孝太郎と奈津
長井景維子
第1話 午前様
刺し子を刺す手を休めて、奈津は囲炉裏で針を持ったままの右手を焙った。この一枚を今日中に仕上げてしまいたい。両方の肩にズンと重い石が乗っているような痛みがある。奈津は刺し子を再び刺し始め、六つになる息子の源次郎を呼ぶと、肩を揉んでくれるように頼んだ。
源次郎は、土間の向かいの廊下に置いた勉強机で、イロハを筆書していたが、すぐに手を止めて母の方へ来ると、奈津の背中の後ろに膝を折って立ち、小さな手で肩を揉み始めた。
「お母さん、凝ってますね。」
覚えたての敬語で話す童顔は、頬を産毛が覆っていて、奈津にとっては目に入れても痛くない可愛い息子だった。
「おや、そうかい。痛いと思ったら。硬いかい?」
「いえ。揉んでいるうちにだいぶん柔らかくなりましたよ。もう少し待ってください。僕が心を込めてたなごころで押しますんで。」
奈津は源次郎に何か褒美をやりたくて、
「源次郎、この中におさつが入れてある。そろそろ焼けた頃だ。どれ、お母さんがみてあげよう。食べなさい。」
と言うと、囲炉裏の灰を棒で突いて、小ぶりのサツマイモを一本取り出した。源次郎は、喜んで、
「お母さん、僕は半分でいいです。半分に割って、お母さんも半分あがってください。」
呑気にサツマイモを親子二人で分け合って食べているうちに、悴んだ手もじんわりと温もってくる。食べ終わると、源次郎はイロハに戻り、奈津は刺し子をまた刺し始めた。
源次郎の歳の離れた姉、昌が女学校から帰ってくる。藍色の制服に身を包み、昌は玄関先で自転車を止めた。
「お母さん、ただいま帰りました。」
玄関の引き戸を勢いよく開けて、昌はよく通る声で奈津を目で探した。奈津は、囲炉裏端から、
「おや、おかえり。早かったね。寒かろう。ここへ来てあたりなさい。」
昌は、アルミの空の弁当箱をお勝手の桶に浸してから、囲炉裏にあたりに来た。
「今日は教頭先生のお訓示をいただきました。卒業しても、聖マルクスの誇りを忘れないように、とおっしゃっていたわ。」
昌は看護学校に通っているのだった。聖マルクスという名のカトリック系の女学校で、明治の中頃、創立した。昌は成績も優秀だった。本当なら、医者を志していたのだが、女の身で医師は難しいと、看護婦になることにした。今年の三月に卒業だ。卒業したら、父、孝太郎の旧知の医師、上田元弘の開いている上田医院に、看護婦として勤めることになっている。
父、孝太郎は、政治部の新聞記者だった。毎朝、朝早くに家を出て、帰りは午前様のことも多い。不在の父の分を、蝿張に入れて、奈津はお勝手で作った夕餉のおかずを、茶の間の掘り炬燵に運んだ。掘り炬燵と囲炉裏、両方がこの家にはあった。囲炉裏をごしょう大切にしているのは、奈津が育ちは東京の下町だが、津軽の生まれで、冬になると、囲炉裏端で刺し子をするのが、何よりの楽しみだからなのだった。
奈津の刺し子の腕前は、なかなかのもので、富裕層の奥様方からの注文に追われていた。奈津は、刺し子を内職にして、小遣いを稼いでいたが、家計を支えるためではなかった。家族四人が食べて暮らしていく分の収入は、新聞記者の孝太郎が十分稼いでくれていた。
「昌、ご飯をよそって頂戴な。」
「はい。」
昌は、お櫃から白い炊き立ての白米を三人分、お茶碗によそった。鯖の味噌煮をおかずに豆腐とネギの味噌汁で熱いご飯を食べる。
「今日は源次郎はよく勉強しましたね。お母さんが今度イロハの考査をしてあげよう。」
源次郎は白米を掻き込んでいたが、顔をあげると、
「ええ。だいぶん書けるようになりました。考査してください。」
と言って、奈津の方を見た。昌は、
「お父様は今夜も遅いのかしら。」
と言いながら、お櫃からおかわりをよそった。奈津は、源次郎のお味噌汁碗が空になるのを見ながら、手を伸ばし、おかわりを促すと、源次郎は、首を横に振った。
「おや、もういらないかい。」
奈津は言うと、さっきの昌の質問に答える。
「さあ、お父様の帰りはいつになるんだろうね。たまには夕餉に間に合うようにお帰りになると嬉しいけど。お仕事がお忙しいから仕方がないね。」
柱時計が鳴る。午後七時だ。
「昌、ラジオのニュースを入れてみておくれ。」
奈津が言うと、昌はラジオのスイッチを入れる。ラジオは大きな雑音を発しているが、時々人の声らしき物を拾う。ラジオの時報が鳴った。そしてNHKのニュースが始まる。天皇皇后両陛下が、葉山の御用邸でお過ごしになっていることを伝えている。そして、気になるのが、小規模ではあるが、関東地方で地震が頻発しているそうだ。
「地震、感じなかったわ。外にいて動いてると感じないのかしら。」
昌が心配そうにお茶をすすりながら呟く。奈津は冷え性の両手のひらの中で湯飲みを転がしながら、
「お母さんも感じなかった。この家は建て付けがいいからね。腕のいい宮大工が建てた家だから、揺れなかったのかもしれないね。」
源次郎は子供らしく無邪気に、地震を経験してみたいと言った。小さな物なら面白いと。すると、奈津は源次郎に、関東大震災の恐怖を教えておかねばならぬと思った。まだ生まれる前のことで、源次郎は地震の怖さを知らないのだ。
「源、地面が大きく揺れて家が倒れるだけじゃない。火の元から火事が起きて、焼け死ぬ人も多かったんだよ。みんな水が飲みたくて飲みたくて。あんな大震災が二度と来てもらっちゃ困る。たくさんの人が亡くなったんだ。軽々しく地震を面白がったりしたら、罰が当たるってもんだよ。わかったかい。」
昌も、
「そうよ、源はまだ生まれてなかったけど、私は六歳だったから、はっきり覚えてる。」
奈津は、
「源にもちゃんと教えておかねばね。この家は震災後にお父様が建てた家なんだよ。そしてお前が産まれた。その前の家は震災の火事で焼けて、お父様とお母さんと昌姉さんは、バラックにしばらく住んで凌いだんだ。冬は寒くて、夏は蒸して、そりゃあ、惨めなもんだよ。でもね、命があったから、また家も建てられたし、源も産まれて来てくれた。今度は丈夫な家にしようと言って、お父様が銀行からたくさんお金を借りて、宮大工に頼んで地震が来てもびくともしない家を建てたんだ。」
源次郎は目をパチクリして聞いていたが、
「ごめんなさい、僕は何にも知らないで、地震を面白がったりして。」
奈津は、
「もうわかったね。関東大震災の話は源次郎にはまだ早いと思ってしないできてしまったが、そろそろわかる年だね。お父様からも詳しくお聞き。」
「はい。」
夕餉の片付けを昌が始める。
「源、お風呂を沸かしてあげるから、入りなさい。」
奈津は、五右衛門風呂を薪で炊いて、あっためた。源次郎は最近一人で風呂に入れるようになった。坊主頭を石鹸で洗い、体も石鹸を塗った手拭いで擦ると、風呂の中に入って、ゆっくり二十数えた。そしてカラスの行水の入浴を終えた。
昌は、台所で一人洗い物をしていた。早く、机に向かって教科書に目を通したい。洗い物を終えて洗いかごに食器を並べて、布巾で上から覆うと、前掛けを取り払って、さっと二階の自分の部屋に上がって行った。卒業する前に国家試験が待っている。寸暇を惜しんで復習したり、試験対策に勤しみたかった。机に向かって、一気に集中力を高めた。
奈津たちの家には手頃な庭が南側に広がり、奈津は家庭菜園をしていた。今は大根、キャベツ、人参、ジャガイモ、玉葱などが植っている。
父、孝太郎が帰って来たのは、午前零時を回っていた。1931年に満州事変が起き、翌年、満洲国が建国された。国家元首には愛新覚羅溥儀がついた。日露戦争に勝ってから、ポーツマス条約で日本は多くの覇権を手中にし、その後、国内にはキナ臭い匂いが立ち込め始めていた。高崎孝太郎は、毎朝新聞の政治部の中堅の記者だった。
「おーい、帰ったぞ。」
玄関の裸電球の下で、孝太郎は大きな声で奈津を呼んだ。奈津は囲炉裏端で刺し子をしながらうとうとしていたが、ハッと気づいて、廊下を走り、玄関の鍵を開けた。
「おかえりなさいませ。」
孝太郎は中折れ帽を脱ぎ、書類鞄と一緒に奈津に渡し、靴を脱いで家にあがった。
「お茶漬けでも召し上がりますか。」
「そうだな。」
孝太郎が酒席に呼ばれていたらしいことを酒の匂いから敏感に察知した奈津だった。大根のぬか漬けと梅干しの茶漬けを用意して、夜更なので、出がらしのほうじ茶を注いだ。
「俺はなあ、また戦争になるんじゃないかと気を揉んでいる。戦争は勝てればもう、クセになる、次も勝てると。これは社内では言えないが、戦争癖がついた日本は今に痛い思いをさせられる。昔から戦で泣くのは、女子供だ。」
奈津は目を見張って孝太郎の顔を見た。いつも仕事の話は一切家族にはしないのだが、今夜に限って孝太郎は妙に饒舌だった。孝太郎は茶漬けをすすりながら、
「新聞が政治に利用されているんだ。本来なら、ジャーナリズムは政府を自由に批判し、見張るべき物だが、政府がこう書け、こう書けと言ってくる。そして、書いた後の記事にイチャモンつけてくるんだ。全くやってられん。戦争が正しいと政府が思えば、新聞は戦争は正しいと書かねばならなくなる。そんな記事、書いてられるか。」
孝太郎は、茶漬けを飲み込み、そこへ、すかさず奈津がほうじ茶を空の茶碗に注いだ。
「もう寝てくれ。俺は風呂に入る。」
「あっためて来ます。」
「すまんな。」
昌は、二階の自室でまだ机に向かっていた。源次郎は静かな寝息を立てていた。父の思いを知らずにいる二人だった。
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