夫婦の契り 4
くじらの墨入れ……。それもよく分かっていないけど、黒河の人になるためには必要なもの。明日は頑張らないと。
「そろそろ上がりましょう。桔杏、香油の準備を。」
「はいっ!」
お風呂を上がると、香油を身体に塗られる。これもいい香り。
「椿の香りをご用意いたしました!」
「とてもいい香りがする。ありがとう。」
「いえっ! 今晩のために大事なことですから!」
大事……。それくらい、しょやというのは重要なものということ。頑張らないと。
「おかえりなさいませ。間もなく当主様がお見えになるかと思いますので、私達は席を外しますね。」
「き、緊張してきた」
「ゆっくり深呼吸をなさってください。怖いのは致し方のないことですから……あとは当主様にお任せしましょう。」
菖芽も、翠蓮と似たことをいう。私の身なりと布団を念入りに整えると、三人は部屋を出てしまった。きっとこの離れからも出てしまったから、こんなに静かになったのだと思う。私以外、今ここには誰もいない。朝から慌ただしく翠蓮たちが婚礼の儀のための支度をしてくれて、お昼からずっと人に囲まれて、ほんのさっきまで一人になることなんてなかったから。
一人になると、物置にいたあの頃のことを思い出してしまう。
物置にいたのはついこの前までのことなのに、ひどく昔のことのようにも感じられる。あの時はそれが当たり前だったから何も思わなかったけれど、今もう一度物置に一人になることを考えるととても寂しい。
ぼんやりそんなことを考えてると、誰かが近づいてくる足音がした。翠蓮たちのものよりゆったりした足取りで、でも背筋が伸びるような。
もしかして旦那さま? 出迎えも何もしなかったなんて、きっと失礼にあたる。今からでも行った方が──。
「あっ……」
襖が開いて、その向こうにいた旦那さまと目が合う。立ち上がりかけた身体がピタリと止まって、どうすればいいか分からない。
冷たい黒と青。何度見ても、緊張する。身体が動かない。
「……何してんだ。」
「あっ、えと……旦那さまが来られるので、お迎えを……」
「必要ねぇ」
「も、申し訳ございません……」
そ、そうだよね。私の迎えなど不要だよね。
「いつまで立ってるつもりだ」
「あ、はい、申し訳ございません」
でもどこにいれば? どうすればいいか分からなくて、少し迷って布団のすぐ横の畳に座った。これ以上失礼のないようにしなければ。
旦那さまは行灯に火を入れると、部屋の灯りを消してしまう。もう寝てしまわれるのかな? 旦那さまが眠られるまで、私は起きていた方がいいよね?
「
「はいっ」
旦那さまに手招かれる。何か粗相をしてしまっただろうか。
恐る恐る布団に上がる。行灯の灯りに照らされる旦那さまは、明るい中で見る時と少し様子が違って見えた。
旦那さまの手が私の方へ伸ばされる。何をされるのだろう、と思っていると、その手が頬に触れた。冷たい手。でも、私をつねったりはしない。
顔に触れられてるからか、いつか私を助けてくれた人を思い出した。薬を塗ってくれた人。あの人にもう一度会ってお礼を言いたかったけれど、ついぞ叶わぬまま嫁いでしまった。
「……お前は今日から黒河の嫁だ。その責務は果たしてもらう。分かるか?」
「は、い……旦那さまの仰せのままに……」
「ならいい。」
責務……。私にできることなら、ううん、できなくてもやらなければ。
旦那さまに肩を押され、布団に倒される。
「旦那さま……? あの、何を?」
「決まってんだろ。夜伽だよ」
「よ、とぎ……?」
「お前も朱雀の娘なら分かんじゃねェか?」
旦那さまが私を見下ろす。その表情からは、何を考えてるか分からない。
「黒河に嫁いだ以上、お前には黒河の子供を産んでもらう。」
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