第2話 毎朝新聞政治部
毎朝新聞の本社は、港区麹町にあった。高崎孝太郎は、朝一番に社屋に着くと、タバコに火を点けた。赤鉛筆を耳に挟んで、黒鉛筆で、書類の下書きを書き始める。内容は、昨日の酒の席で内務大臣に言われた、愛新覚羅溥儀の物語をシリーズで連載するための企画書だった。企画書を政治家の意向に沿って書かねばならないことに、強い憤りを感じながら、そうしなければ、検閲で発行中止に追い込まれることは目に見えていて、逆らえない辛さがあった。
企画書が通る確率は、社内の規定によると低かった。しかし、孝太郎の上司の大森も、昨夜の酒の席で内務大臣の話を聞いていた。
「高崎君、昨日の件だが。」
「はい。」
政治部長の大森は、孝太郎のデスクに近づきざまに、こう切り出した。
「事実を伝えるのが新聞の役割だ。溥儀を美化した物語を掲載するのは、私もぶんやとしての良心が咎める。内務大臣にはそこのところをわかって頂けるよう、もう一度今夜、お話ししてみる。それまで、企画書は待ってくれないか。」
「はい。わかりました。」
孝太郎は、鉛筆を置くと、タバコを咥え、しばらく考え込んだ。このまま、政府の上位にいる政治家から新聞記事に指図を受け続けるなら、この会社で新聞を書いていく意味がない。全くやるせない。
大学時代にジャーナリズムに憧れて、この世界を目指した。自由闊達に紙とペンで議論して食べてゆけるジャーナリストになりたかった。毎朝新聞に入社して、しばらくは夢中で修行に励んだ。
大学は早稲田大学政治経済学部だった。大隈講堂に政治家や哲学者、企業家が講演に来ると、政治経済学部の学生には優先的にチケットが配られた。孝太郎は熱心に大隈講堂に通った。そして、自らも熱弁会に入会した。学生同士で青臭い主張を闘わせ、自身は左翼に傾倒しながら、自身の考えを正しいと主張する過程に、心の底から半ば酔いしれ、恍惚となり、喜びを感じていた。
そして、毎朝新聞の政治部に配属され、最初の二ヶ月は毎日、先輩たちの鉛筆削りをやらされた。朝、一番に社屋に着くと、自分の机の上に、先の丸まった鉛筆が数百本投げるように置いてある。それを一本一本、小刀で削るのだ。昼飯どきになっても、鉛筆削りは終わらない。必死に削り終えて、冷めた日の丸弁当を掻き込むように貪り食い、そして、席に戻ると、また、丸まった鉛筆が投げ置いてある。一本一本削る。便所に行く暇も惜しんで削る。そして、やっと鉛筆を削り終えると、書庫に行くことが許される。そこで過去の記事を読んだり、文献を勉強したりできた。それを二ヶ月続けたある日、係長が、
「高崎、このノートを読め。」
と言って、古びた大学ノートを一冊手渡してくれた。
そのノートには、政治部の記者が引退するときに、一人二ページずつ、後輩への心構えを記してあった。毎朝新聞の政治部記者たるもの、どういう気構えでいるべきか。そして、社内での身の処し方はどうするべきかを、経験から記してある貴重なものだった。孝太郎は、心して熟読した。
孝太郎はタバコに火を点けて深く吸い込むと、あのノートを今読みたいと思った。確か、書庫の一角にそのノートを入れた段ボール箱が片付けてあるはずだ。孝太郎はタバコを揉み消して、席を立った。
書庫を漁っていると、ノートはしばらくして見つかった。表面についたホコリを軽く払うと、孝太郎は書庫を出て、自分のデスクに戻り、読み始めた。
ジャーナリストとしての理想を持ち、自分の書く記事には主観をある程度入れても良いとか、いつでも真実を読者に伝えるために、できうるだけの取材を手抜かりなくせよ、とか、政治家と食事をしてはいけない、酒はもってのほか、ともハッキリと書いてある。これが孝太郎の出発点だったはずだ。この会社は今、どうしてこんなふうになってしまったのだろう。孝太郎はこのノートを机の引き出しにしまって、鍵をかけた。
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