第4話 時代との乖離

空は薄暗い。太陽は出ているが、光が届かない。そして、何日も洗濯物を干せず、庭の畑には火山灰が2センチくらい積もっている。奈津たちは、晒しの布で作ったマスクをして生活していた。富士山の噴火は丸々三日間続いたが、四日目に鎮静した。

 富士山の噴火も去ることながら、世の中はどんどん大陸へと進出の兆しを見せていた。毎朝新聞が『大陸新聞』という日本語と中国語の新聞を上海で発行することになり、孝太郎に、上海行きの辞令が降りた。孝太郎は、悩んだ末、辞令を断って、毎朝新聞を辞し、作家として一本立ちすることにした。

 しばらくは昌が看護婦の給料で家族を支えることになった。孝太郎は昌に申し訳なく、最初は辞令を受けて単身で上海に行こうかと思案もしたが、奈津が、自分も今まで刺し子で稼いだ小遣いを貯めてあったし、昌も、父が会社の不穏な動きに長い間悩んでいたことを知ると、好きな本を書いて行くことを応援すると言った。

 源次郎はまだ幼い。小学校に上がってもうすぐ二年生になる。この子が将来徴兵に取られるようなことがないよう、昌も奈津も孝太郎も祈るしかない。抗日の動きは中国大陸で目立っており、日本は孤立を極めていた。孝太郎は政府の政策を批判することに心血を注ぎたかった。今、国中で巻き起こっているプロパガンダに対抗して、本来、日本はどうするべきか、日本人は間違っていないか、と問題提起がしたかった。中国への進出はやがて侵略へと発展することを、早くから見抜いていた孝太郎だった。日清、日露と、大国を相手に分の悪かった戦争を二度も続けて勝利した日本は、今、調子に乗っているに違いなかった。日本は自分が見えていない、そのことを訴えたかった。多くの人に気付いて欲しかった。

 孝太郎は、畑を耕しながら、鶏を飼い、卵をとるようになった。物書きとして食べられるという保証はない。畑でとれる野菜や卵は貴重な栄養源だった。

 孝太郎は今日も原稿用紙に向かう。言論の自由を満たすジャーナリズムは、今や組織では行えない時代になっていた。検閲や言論統制、軍や政府からの干渉を受けて、メディアの発信力は、国の手足と化している。そして、毎朝新聞も、プロパガンダを取り入れ、軍の手先となることで、部数を圧倒的に延ばし、経済的にも潤沢になったのだった。いわゆる戦争景気だった。

 個人で自分一人でペンを持つことが、ジャーナリズムの基本だと、今更ながら思う孝太郎だった。言論の自由を新聞社や組織にいては持てない時代にあっては、孝太郎のようなジャーナリストにとっては、組織は足かせであった。

 軍部や政府高官の検閲のない、自由な書物を書きたい。自分の思想を広めたい。しかし、印刷することへのハードルは高かった。孝太郎は同人誌への投稿から始めることにした。戦争への道を突き進む日本で、自由な思想を持ち、それを広めることは、法外に難しいことだった。孝太郎は、自分が二十年早く生きているのだ、と思った。時代が孝太郎に追いつかないのだった。


参考文献:『朝日新聞の中国侵略』山本武利著

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孝太郎と奈津 長井景維子 @sikibu60

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