game 6. 無想の境


 一限目は解剖学。ひたすら筋肉の名前を覚える苦行だ。

 でも、本当の苦行は講義が始まるまでの数分間にある。


「あぁ~あ、朝からだりぃな。誰か代返しといてくれね?」

「おまえ、また女のとこ泊まりかよ」

「サークルの先輩だっけ。よくやるよな」


 陽当たりの良い窓際で、キンキラ頭の陽キャたちが騒いでいる。

 入学当初はみんな黒髪のマジメくんだったのに、日が経つにつれ脱皮していくかのように変貌した。髪色は明るくなり、パーマをあてたりツンツン尖らせてみたり。それに応じて服装も、話の内容もどんどん派手になった。


「いつの話だよ、それ。今はナース! ここの大学病院の」

「え、もしかして、この前の病棟見学のときの子?」

「だってさぁ。先輩と付き合っとけばいろいろ便利かと思ったけど、女医ってやっぱ、なんかキツそうじゃない?」

「あぁー、わかる!」


 その女医の卵がたくさんいる教室内で、よくまあ堂々言えたもんだ。

 それに“子”なんて言って、夏の病棟見学実習でお世話になった看護師さんなら、自分たちより年上じゃないのか。


 いや、これはべつに、聞き耳を立てているわけではなくて。あいつらの声が無駄にデカすぎて、嫌でも耳に入ってきてしまうのだ。

 悠馬は心の中で、誰にともなく言い訳をした。


「だったら毎晩、解剖学の実技講習してもらえんじゃん? 先生~、ここが大内転筋だいないてんきんでぇ……」

「おい、やめろコラっ!」

「あれぇ、先生、血圧上がってますよぉ? お注射しときますー?」

「それより先生のお注射がぁ……」


 くっっっだらない。


 下卑た笑いは聞くに堪えないが、だからといって、もうすぐ講義が始まる教室から出て行くことはできないし、耳を塞ぐことはもっとできない。


 それとも、医学部生ともなれば、これくらいの話題は軽々受け流すべきなのだろうか。人の裸どころかまでも、日常的に接することが当たり前――そんな世界に、自分は身を置こうとしている。


 いや。果たしてそんな未来が、本当に自分のもとにやって来るのか。悠馬にはまだ想像がつかなかった。もしかしたら、永遠に来ないのかもしれない。


 医学部といっても大学二回生の現時点では、教室でくだらないクラスメイトたちと机を並べてつまらない座学に明け暮れるだけの毎日だ。病棟とか、患者とか、そういったものにはまだほとんど縁がない。言ってみれば、高校の延長線上みたいなもの。


 高校生の頃なら、教室内でこの手の話題が出れば目くじら立てる女子がいたものだが、ここでは女子も女子で、同レベルの会話を大っぴらにしている。


「え、またサイズ変ったの?」

「そうなの。だから週末、新しいの買いに行かないと」

「この前も買換えたって言ってなかった? ズルーい。なんで? ……あ、もしかして、カレシとか?」

「揉んでもらったら育つってやつ? アレって本当なの?」

「うーん。それは、ある……かなぁ?」


 きゃああっと黄色い声が上がって、教室のあちこちから何人かが振り返った。


 こんなとき、クラスの陰キャたちはつられてはいけない。

 見るのはおろか、表情筋ひとつ動かすだけで、聞き耳を立てていたと思われて「キモい」と言われる。息をするだけでもキモいと言われる。

 見ざる・聞かざる・息せざる。ひたすら無の境地を求めて、精神修行に入るのだ。


 陰キャの境界線はどこにあるのだろうと、いつも考える。

 小学生の頃は、足が速いかお調子者ならだいたいセーフだった。中学生でもメジャーなスポーツをやっていれば比較的安全圏に入りやすいが、見た目の重要度は上がってくる。背が低い・太っている・眼鏡をかけている、の三大要素合わせ技は非常に危険だ。


 悠馬はそのどれにも属していない。

 属していないといえば、サークルに入っていないのはマイナス要素か。帰宅部エースは、バスケ部エースと比肩しない。やっぱり、どこかラクそうなところに適当に入っておくべきだったかな。今さら遅いけれど。


 でも、そんなやつは他にいくらでもいる。勉強が忙しくなって行かなくなったという話も小耳に挟むし、それで責められているところを見かけると、サークルに入らなくて正解だったとも思う。


 それに……。


 窓の外に視線を移すと、抜けるような秋空が広がっていた。その先に、悠馬はイチョウ舞い散る公園を思い描く。

 昨日の男性、塩谷さん――「シオン」は、眼鏡をかけていた。でも、あれは間違いなく境界線のだ。三人とも。


 三人とも、楽しそうだった。あの三人なら、こんなふうに教室の真ん中でうじうじと思い悩むことなんてないのだろう。

 そう、基本自由席の大学の教室で、真の陰キャが棲息できるのは“隅っこ”ではない。


 イケメンだったら何でも許されるのか? 漫画やアニメでも、イケメン眼鏡キャラには一定の需要がある。※ただしイケメンに限る。ココ重要。

 いつの世も、人間は生まれながらに不平等なものだ。


 カイのように目立つ外見なら、きっと人生イージーモードだろう。派手な仲間を従えて、明るい陽射しの下で談笑とかするんだ、きっと。

 でも、それならどうして、平日の昼間にあんなところにいたのかな。学校ではモテすぎて、逆に居づらくなったとか……?


 想像力を駆使してみたところで、所詮のことだ。悠馬にわかるはずもなかった。


「解なし。……甲斐なし」


 知らぬ間に口に出ていて、近くの女子に睨まれた。


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