透明化する身体、存在の存在性

てると

愉快な近代、その後に~カルテジアン劇場の終焉、ディストピアの断機~

 或る晩、デカルトの懐疑から遠く隔たったことを感じた私は、教授たちから教わったことを思い出し、現象学的還元により自己直観を確認しようと、デカルトの懐疑を覚えている分早送りでプロセスを追い、最後に、疑っているかぎりにおいて私は在るというところで隙間を開いた。

 そのときに見出されたのは、私がもはやデカルトから遠く隔たっていることであった。


……


 夢を見た。

 夕暮れの景色のなか、私は一升瓶を片手に、車の影に隠れる。車の前には両親がいる。しかし、やってきた町内の女性に見つけられ、タッチされてしまう。

 場面は展開する。

 今度も私は隠れている。或る隣の大国の、あまりにも大きな和式トイレに下痢が湛らえた、便所に……。

――私はしかし、当局の女に見つかってしまった。拘束された。

 しかし、視界にインターネットが投影される世界であり、まだSNSが見える。見ていると、「メンター来てる」、「メンター来てるよ!」などという文言が書かれている。彼らは警告を発してくれていた。

 その後、私は拘束の苦痛を感じながら、ふと身体を見ると、——その瞬間、私はあちらの世界にいて、あちらの世界を括弧に入れ、こちらの世界の自室で、……身体が透明化して、腕が透けていた。

 そこで私は、「存在の存在性」という唱題を、言語的自我において唱え、何度も唱え、急速に、パチンと、夢から醒めることができた。部屋であった。


……

 私は、どうもこの夢が通常の夢とは思えず、じっくり考えることにした。そこで、「”存在の存在性”」をインターネットで検索したところ、やはりデカルトが出てきた。私は確証を得た。

 そういえばと思い、ミシェル・アンリという哲学者の『精神分析の系譜』という本を部屋に積まれた本の群れの中から探して読んだ。そうすると、確かにデカルトが「ワレ思ウ」において<始源>の極限へと遡行しようとしたことが書かれていた。そうして、彼によれば、<始源>とは「存在」であった……。

……

 アンリは、そこでフロイトを、この哲学史の系譜の「遅れてきた相続人」と判定し、その哲学の系譜は破綻を免れ得なかったと書いている。しかし、私はそこから展開する。

 身体の透明化、私が夢から醒め、まさに夢から醒めた地平という現実性がまさに現実性として二重化されていることをもって、意識もまた二重化されていると考える。もはや、二重化を免れた純粋性は見あたらない。そして、デカルトがその心身二元論において精神と身体を接続する「ポイント」だと考えたまさにその極点は「松果体」である……。

 デカルトの二元論の創始は、二重化の創始ではなかったか。すなわち、<始源>たる「存在」からの展開はあの無限の二重化に進む。すなわち、「行動する精神」と「批評する精神」の相互展開に、である。

 私は感知する。夢の中において現実性は極度に高く、いわゆる現実のそれは極度に低い。この逆立ちしたバベルの塔は、まさに没落することによって、次はくるりと向きを変える。すなわち、私は昨日友人と、もう楽しいこともなければ、仏陀もそうした心持になって今度は禁欲が楽しかったのだろう、と。——さらば、煉獄は逆立ちした享楽である。私たちの親を見よ、そこに愉快な近代があった。あの際限なき消費と拡張の、報酬系の興奮があった。さらば、愉快な近代はおしまいである。末人の終焉に、煉獄が始まる。しかも煉獄は新たな享楽である。

……

 そこに相互拘束がある。無限の二重化の只中で、神関係と五倫五常の対幻想が相互拘束する。そうして私たちは不良たちの営みから解放され、清められるだろう。時は近い。アクセスを試した時代が終わり、シャットダウンの時代が始まる……。

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透明化する身体、存在の存在性 てると @aichi_the_east

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