第7話「揺れる心」

 梅雨の晴れ間を縫うように、夕暮れの公園に燐と翔の姿があった。二人は偶然にも同じ時間に、同じ場所を訪れていたのだ。燐は研究の合間の気分転換に、翔は何か思うところがあってか、それぞれが一人で散歩に来ていた。


「あ、早乙女さん」


 翔の声に、燐は驚いて振り返った。


「翔さん……こんな所で会うなんて」


 燐の声は少し上ずっていた。研究室以外で二人きりになるのは、これが初めてだった。


「ええ、偶然ですね」


 翔は優しく微笑んだ。その笑顔に、燐は思わず見とれてしまう。


「少し、歩きませんか?」


 翔の誘いに、燐は小さく頷いた。二人は並んで歩き始めた。公園の小道には、夕陽に照らされた木々の影が長く伸びていた。


 しばらくの間、二人は無言で歩いていた。しかし、それは決して居心地の悪い沈黙ではなかった。むしろ、お互いの存在を強く意識し合う、甘美な時間だった。


「早乙女さん」


 突然、翔が立ち止まった。燐も足を止め、翔を見上げた。


「はい?」


「実は、僕には……」


 翔の声には、普段には感じられない緊張が滲んでいた。燐は息を呑んで、翔の次の言葉を待った。


「僕には、言わなければならないことがあるんです」


 翔の瞳には、決意と不安が混在していた。燐は自分の心臓の鼓動が早くなるのを感じた。


「翔さん……」


 燐が小さく呟いた瞬間、空から大粒の雨が降り始めた。まるで、二人の間の緊張を和らげるかのように。


「あ、雨!」


 燐の驚いた声に、翔は我に返ったように周りを見回した。


「こっちです。あそこに東屋がありますよ」


 翔は燐の手を取り、急いで東屋に向かった。燐は翔の大きな手に包まれた自分の手の温もりを感じながら、夢中で走った。


 東屋に辿り着いた二人は、息を切らせながらも笑みを浮かべていた。


「びっくりしましたね」


 燐が言うと、翔もくすりと笑った。


「ええ、天気予報を見ていなかったのは失態でした」


 雨音を背景に、二人は少しずつ落ち着きを取り戻していった。しかし、先ほどの翔の言葉が、燐の心に引っかかっていた。


「翔さん、さっきの話の続きを……」


 燐が恐る恐る切り出すと、翔の表情が一瞬曇った。


「ああ、それは……」


 翔は言葉を選ぶように、少し間を置いた。


「早乙女さん、僕は……」


 その時、突然の雷鳴が二人を驚かせた。燐は思わず翔に寄り添うように体を寄せた。


「大丈夫ですか?」


 翔の声には、優しさと心配が滲んでいた。燐は小さく頷いたが、その姿勢のまま動かなかった。


「早乙女さん、僕が言いたかったのは……」


 翔の声が、燐の耳元で響く。


「僕には、まだ誰にも言っていない秘密があるんです」


 その言葉に、燐は顔を上げて翔を見つめた。翔の瞳には、深い葛藤が映っていた。


「それは……どんな秘密なんですか?」


 燐の声は、か細く震えていた。


「それは……」


 翔が言葉を続けようとした瞬間、雨は急に強くなり、風も激しくなった。東屋の中にまで雨が吹き込んでくる。


「ここも危険かもしれません。帰りましょう」


 翔は燐を守るように抱き寄せながら、そう言った。


「でも、翔さんの話は……」


「また改めて。約束します」


 翔の真剣な眼差しに、燐は小さく頷いた。


 二人は雨の中を走って、それぞれの家路についた。別れ際、翔は燐に向かって言った。


「明日、研究室で会いましょう」


 その言葉に、燐は何か大きな約束を交わしたような気がした。


 家に戻った燐は、ずぶ濡れの服を着替えながら、今夜の出来事を思い返していた。翔の秘密、彼の真剣な眼差し、そして雨の中で感じた彼の体温。全てが燐の心を激しく揺さぶっていた。


 窓の外では、まだ雨が降り続いていた。その音を聞きながら、燐は翔との新たな関係に思いを馳せた。明日、どんな展開が待っているのか。期待と不安が入り混じる中、燐は眠りについた。



 梅雨明けの蒸し暑い夏の朝、早乙女燐は研究棟に向かう道を急いでいた。彼女の胸には、昨夜の出来事が重くのしかかっていた。


 研究室に到着すると、鷹宮翔がすでに作業を始めていた。彼の姿を見た瞬間、燐の心臓が高鳴った。


「おはよう、早乙女さん」


 翔の穏やかな声に、燐は小さく頷いた。


「お、おはようございます……翔さん」


 燐の声は、いつもより少し震えていた。昨夜、二人は偶然にも大学の近くの公園で出会い、長い時間を過ごした。そこで翔は、自分に関する重大な秘密を明かしかけたのだ。


 燐は実験台に向かいながら、昨夜の会話を思い出していた。


「早乙女さん、実は僕には……」


 そこまで言いかけた翔の言葉は、突然の雨で遮られてしまった。二人は慌てて別れ、それ以上の話はできなかった。


「翔さん、昨日の話の続きを……」


 燐が恐る恐る切り出すと、翔は少し困ったような表情を浮かべた。


「ああ、それは……今は研究に集中しましょう。大切な実験の日ですから」


 翔の言葉に、燐は複雑な思いを抱えたまま頷いた。確かに今日は重要な実験日だ。しかし、燐の心の中では翔への好奇心と、自分たちの関係性への不安が渦を巻いていた。


 実験が始まると、燐は自然と研究モードに入った。彼女の繊細な指先が、精密機器を正確に操作していく。しかし、その集中力の奥底では、常に翔の存在を意識していた。


 昼休憩、燐は屋上で一人、弁当を広げていた。


「燐、一緒に食べてもいい?」


 声の主は葉月詩織だった。


「ええ、どうぞ」


 燐は小さく微笑んだ。詩織は燐の隣に座り、自分の弁当を開けた。


「ねえ燐、最近の鷹宮翔との関係はどう?」


 詩織の質問に、燐は思わずむせそうになった。


「え? そ、そんな特別な関係なんて……」


 燐の言葉に、詩織は小さく笑った。


「嘘はダメよ。二人の間に何かが芽生えているのは、誰の目にも明らかだわ」


 燐は顔を赤らめながら、ゆっくりと頷いた。


「でも詩織、私……翔さんのことがよく分からないの」


 燐の声には、不安が滲んでいた。


「どういうこと?」


「翔さんには、何か大きな秘密があるみたい。昨日、話そうとしていたんだけど……」


 詩織は真剣な表情で燐の話を聞いていた。


「ふーん、そう……でも燐、それは翔さんを信じて待つべきよ。きっと、話すべき時が来るはず」


 詩織の言葉に、燐は少し安心したように見えた。


 午後の実験中、燐は翔の横顔を見つめながら考えていた。彼の秘密が何であれ、自分は彼を受け入れる覚悟がある。そう思った瞬間、燐の胸に温かいものが広がった。


 実験が一段落したころ、常盤教授が研究室に姿を現した。


「良い進展だ、二人とも。特に早乙女君、君の体質は本当に驚異的だよ」


 教授の言葉に、燐は小さく頷いた。しかし、その瞬間に翔の表情が曇るのを見逃さなかった。


「どうかしましたか、翔さん?」


 燐が尋ねると、翔は少し躊躇した後、ゆっくりと口を開いた。


「実は……僕には、超越男子としての能力以外にも特殊な体質があるんです」


 その言葉に、燐は息を呑んだ。


「それって……どういうことですか?」


 燐の声は震えていた。翔が超越男子であることは知っていたが、それ以上の特殊性があるとは思っていなかった。


 研究室の空気が一瞬で凍りついたように感じた。早乙女燐は、鷹宮翔の言葉を理解しようと必死に頭を働かせていた。


「僕の体は……通常の超越男子よりもさらに特殊で、複数の遺伝子を同時に受け継ぐことができるんです」


 翔の声は、いつもの冷静さをやや失っていた。その瞳には、不安と期待が入り混じっているのが見て取れた。


 燐は息を呑んだ。超越男子の存在自体が稀有なこの世界で、さらに特殊な能力を持つ翔の告白に、彼女の心臓は激しく鼓動していた。


「複数の遺伝子を……同時に?」


 燐の声は震えていた。その意味するところを完全に理解できていないにも関わらず、この事実が持つ重大さを直感的に感じ取っていた。


 翔はゆっくりと頷いた。


「はい。通常の生殖過程では、父親と母親からそれぞれ一つずつの遺伝子を受け継ぎます。しかし僕の場合、三つ、四つ、時にはそれ以上の遺伝子を同時に組み込むことができるんです」


 翔の説明に、燐の目が大きく見開かれた。それは、生物学の常識を根底から覆す事実だった。


「それって……つまり」


「そうです。理論上は、複数の親から遺伝情報を受け継いだ子孫を残すことが可能なんです」


 翔の言葉に、研究室全体がざわめいた。常盤教授も、驚きのあまり言葉を失っているようだった。


 燐は、自分の体に特殊な模様があることを思い出していた。そして今、目の前にいる翔もまた、驚くべき特殊性を持っている。二人の出会いは、単なる偶然ではなかったのかもしれない。


「翔さん、それは……すごいことです」


 燐の言葉に、翔は複雑な表情を浮かべた。


「ええ。でも、この能力がもたらす可能性と同時に、責任の重さも感じています」


 翔の声には、重圧が滲んでいた。彼の能力は、人類の進化に大きな影響を与える可能性を秘めていた。それは、祝福であると同時に、重荷でもあったのだ。


 燐は、翔の心の内を察したように、そっと彼の手に自分の手を重ねた。


「私たちの研究は、きっとその能力を正しく理解し、活用する道を見つけられるはずです」


 燐の言葉に、翔は小さく微笑んだ。その瞬間、二人の間に新たな絆が生まれたように感じた。


 常盤教授が咳払いをして、二人の注意を引いた。


「君たち二人の特殊性が重なったことで、この研究はさらに重要な意味を持つことになりました。社会に与える影響も、計り知れません」


 教授の言葉に、燐と翔は顔を見合わせた。彼らの前には、未知の可能性と課題が広がっている。しかし、二人で力を合わせれば、きっと乗り越えられる。そう確信した瞬間だった。


 翔の表情には、mだ複雑な感情が浮かんでいた。誇りと不安、そして燐への信頼。


 燐は、自分の中に湧き上がる感情の渦に戸惑っていた。驚き、戸惑い、そして……喜び? 彼女は自分でも理解できない感情に困惑しながら、翔をじっと見つめた。


「翔さん……私……」


 燐が言葉を探していると、突然、研究室のドアが開いた。


「失礼します」


 声の主は、医療機器開発者の棗栖啓人だった。


「ああ、棗栖さん。来てくれてありがとう」


 常盤教授が立ち上がり、啓人を迎え入れた。


「早乙女君、鷹宮君、こちらは新しい研究機器を提供してくれる棗栖啓人さんだ」


 啓人は穏やかな笑顔を浮かべながら、燐と翔に向かって軽く頭を下げた。


「初めまして。二人の研究、大変興味深く拝見しています」


 啓人の言葉に、燐は小さく頷いた。しかし、彼女の心はまだ翔の告白に揺れていた。


 その日の夕方、燐は一人で大学の中庭にいた。頭の中は、翔の告白と自分の感情で混乱していた。


「燐」


 声の主は翔だった。燐は驚いて振り返った。


「翔さん……」


 翔は燐の隣に座り、夕焼けを見つめた。


「さっきは、突然のことですまなかった」


 翔の声には、申し訳なさが滲んでいた。


「いいえ、私こそ……ちゃんと受け止められなくて」


 燐は小さく首を振った。


「でも翔さん、私……翔さんの秘密を知って、少し嬉しかったんです」


 燐の言葉に、翔は驚いたように燐を見つめた。


「どうして?」


「だって……私も特殊な体質を持っているから。翔さんとなら、もっと深く分かり合えるかもしれないって」


 燐の瞳には、小さな希望の光が宿っていた。翔はゆっくりと微笑んだ。


「ありがとう、燐」


 翔が燐の名前を呼んだのは、これが初めてだった。燐の心臓が大きく跳ねた。


「これからも一緒に、この研究を進めていけたら」


 翔の言葉に、燐は強く頷いた。


「はい、私も……そう思います」


 二人の間に流れる空気が、少しずつ変わっていくのを燐は感じていた。それは単なる研究パートナーを超えた、もっと深い絆のようだった。


 夕陽が沈みゆく中、燐と翔は並んで座っていた。彼らの前には、まだ見ぬ未来が広がっている。それは不安と希望が入り混じった未来。しかし、二人で歩んでいけば、きっと乗り越えられる。そう信じられる強さが、燐の心に芽生えていた。


 研究棟の窓から、常盤教授がその光景を見つめていた。彼の表情には、複雑な思いが浮かんでいた。


「あの二人が出会ったことで、この研究は思わぬ方向に進むかもしれないな……」


 教授のつぶやきは、誰にも聞こえることはなかった。しかし、それは今後の展開を予感させるものだった。


 夜空に、最初の星が瞬き始めた。それは、燐と翔の新たな物語の始まりを告げているかのようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る