頭に浮かんだのは、カイの言葉だ。
何かを犠牲にしなきゃ、始められない。
初めてここへ来た日の帰り道、カイはそう言った。自分は何を犠牲にしただろう。
今週は講義をいくつかサボった。でもそれは、ここへ来なくてもたぶん同じことだったから、犠牲とまでは言えない。代わりに家でダラダラ過ごしていたであろうことと比べれば、何も失った気がしない。片道一時間ほどの移動時間? 電車賃? どれもピンとこない。
今はまだわからなくて、いつか気づくときが来るのかもしれない。
それならば、と脳内にささやかな反乱が始まる。
それならいっそ、今はそんなこと気にせずに、ただこの時間を楽しめばいいんじゃないか。
その先に待つものが、どんなものであったとしても。
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