第2話 丸井きよこは今後どう生きていくか
大空つばめに硫酸をかけた犯人は、すぐ捕まった。
なんとつばめと同い年の当時十九歳の、東北出身の貧しい屋敷に住み込みの家政婦だったという。
ところが、その屋敷には着飾ったつばめのポスターが貼りめぐられていた。
家政婦は
「私とつばめとは同い年の十九歳なのに、どうしてこんなに違いがあるの」という矛盾を感じ、反抗に及んだという。
つばめはそれを聞いたとき、犯人である家政婦の心の痛みにはっとしたという。
すぐ応急処置をしたが、残念ながらひばりの頬にはうっすらと硫酸のあとが残っていたという。
つばめ曰く
「私は歌手になって楽しかったことよりも、悲しかったことの方がはるかに多かったですね」
のちに、つばめは「川のせせらぎのように」のヒット曲をとばしたあと、五十歳前半で亡くなった。
また山下ももかは、六年間の芸能生活を経て、二十一歳のときにすっぱりと芸能界を引退した。
十五歳のデビュー当時は、事務所の先輩から
「彼女、足も太いし、あかぬけないし、よくデビューできたものね」と言われたというが、事務所曰く、ももかの足の太さに大地を踏みしめるたくましさを感じたという。
事実、ももかは「あなたが望むなら 私なにをされてもいいわ」(青い果実)
「あなたに女の子のいちばん 大切なものをあげるわ」(ひと夏の経験)というきわどい歌詞を、歌いこなし、蒼い性を売り物にしていた。
ももかの魅力は、年齢の割にはしっかりしていて大人びてる、水着になったときは、年齢にはふさわしくない色気が漂うということを売りにしていた。
ももかは自分の芸能界の限界を知っていたのだろう。
高校は商業科を選んだ。
ももか曰く
「芸能界はいつどうなるかわからない世界。だから引退したら飲食業を始めようと思って商業科を選びました」
教師も舌を巻くしっかりぶりだったという。
ももかは家庭の幸せを夢みていたので、二十一歳という成人を超えた年齢で結婚退職した。
二十一歳というと、年齢に似合わず大人びているというセリフが似合わなくなってくる世代でもある。
まるで満開の桜の花びらが、世の中の流れに散るように、百恵は芸能界を寿退職した。
年齢にふさわしくないしっかりぶりと、らしくない色気が漂うと言われ続けていたももかにとっては、このことが、唯一の百恵らしさであり、家庭を守るための手段でもあろう。
しかし私きよこの生き方は、ももか先輩とは違っていた。
結婚しても、いや子供ができても歌い続けたい。
私きよこは心底歌が好きであり、歌うことは私にとって酸素のようなものであり、歌うことによって自分を高めていくことが理想であった。
私は、独身アイドルから、ママドルという言葉を確立していった。
私が二十四歳のとき、出産した娘ー理奈は、宝物という以上に生命の半分だった。
まあ、並みの母親ならこのまま、家庭に納まる筈だけど、私はこれで芸能生活を終わらせたくなく、アメリカに修行に行った。
これだけを見ると、いかにも愛情薄い母親に見えるが、実はこのことは、娘理奈をマスコミの目から遠ざける手段でもあった。
娘理奈の小学校時代の運動会は、きよこ夫妻が参加したが、なんとマスコミ各社が三百人も押しかけてきたのだった。
こんなことが続くと、理奈は攻撃を受け、世間で生きづらくなることは、目に見えてわかっている。
私は、しぶしぶながらも夫の了解を得て、アメリカでジャズの修行をした。
おかげで私は、CDジャズ部門では一位になったこともあった。
思えば私は、公務員の父と専業主婦の間に生まれ、何不自由なく可愛がられて育てられたわ。
歌手に憧れ、高校のクラスメートとオーディションを受けたときは、失敗に終わったけれど、ティーン向け週刊誌のミスコンテストでスカウトされたの。
芸能界に入るときは、家族いや親戚一同、大反対されたわ。
私は父に溺愛され、高校へ行くときはいつも父の車に同乗して通っていたくらいよ。
車の中で私はいつも父に小遣いをねだるの。
季節の洋服も人形も、父は何不自由なく与えてくれたわ。
そんな父からは初めて頬を殴られ、親戚は縁を切るとまで言われたくらいの猛反対だった。
でも、歌手になる夢をあきらめようとはしない私に、父親は心配のあまり、たちまち白髪になってしまったくらい。
だって、両親の夢は私が大学卒業すると、どこにも就職せずに見合い結婚させることだったですものね。
両親の期待を裏切ってしまった私は、大親不孝者なのよね。
私は芸能界のことは全く無知だったけど、歌の世界に生きることが、私が生まれた使命だと確信したわ。
初めはホームドラマの端役でデビューしたけど、ラ行が舌の神経にひっかかってうまくセリフが言えなかった。
悩んだ末、私は医者に舌の一部の神経を取ってもらったの。
背水の陣を敷く覚悟だったわ。
すると洗顔フォームのCMのテーマ曲の仕事が入ってきたわ。
本来ならば、私がそのCMにアップで出演する予定だったけどね、それがかなわず、私は歌だけの出演となった。
でも私の声は、注目され始めたことは周知の事実よ。
初めはドラマの端役でデビューしたけど、CMのテーマ曲を歌い始めてからは、またたく間にスター街道を登り始めたの。
二曲目は、夏の恋をテーマにしたさわやか路線だったけど、これが大ヒットしてね。
それからは淡い恋の歌を歌い始め、なんと六年間二十四曲、一位という金字塔を打ち立てたのよ。
これもすべては、応援して下さるファンのおかげです。
最初は男性ファンばかりで、女性からは敵対視されたこともあったが、のちに女性ファンが増えてきたの。
有名になればなるほど、マスコミに追い立てられ、刑事事件以外の中傷記事を書かれるようになったわ。
楽屋でタバコを吸っているだの、昔は恐喝まがいのことをしていただの、まあ人気のバロメーターといってしまえばそれまでだけど、辛かったのは事実よ。
移動のとき、ファンやマスコミに見つからないように、なんと空気穴をあけた段ボール箱に入って車に乗せられたこともあったわ。
コンサートの途中には、暴漢に襲われ、頭に軽傷を負ったこともあったわ。
また、かつて共演していた男性アイドルのファンからは、階段から突き落とされたこともあったわ。
「ギャッハッハー、真っ逆さまのバカきよこ」
彼女らのそんな罵声を私は、哀れなものとして受け止めていたわ。
タレントさんは、ストレスがたまるので、いつも行きつけのバーをつくってたむろしたりしてたけど、私はいつもまっすぐ帰宅していた。
どんなに遅く帰宅しても、玄関先で待っててくれる母親がいる限り、私はコップ一杯以上のビールを飲むことはなかった。
そこで私は母に愚痴を聞いてもらう。
「〇ちゃんにこんな意地悪をされちゃったの」
母の答えはいつも同じだった。
「それじゃあ、あなたがそんなことを人にしなければいいでしょう」
私はそれを聞くと、心がスーッと楽になるのだった。
デビューして四年目、コンサートで暴漢にあって頭に軽傷を負ったときもそれは変わりがなかった。
「その子の親も辛かろうに」
我が娘が傷を負っているのに、決して加害者を責めようとはしない。
ここに私は母の本当の強さを見た気がした。
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