第3話 富士山噴火

昌は、国家試験に無事合格した。この春から晴れて看護婦になる。上田元弘医師の元へ合格の報告に行く。上田は、今日は休診日で、書斎で本を読んでいたが、玄関で夫人が迎えてくれた。応接間に通された。上田は書斎からやって来て、

「おめでとう。難しいのに、よく頑張った。昌ちゃんは成績優秀と聞いていたから、驚いてはいないよ。」

 と、朗らかに握手をして祝福してくれた。昌は、

「ありがとうございます。」

 と言いながら、奈津が用意してくれた百貨店の和菓子の包みを夫人に渡した。

「昌ちゃん、春からお願いね。去年の夏に看護婦さん、結婚して辞めちゃったの。それで、この人、一人でなんとかやってたんだけど、これからは昌ちゃんが来てくれるなら、助かるわ。」

 と夫人はお菓子を受け取り、礼を言いながら、昌に春からの勤務について念を押した。昌は、

「はい、よろしくお願いします。まだ新米なので、不安なこと多いです。いろいろ教えてください。」

 と頭を下げた。上田医師は、

「それなら、しばらく見習いで来てみるかい?お給金も払おう。正式には四月からだけど、それまでの二週間ほど、通ってみなさい。よければ。」

 と、申し出てくれた。昌は、

「あの、両親と相談させてください。」

 と、控えめに申し出た。夫人が、

「そりゃそうよ、ご両親とご相談なさい、そうしてくださいな。」

 と、助け舟を出してくれた。

「あなた、今夜にでも高崎さんに電話なさったら?」

 と、夫人はまた気を利かせてくれた。昌は大層助かった。

「ふむ。そうしよう。」

 上田医師も同意した。

 昌は、しばらく談笑していたが、

「それでは、母が待ってますので、失礼します。」

 と、上田家を後にした。上田家の玄関で、羽織袴姿で、大きく一礼すると、踵を返して家へと向かった。清々しい気持ちだった。

「そうだ、お母さんに花でも買って帰ろう。」

 昌は、駅前の花屋に立ち寄り、花桃の枝を買い求めた。そして、和菓子屋で葛餅を買った。土産を手に、奈津と源次郎の顔を思い浮かべて、微笑んだ。

「そうだ、お父さんにはお酒。ウイスキーってものを買ってみよう。お好きかどうか、私にはよくわからないけど。」

 そして、酒屋でウイスキーを買うと、

「まだ、お給金もらったわけじゃないのに、生意気だったかな。叱られるかな。」

 と、少し心配になったりした。奈津が持たせてくれたお小遣いをすっかり使い果たしてしまった。

 駅前の通りを家に向かって歩いていると、地面が大きく突き上げられるように揺れた。ゴーっと大きな音がして、昌はウイスキーの瓶を地面に落として割ってしまった。そして、手を地面について倒れてしまった。

「キャー。」

 そこらここらで悲鳴が聞こえ、地響きが続く。そして、しばらくして遠く西の方角には黒煙が上がっていた。昌は花桃の枝を握りしめ、葛餅の包みを掴んで、起き上がり、そして、人々が見ている西の空を自分も見た。

「富士山だ。富士山が噴火した。」

 男の人が大きな声で言っていた。昌は、

「えっ?」

 と、もう一度西の空に立ち上がる煙を見た。

 昌の周りでも十人ぐらいの男女が富士山の噴煙に驚き、茫然と立ち尽くしていた。

「とにかく家に帰ろう。」

 昌は家路を急いだ。そうこうしている間に、空はみるみる暗くなり、煙が空高く立ち上って来た。

「お母さん、源!ただいま。大丈夫?」

 昌は大声で叫ぶと玄関で草履を脱ぎ捨てて、家の中へ入り、奈津と源次郎を探した。

 奈津は、

「地震があったけど、昌は大丈夫だったかい?」

 と、昌の顔を見るなり、昌を気遣った。昌は、

「私は大丈夫。富士山よ、富士山が噴火してるみたいなの。お母さん、煙が見えるから、窓から見てみて。」

 奈津は南側の窓から右の方を見て、西の空が真っ黒に煙で煤けているのを見つけて、

「まあ。なんてこと。」

「源次郎は?どこ?」

 奈津は、

「あの子は豆腐を買いに使いに出したら、そこで豆腐を持って転んでね。可哀想だったよ。地震の中で『お母さん、ごめんなさい、豆腐を僕は台無しにしちまいました』って泣きながら帰ってきた。今、二階に上がってるよ。しかし、富士山なのか。大変なことだ。お父さんは会社だけど、今日は新聞は号外が出るかもね。」

「私も転んだの。羽織袴を汚してしまいました。お母さん、洗い張りのやり方を教えてください。」

「そんなことはどうでもいい。怪我はないのかい?」

「はい。お父様に私、調子に乗ってウイスキーを差し上げたくて買ったんです。でも、落として割ってしまいました。自分のお給金でもないのに、お小遣いでお土産買いたくなっちゃって。ごめんなさい、」

 昌は、ようやく花桃の枝を奈津に手渡した。

「それから、これ、葛餅。おやつだけど、お夕飯の後に食べたいなと思ったんです。」

 奈津は、

「そうかい。」

 また、窓の外を見ながら、

「ここまで火山灰が降るかもしれないね。大根を抜いておこうか。昌、ちょっと手伝っておくれ。キャベツも収穫してしまおう。火山灰で台無しになってしまう前に。」

 昌は羽織袴を脱いで、モンペに着替えた。奈津と昌は庭の畑に出て、野菜をできている分は全て収穫した。

 次の日、富士山の噴火を受けて、大日本帝国憲法下に於ける緊急勅令が発令され、天皇のお言葉が朝刊に掲載された。

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