game 8. ようこそ


 十字町駅で電車を降りると、悠馬はスマートフォンを片手に夜道を急いだ。

 閉店時間まではまだまだあるし、急いだところで何も変わらないとはわかっている。それでも、はやる気持ちを抑えられない。

 何より、一刻も早く確かめたかったのだ。あれが夢ではなかったことを。


 駅を出て、左の道をまっすぐ。開いたままの地図アプリを見るまでもなく、経路は電車の中で何度も確認して、頭の中に入っている。この先の角を左に曲がって、斜めの道に入って……。速歩はやあしは、いつしか小走りに代わっていた。


 最後の角を曲がって、細道を抜けると二車線道路に行き当たった。


「……あった」


 交差点の角に立つ、赤い木枠のガラス扉の店。

 店の前にはイチョウの街路樹が並び、色づきかけた葉っぱが落ち着いた外観に彩りを添えている。日照の問題か土壌の違いか、こちらのほうが公園よりも遅いようだ。枝ぶりもコンパクトに、トーチのようにツンツンと立っている。


 改めて店構えを見ると、入口ドアは左隣が同じデザインの大きな窓になっていた。黒っぽいガラス越しに暖かな光が漏れている。反対の、交差点に近い側は白壁だ。明かりとりの窓だろうか、高い位置で小さな十字に抜けていて、ぼんやりオレンジ色の光を薄暗い店先に放っている。


 見上げると、二階部分の窓下には大きな字で店名が掲げられていた。

 King‘s Crossキングス・クロス

 白壁に浮かぶ黒い文字に金の縁取り。背景の色こそ違えど、流れるような字体もショップカードと同じだ。


 その右上の隅に、小さな文字を見つけた。交差点の角にあたる右端の窓のすぐ下だ。店名とは打って変わって、黒のシンプルな文字で“DR.NK”とある。


「ドクター・NK……」


 何だろう、と思いながら道路を渡った。


 店先の三段のステップを上がると、狭いながらもウッドデッキになっている。酒樽のようなテーブルと、観葉植物がそれぞれ左右に置かれていて、悠馬はその間に立って息を整えた。急いできたので身体が熱い。


 ドアの向こうに黒いエプロンを着けた長身の男性が見えた。ノラだ。

 深呼吸して、扉を開ける。

 カランカランというドアベルの音にノラが振り向いた。


「あれ。もしかして……」


 一瞬にして背筋が冷えた。

 あれ。もしかして、今さら引き受けるなんて言いに来たの? 残念。とっくに別の人に決まったよ。


 思考の速度は、話をするよりもずっと速い。一つ言葉を発する間にも、頭の中ではいくつもの可能性を考慮し、取捨選択し、ついでに反省したりもする。


 つまり、どういうことかと言うと、先走り過ぎた悠馬の脳回路が出した答えは、実際にノラが示した反応とは全く異なるものだったのだ。


「いらっしゃい、ユウマ。待っていたよ」


 名前を覚えていたことも、下の名前で呼ばれたことも驚きだった。

 そして何より、こんなふうに笑う人だと思っていなかった。


 バーで飲むにはまだ早い時間なのか、客はテーブル席に一組と、カウンターの端に一人いるだけだった。シオンはカウンターの中で接客をしていたが、入ってきた悠馬に笑顔で頷いてみせた。


「あの、オレ――」

「待って」


 ノラは言葉を遮ると、悠馬にカウンター席を勧めて、自らは店の奥に消えてしまった。その先には二階へと続く狭い階段が見える。


「何か飲む?」


 カウンターの客が帰って、シオンが話しかけてきた。

 白いシャツにグレーのベスト。こうして見ると、なるほどバーテンダーらしい服装といえるかもしれない。ただ、やはりお堅い仕事のほうが似合いそうな雰囲気はある。


「お酒は飲める? ユウマは、大学生だったね。年齢は?」

「え、ああ……はい」

「身分証、確認せてもらっていいかな」


 誤魔化せなかった。悠馬は大人しく学生証を出した。

 ただ、こういう展開を半ば期待していたというのもある。


「へえ、高原たかはら大学の……医学部」


 ちょうど戻ってきたノラにも、シオンは学生証を掲げてみせた。後ろにカイもついてきている。

 ノラも少し驚いた顔をして、カイは興味なさそうに悠馬の隣に座った。


 高原大学といえば誰もが知る難関大で、その医学部ともなれば「学年トップクラスの天才が行くところ」というのが世間一般の認識だ。だから大抵の人がシオンのような反応をする。

 悠馬が合格したときも、親の自慢になり、親戚中の話題になり、報告に行った高校では知らない先生たちからも祝福された。


 ただし英雄の寿命は短い。

 それはせいぜい、合格通知が届いてから夏が終わる頃までで、あとは普通のこととなる。「天才だけが行くところ」なのだから、周りはみんな天才なのだ。


「十九歳ね。ダメだよ、うちの店では」


 シオンは笑顔で学生証を返してきた。


「サイダーは好き? それとも、お茶かジュースがいいかな」

「あ、じゃあ……サイダーで」


 三人に囲まれて、悠馬は改めてチェスの勝負を引き受けると告げた。


 シオンとノラは喜んでくれた、カイは何も言わなかったが、それはまあ、想定内だ。むしろこの前のように戦意を削ぐようなことを言われなかっただけ、良しとしよう。


「ありがとう、ユウマ」


 顔を上げると、背の高いグラスが立っていた。ノラがそれを、コースターごと悠馬の前にスライドさせる。シオンはテーブル席の会計に呼ばれていった。


「えっ、いや……。あの、こちらこそ?」


 グラスの中では、シュワシュワと立ち昇る泡に包まれて緑の果実が溺れている。泡とともに爽やかな柑橘系のにおいがはじけた。

 思っていたサイダーより、だいぶオシャレだ。


「オレは、タリスカー」


 戻ってきたシオンに向けてカイが言う。


 はいはい、と苦笑しながらシオンは背後の棚からグラスを取りだした。カランカランと氷を入れる。透明度の高い、綺麗な氷だ。カウンターテーブルに置かれると、淡い照明の下でカットグラスと氷がキラキラしている。


 そこに注がれたのは、琥珀色の液体だ。興味本位でのぞき込むと、ツンと刺激のある香りが鼻をついた。


「それって……もしかして、お酒じゃないのか?」


 自分はダメで、カイはOKというのはおかしい。身内だろうと仲間内だろうと、ダメなものはダメだ。ひったくろうとした悠馬の機先を制して、カイはグラスを手にしていた。


「ガキはジュース飲んでろ」

「ガキって、それはおまえも――」


 ハッとして、カウンター向こうのシオンを見る。ノラを見る。


「えっ……まさかの、年上!?」


 グラスは他にも二つ出てきた。赤ワインの入った足の長いグラスと、何かわからないが透明の液体が入った小さなグラスだ。


「じゃあ、乾杯といこうか」


 シオンがワイングラスに指をかけて言った。

 それを顔の高さに掲げる。


「ようこそ、ユウマ」

「歓迎するよ」


 ノラは小さなグラスをとって、悠馬のグラスにぶつけると、グイッと一気にあおった。


 反対側から、カランと氷の音がした。


「よろしく」


 カイがグラスを傾けて、唇の端を引き上げた。


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