幕間「揺れる美学」

 梅雨明けの蒸し暑い午後、早乙女燐は葉月詩織に誘われて東京ファッションウィークの会場に足を踏み入れた。普段は研究に没頭している燐にとって、こうしたイベントは縁遠い世界だった。一方、詩織は最新のトレンドに目を輝かせ、興奮気味に燐の手を引いていく。


「燐、見て! 今年のトレンドは『解放美学』なんですって!」


 詩織の声には、純粋な喜びが溢れていた。燐は小さく頷きながらも、どこか居心地の悪さを感じていた。


 会場に足を踏み入れた瞬間、燐は息を呑んだ。そこは、彼女の想像をはるかに超える光景が広がっていた。


 まず目に飛び込んできたのは、胸元を大胆に露出したドレスを着た女性たちだった。彼女たちの豊満な胸は、まるで芸術作品のように強調され、キラキラと輝くボディージュエリーで飾られている。ある女性は、胸の谷間に繊細な花の模様をボディーペイントで描いており、それは生きた絵画のような美しさだった。


 さらに視線を移すと、背中を大きく開けたドレスを纏う女性たちの姿が目に入る。彼女たちの背中には、複雑な幾何学模様のタトゥーが施されており、それが露出した肌の美しさをさらに引き立てていた。


 会場の一角では、透け感のある素材を使ったドレスを着た女性たちが談笑していた。その衣装は、着ているのか着ていないのか判断に迷うほどの薄さで、肌の質感さえも透けて見えるほどだった。


 燐の目を引いたのは、下半身の露出を極限まで高めたファッションだった。ハイウエストのショートパンツは、臀部の下部をあらわにし、長い脚のラインを存分に魅せていた。さらに大胆なのは、腰の部分が大きく切り取られたドレスで、骨盤のラインまでもが露わになっていた。


 会場の中央付近では、全身をボディーペイントで覆った女性たちが、まるで生きた彫刻のようにポーズを取っていた。その姿は、人体の美しさを極限まで表現しているようで、見る者を圧倒する存在感を放っていた。


 燐の横を通り過ぎた女性は、乳首にキラキラと輝くピアスを付けており、それを誇らしげに見せびらかしているようだった。別の女性は、局部の形状を強調するような極小のボトムスを身につけ、挑発的な視線を周囲に投げかけていた。


 会場のあちこちで、カメラのフラッシュが焚かれ、SNSに投稿するためのセルフィーを撮る女性たちの姿も目立った。彼女たちは、自分の体を最大限に魅せるポーズを取り、その姿を世界中に発信しようとしていた。


 燐は、この光景に圧倒されながらも、どこか居心地の悪さを感じていた。自分の慎ましやかな服装が、ここではあまりにも場違いに思えた。しかし同時に、彼女の心の奥底では、この解放的な雰囲気に引き寄せられる自分もいることに気づいていた。


 会場全体が、まるで人間の体を称える祝祭のような雰囲気に包まれていた。それは燐にとって、衝撃的でありながらも、何か新しい可能性を感じさせる光景だった。


 ランウェイが始まると、モデルたちが次々と登場した。最初のモデルは、胸元が大胆に開かれたシースルーのドレスを身にまとっていた。その豊満な胸は、まるで芸術作品のように強調されている。


「わあ、素敵……!」


 詩織のため息に、燐は思わず自分の胸元に手を当てた。そこにある特殊な模様を隠すように育ってきた燐にとって、この光景は衝撃的だった。


 次のモデルは、背中から腰にかけて大きく開いたドレスを着ていた。なめらかな背中のラインが、官能的な曲線を描いている。


「ねえ燐、あのドレス素敵じゃない? 私たちも着てみたいわ」


 詩織の言葉に、燐は小さく首を振った。


「私には……似合わないわ」


 燐の声には、かすかな悲しみが滲んでいた。自分の小さな胸や、特殊な体質を思い出し、燐は自己嫌悪に陥りそうになる。


 ショーが中盤に差し掛かると、会場の空気が一変した。ランウェイに現れたモデルの姿に、観客からどよめきが起こる。


 優雅に歩を進めるモデルは、背中から臀部にかけて大胆に開かれたドレスを纏っていた。なめらかな背中のラインは腰まで続き、そこから左右に分かれて曲線を描く布地が、わずかに臀部の始まりを覗かせている。露出された肌は、照明に照らされて官能的な陰影を作り出していた。


「まあ! あれって……」


 詩織の驚きの声に、燐は思わず目を背けそうになった。しかし、周囲の熱狂的な反応に、彼女は困惑しながらもその光景から目を離せなくなる。


 次のモデルは、さらに大胆なデザインのドレスを着ていた。一見すると普通の長いドレスに見えたが、歩くたびに両脚の付け根まで届く深いスリットが、ほぼ局部と言っていいような高さまで肌を露わにしていく。そのスリットには、極薄の透明素材が使われており、隠しているようで隠していない、という背徳的な魅力を醸し出していた。


「燐、見て! あの素材、まるでそこに何もないみたい!」


 詩織の興奮した声に、燐は言葉を失った。彼女の頭の中では、研究者としての冷静な分析と、一人の女性としての動揺が入り混じっていた。


 さらに衝撃的だったのは、次に登場したモデルのアンサンブルだった。上半身は精巧な花びらのアップリケで乳房を覆っているものの、下半身は極小のショーツと、それを覆う透明なオーバースカートという大胆な組み合わせ。歩くたびに揺れるオーバースカートが、光の加減で時に完全に透けて見え、時に曇ってミステリアスな雰囲気を醸し出す。


 会場は熱狂の渦に包まれた。大勢の女性たちの歓声と、少数の男性たちの息を呑むような反応が入り混じる。燐は、自分の鼓動が早くなるのを感じていた。それは興奮なのか、恐怖なのか、それとも社会の行く末への不安なのか、彼女自身にもわからなかった。


「これが……私たちの未来の姿なの?」


 燐のつぶやきは、誰にも聞こえないほど小さかった。彼女の目の前では、ファッションの名の下に、人間の尊厳と性的対象化の境界線が曖昧になっていくように思えた。それは美の解放なのか、それとも新たな抑圧の形なのか。燐の心の中で、答えのない問いが渦を巻いていた。


 会場は歓声に包まれたが、燐の心は沈んでいくばかりだった。


「これが……これからの時代の本当のファッションなの?」


 燐のつぶやきに、詩織は驚いたように振り返った。


「そうよ、燐。私たちの体は美しいの。それを隠す必要なんてないわ」


 詩織の言葉は、燐の心に深く突き刺さった。確かに、周りの女性たちは自分の体を誇らしげに見せている。しかし、燐にはそんな自信がなかった。


 ショーが終わり、二人は会場を後にした。夕暮れの街を歩きながら、詩織は興奮気味に語り続ける。


「素晴らしかったわ! 私たち女性の体の美しさを、こんなにも堂々と表現するなんて……」


 一方、燐は沈黙を守っていた。彼女の心の中では、研究者としての理性と、一人の女性としての感情が激しくぶつかり合っていた。


「詩織、私……」


 燐が口を開こうとしたとき、目の前の大型ビジョンに最新のニュースが流れた。それは、男性の出生率が過去最低を記録したという報道だった。


「また下がったのね……このままじゃ、私たちの社会はどうなってしまうの?」


 詩織の声には、不安が滲んでいた。燐は、自分たちの研究の重要性を改めて感じた。同時に、今日見たファッションショーが、この歪んだ社会の象徴のように思えた。


「私たちの研究が成功すれば、きっと……」


 燐の言葉は、風に消えていった。彼女の目の前には、乳房を大胆に露出したファッションの広告が輝いていた。その光景に、燐は複雑な思いを抱いた。


 自分の体を肯定的に捉えること。社会の歪みを正すこと。そして、新しい価値観を作り出すこと。全てが繋がっているように思えた。


「燐、大丈夫?」


 詩織の心配そうな声に、燐は我に返った。


「ええ、大丈夫よ。ただ、考えることがたくさんあって……」


 燐は、かすかに微笑んだ。今日の経験は、彼女にとって辛いものだったが、同時に大切な気づきをもたらした。自分の研究が、単なる医学の進歩だけでなく、社会の在り方そのものを変える可能性を秘めていることを、燐は改めて実感したのだ。


「詩織、ありがとう。今日は貴重な経験になったわ」


 燐の言葉に、詩織は少し驚いたような表情を見せた。


「そう? でも、燐はあまり楽しそうじゃなかったわよ」


「ええ、正直辛かった部分もあるわ。でも、それも含めて大切な経験だったの」


 燐は、自分の胸元に手を当てた。そこにある特殊な模様は、もはや恥ずべきものではなく、自分自身のアイデンティティの一部なのだと、彼女は感じ始めていた。


 二人は、夕暮れの街を歩きながら、それぞれの思いを胸に秘めていた。燐の心には、新たな決意が芽生えていた。自分の研究を通じて、この社会に新しい価値観をもたらす。そして、全ての人が自分の体を肯定的に捉えられる世界を作り出す。


 街角に立つ巨大スクリーンには、まだファッションショーの映像が流れていた。燐はその映像を見つめながら、静かにつぶやいた。


「きっと、変えられるはず……」


 その言葉には、未来への希望と、自分自身への新たな信頼が込められていた。燐の瞳に、決意の光が宿り始めていた。


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