金魚と習字 1

墨入れを終えたあと、離れに戻って私は休んでいた。あとは何もしなくていいのかな。また夜になったら旦那さまが来られるのかな。



「まだお背中やお身体痛むと思いますので、どうぞゆっくりお過ごしください。読書などされますか?」


「どくしょ?」



それはなんだろう。



「私の読んでいるものでよければ、いくつかお持ちしますね!」


「では、私のも持ってきましょう。」


「私も! 私のもお持ちします!」



翠蓮を残して、先に二人が行ってしまう。どくしょとはなんだろう。三人が勧めるということは、楽しいものなのかな。



「あの、翠蓮。どくしょとは……?」


「本はあまり読まれませんか?」


「ほん?」


「詩集や物語が書かれた書物だと読みやすいですよ! お父様やお兄様はもっと難しいのを読まれてるみたいですが……」


「へえ……読んだことないの。面白い?」


「とても! 読むだけで色々な世界に行けるのですよ!」



色々な世界に。あまりにも翠蓮が楽しそうに話すから、すごく素敵なんだと思う。聞いてるだけで、私もわくわくしてきた。



月蘭ゆえらん様、お持ちしましたよ!」


「何から読まれますか!」



桔杏と菖芽が手に抱えて持ってきたのは、手のひらより少し大きな角張ったもの。初めて見る。紙がたくさん重なって、そんなに厚くなってるんだ。



「えっと……じゃあ、これから。」



何となく選んだものを手に取って開いてみる。そこには黒くて小さなものがいくつも並んでた。もしかしてこれが文字?



月蘭ゆえらん様、こちらから読むのですよ。」


「ご、ごめんなさい桔杏。えっと、あの……せっかく持ってきてもらったところ申し訳ないのだけれど……私、文字が読めないの……」



三人が目を丸くしてぽかんとしたのを見て思わずうつむいてしまう。やっぱり、文字が読めない人が黒河の嫁なんてだめだよね。


朱雀の娘なのに文字も読めないなんて、と思われたに違いない。



「も、申し訳ございません! 私達ったらなんたる無礼を……! 月蘭ゆえらん様の事も考えずに勝手な発言をしてしまいました!」


「あ、え、」



三人が慌てて額を畳につけて謝るから、どうしていいか分からなくなってしまう。



「さ、三人とも頭を上げて。謝る必要はどこにもないの。私の方こそ、文字も読めなくてごめんなさい……」



きっと妹達はお母さまから先生をつけて教えてもらっていたと思う。でも私は……。



私はお母さまの恥だから。決して外へ出ては行けなかったから。本当だったら、死ぬまであの押し入れでひっそりと息を殺していなきゃいけない存在。


緋彩お姉さまが私を黒河にやらなければ、今もずっと……。


美しく恐ろしいお姉さま。他のお姉さまや妹たちのように私を引っ張ったり突き飛ばしたり笑いはしなかったけれど、あの冷たい視線にいつも居心地の悪さを感じた。



「あの、月蘭ゆえらんさま。」


「あ、どうしたの?」



朱雀の家のことを思い出していたら、翠蓮に呼ばれた。



「差し出がましいことを申し上げますが、もし月蘭ゆえらん様さえよければ……文字の読み書きを、私達でお教えいたします。」



文字を……?



「いいの……?」


「もちろんです!」



私も、他の人と同じように字を読むことができるようになるの?


そうよね。何もできないままだと旦那さまの迷惑になってしまうだけだもの。せめてそれくらい、できるようにならないと。



「あ、ありがとう……! お願いしてもいい?」


「はい! では今日中に道具を揃えますので明日から始めましょう!」



文字が読めるようになったら、私も翠蓮たちと同じ本を読んでお話したりしたいな。

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