game 3. CROSS


 連れて来られたのは、広大な緑地公園を抜けて、駅のほぼ対角に位置する住宅街の中だ。


 駅のある側が「表」なら、こちらは「裏」なのだろう。通用口のような簡素なゲートがあって、それを出るとすぐ住宅街だった。人通りの少ない細道をいくつか横切り、いくつか曲がったところで、二車線道路に行き当たった。

 その交差点に立つ店が、どうやら目的地らしい。


 赤い木枠に黒っぽいガラスをめこんだ扉を開けて、通された先はバーのような空間だ。

 右側にはカウンターテーブルが奥まで伸び、その背後にはボトルやグラスがずらりと並んでいる。反対側にはテーブル席が二つあるだけの、小ぢんまりとした店だ。


 床はライトグレーと黒に近いダークカラーのタイルが交互に並び、市松模様を描いている。壁に掛かる写真もほぼモノトーンで、ベンガラ色の革のソファと、お揃いのスツールだけが色を添える。

 昼間だというのに店内は薄暗い。奥にはガラス越しに小さな庭のようなものが見えて、そこと、入口側だけが、外からの光を取り込んでいた。


 悠馬は促されて、入口側のテーブル席のソファに座った。眼鏡の男性が向かいのスツールに掛ける。


「僕は塩谷しおや。『シオン』って呼ばれている。それから、そっちの黒いのが『ノラ』で、白いのが『カイ』」


 同様のことは、公園から移動する前にも聞いていた。そんな適当なのでいいのかよ、と内心思ったが、場所を変えて改めて紹介されても内容はさして変わらず、当人たちも何も言わない。


 ノラと呼ばれた長身黒服の男性は、ジャケットを脱いでカウンターにもたれかかっていた。中に着ていたのも黒いTシャツで、鍛えているのか、短い袖からのびる腕がたくましい。

 白い少年カイは、隣のテーブル席についていた。パーカーのフードは外して、淡い色の髪が庭から差し込む光に輝いている。プラチナブロンドというのだろうか。髪も肌も、悠馬が見たことのないほど色が薄い。


「あ、森宮……森宮悠馬もりみやゆうま、です」


 自分だけフルネームで名乗るのも変な気がしたが、それ以外の方法がわからなかった。


「それで、ここからが本題だけど」


 シオンと名乗った男性が、スツールの上でゆったりと足を組み替えながら言う。


「僕たちは、ある人物と賭けをしていてね」


 その内容についても、ここへ来るまでの道中にあらましは聞いていた。


 要約するとこうだ。

 彼らが見出したチェスの初心者に、一から教えて育て上げ、一か月後に勝負をさせる。その「初心者」として、悠馬に白羽の矢が立ったのだ。


「練習は、大学が終わってからとか休日とか、時間のあるときだけで構わない。僕たちのほうも、仕事の合間の、時間があるときだけになってしまうけれど」


 大学のことが出てきて、悠馬はギクリとした。この時間にここに来ている時点で、サボり癖まで見抜かれているのだろうか。

 いや、だけど、学部と学年によっては、平日の昼間でもヒマな大学生は多いはずだ。


「ここまで話しておいて、何だけど……」


 ひと通りの説明を終えると、シオンは声のトーンを変えた。


「正直なところ、キミにメリットがあるとは言えない。せいぜい、チェスができるようになるくらいかな。負けたとしても害はないが、どれだけ頑張っても報酬はない。これはあくまで“遊び”だからね」


 それから眼鏡の奥の目を細めて、ふいに悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべる。


「まあ、勝ったら何か一つくらい、お願いを聞いてあげてもいいけれど……」


 それもすぐに消えて、最後にこう締めくくった。


「ただ、一か月の間、僕たちの遊びに付き合ってくれというだけのハナシだ。断ってくれても構わない。やるかどうか、よく考えてくれ」


 沈黙が降りる中、悠馬は慎重に空気を読んだ。

 ここで「はい、わかりました」と受け入れてしまえば二流。「なんだそれ、わけわからない」と反発するのは三流だ。


「あの、塩谷さん」

「シオンでいいよ」

「シオン、さん……」

「シオンでいいよ」

「…………えっと、シオン」

「はい。何かな?」


 笑顔の圧がすごい。


「その、賭けって……」


 気を取り直して、質問に入る。

 何から聞くかは決めていなかった。まずは、一番手軽なところがいいだろう。


「相手は誰なんですか? オレは……誰と勝負するんですか?」

「言った通り、賭けの相手は“ある人物”だよ。それと、敬語も要らない。そのほうがやりやすいから。この二人に対してもね」


 シオンの後ろで黒服のノラがうなずく。


 たしかに、ここへ来る途中も、カイは明らかに年の離れた二人とタメ口でしゃべっていた。シオンとノラは、おそらく三十代くらい。シオンのほうが少し上だろうか。いずれにしても、カイとはひと回りは違いそうだ。


「他に質問は?」

「あ……、えっと。賭けの内容って? 負けたら、どうなるのかとか……」


 ただでさえ気を遣う初対面の会話が、敬語を禁じられると余計難しい。


「それは、キミが知る必要のないことだ。キミはただ、チェスで勝つことだけを考えてくれればいい。もちろん、負けたとしてもキミが代償を払うことはないが」


 そう言われてしまうと、これ以上質問を重ねるのは難しい。何を聞いても「キミには関係ないことだ」と突っぱねられてしまいそうだ。やってほしいという割に、なんだか冷たくなかろうか。


 シオンは黙り込んだ悠馬の前から立って、カウンターテーブルに移動した。背の高いチェアに腰かけて何かを書いている。

 悠馬はそっと、あとの二人を盗み見た。シオンが説明している間、二人とも一度も言葉を発しなかった。やる気があるのか、ないのか……。


 慎重に上げたつもりの視線が、ノラとぶつかって、微笑みを返された。慌てて横に逸らしたところへ、ちょうどカイも顔を上げて、冷たい瞳に射貫かれた。

 逃げるように顔を戻すと、シオンが小さなカードを渡してきた。


「決めるのは、すぐじゃなくていいから。引き受けてくれる決心がついたら、またここへおいで」


 ワインレッドの背景に、黒文字で“King‘s Crossキングス・クロス”とプリントされている。流麗な字体に金色の縁取りが施され、店の雰囲気に似た落ち着いたデザインだ。

 余白には手書きで数字が記してある。電話番号だろう。


 悠馬の心はすでに決まっていて、すぐにでもチェスを始めたいくらいだった。でも、それを言える感じではない。

 まあ、いい。今日のところは帰って、今度教えてもらうときにスムースに覚えられるよう、基本ルールくらいはネットで調べておこう。


「帰り道はわかる?」

「あ、はい……」


 緑地公園まで出れば何とかなるだろうが、住宅街をどう歩いてきたのかは覚えていない。地図アプリで確認しておこうとスマートフォンを取り出すと、シオンが笑って言った。


「電車なら、『十字町』のほうが近いよ。駅まで送ろう」

「え、でも……」

「気にしないで。送るのはカイだから」

「は? なんでオレが」


 ずっと黙っていたカイが、顔を上げて抗議した。


「だって、僕たちは店の準備があるし」


 シオンが視線を向けた先では、ノラがすでにカウンターの中に入っていて、何かの作業を始めている。


「だったら、オレが掃除しとくからその間に……」


 なおも抵抗するカイを、シオンは相手にしなかった。


「ノラ。今夜のまかない、タコ焼きでいいかな?」


 その言葉が終わらないうちに、カイはフードを被りなおして席を立っていた。


 タコ焼き、好きなのだろうか。



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