第27話 平和な生活

「イシュラビキさん!」

 オーウェンは、すぐに近くにいるイシュラビキを振り返った。

「話なら聞いていた。お前さんがやろうとしていることも、予想はつく。神にとっては死も同然だが……協力してやろうじゃねェか」

 イシュラビキは頷いてくれた。

「ぴゃう、ぴゃう!」

 そのとき、ミルクが勢いよく部屋に飛び込んできた。

「ちょうどいいな。この聖獣にオレの力を与えてやろう」

「ぴゃう⁉」

 イシュラビキがミルクに向かって手をかざすと、ミルクの姿が光に包まれた。

「ぴゃう、ばう、わう!」

 光が収まると、そこには馬ほども大きさのある巨大な白い狼がいた。背中には立派な純白の翼が生えている。

「ミルク!」

「ばう!」

 名前を呼ぶと、返事をしてくれた。ミルクなのだ。

「今から、エルと僕をある場所に連れて行ってくれるかい?」

「ばう、わう!」

 低く逞しくなった声で、ミルクは吠えた。

 エルプクタンをミルクの背に乗せ、自分も背中に上がると、彼の身体が落っこちてしまわないように、適当な布で自分と彼の身体を結びつけた。それから、ミルクの毛をしっかりと掴んだ。

「……に行ってほしい」

 ミルクに小声で、行先を告げた。

「ばう、わう!」

 ミルクは元気に返事をすると、走り出した。

「イシュラビキさん、ありがとうございます!」

 オーウェンは振り返って、大声で礼を口にした。イシュラビキは、ただ手を上げて応えた。

 

 巨大な白狼と化したミルクは勢いよく館を飛び出し外に出ると、翼をばっと広げた。

 浮遊感を感じたかと思うと、ぐんぐんと地面が離れていく。

「ミルク、すごいよ!」

 大空を飛んだミルクは、あっという間にエルプクタンの領土の境界線を越えた。

 境界線は黒く半透明に濁っていた。エルプクタンが弱っている証だ。彼の様子を見ると、うなじが半透明に透き通っている。気絶しているのか、目を閉じている。

 彼の神気が持ってくれればいいがと祈りながら、空を飛んだ。

 やがてミルクが降り立ったのは、森の中の泉のそばだった。いつかエルプクタンと共に来た、神気の含まれた泉だ。

「エル、これ飲んで」

 エルプクタンをミルクの背中から下ろすと、手で汲んだ水を口元へと近づけた。

 何度か水を飲ませると、彼はゆっくりと目を開けた。

「これは……神気を含んだ水ですか。これでは根本的な解決にはなりません。オーウェンさんは、ずっとオレに泉の水を飲ませ続けるつもりですか?」

 彼は窘めるように言った。さっさと諦めて自分の人生を生きてくれ、と言いたいのだろう。

 そういえば姪にも、似たようなことを言われていたなと思い出す。自分の幸せを見つけろと。

 幸せなら見つけたよ、と心の中で返事をした。

「ううん、ここは目的地じゃないよ。途中休憩に寄っただけ」

「休憩……?」

 オーウェンは空から見えた光景を思い出す。

 森の先には海があって、海には果てがあり、滝のように下の世界に海水が落ちていく。だから海の果てから落ちれば……下界に行くことができる!

「ミルク、僕たちを下界に連れていって」

「ばうわう!」

 再びミルクの背に二人で乗り、大空へと飛び立った。

 そして今、海の果ての上空で滞空している。今のミルクならば、安全に下界まで下りられるはずだ。

 ごくりと唾を嚥下してから、ミルクに話しかけた。

「じゃあ、行こう」

「ばう!」

 ミルクは獲物を見つけた鳶のように翼を畳むと、海の果てへと急降下した。

 

 気がつけば、オーウェンたちは道の途中に立っていた。

 一目見ただけで、オーウェンはここが下界がとわかった。なぜなら、立っていた場所はオーウェンの故郷の村だったからだ。時刻は夜で、月の光だけが明かりだ。

「ぴゃう、わう!」

 ミルクは元の子犬に戻っていた。下界に来たことで、イシュラビキからもらった力を維持できなかったのかもしれない。

「エル!」

 肩を貸していたエルプクタンの様子を、慌てて確認する。

 透けていた肌には色が戻っていき、翼を引き千切られた背中の傷が塞がっていく。最後に……宝石のように真っ赤だった瞳は、漆黒に変わった。

 下界で神気を失いすぎた神は、人間に堕ちる。エルプクタンは人間になったのだ。

 神としての完全な形を失ったのならば、人間になってしまえばいい。それなら、消えることもない。それがオーウェンの見つけ出した、彼を救う方法だった。

「これは……」

 信じられないといった風に、エルプクタンは自分の身体を見下ろしている。

 彼の肌は白いままではあるが、神だったころよりも、血が通った色合いに見える。

 もはや肩を貸す必要もないくらい元気になった彼に、ほっと胸を撫で下ろした。

「いろいろと言いたいことはあると思うけれど、とりあえず僕の家に行こうか」

 慣れた道を行き、かつての我が家に向かった。

 久しぶりに入る我が家は、埃っぽかった。姪は嫁いでもういなくなったのだから、家は無人だ。

「ほら、そこの寝台に横になって。さっきまで怪我人だったんだから」

 オーウェンの申し出に、エルプクタンは首を横に振った。

「いえ、今は平気です。傷は全て塞がったようですから。神気の不足も感じません」

 寝台を断った彼に、それならばと椅子に座るように促した。そうこうしている間に、ミルクは隅の方で丸まって、寝始めた。慣れないことをして、疲れていたのだろう。

「神気が身体を巡っていないのに、苦しさを感じないんです。これが人間の身体なんですね」

 椅子に腰かけながら、彼は微笑を浮かべた。オーウェンの目には、もの悲しそうな笑みに見えた。

 目にするだけで世界が変わってしまったかのように感じさせられる、超然的な雰囲気はもうない。美しさはそのままだが、人間になってしまったのだなとはっきりと感じ取れた。

「ごめん」

 オーウェンは彼に向けて頭を下げた。

「僕は勝手に君を人間にしてしまった。ごめん」

 もしかしたら彼は人間になるくらいなら、消えた方がマシだと思っていたかもしれないのに、自分は勝手に助けた。

 助ける方法を思いついたときに、意志を確かめることもできたかもしれない。けれども彼が拒絶の意を示したら、自分は必ず説得してしまっただろう。人間になるより消えた方がマシだなんていうのは、気の迷いだと。人間になってみたら、幸せな未来が待っているはずだと言葉を尽くしたはずだ。

 説得しているうちに時間が尽きてしまったら元も子もないので、ろくに説明せずに彼を下界まで連れてきたのだ。

「オーウェンさん、頭を上げてください」

 顔を上げると、彼はいつもの気だるげな微笑みを浮かべていた。

「謝る必要はありません。オレは助けてもらって、感謝しています」

「そう……か」

 ほっと息を大きく吐いた。

 彼は優しいから、もしかしたら恨み言を隠して笑っているだけかもしれない。それでもよかった。彼を繋ぎ留めておければ、それでよかった。なぜなら、自分は彼を……。

 この先は彼に告白すべきだ。彼も告白してくれたのだから。

 オーウェンは軽く咳払いをした。

「ところで、君が告白してくれたことだけれど」

 オーウェンが切り出すと、途端に彼の笑顔が強張った。

「あれは告白なんて、大層なもんじゃありません。ただの気の迷いです」

 彼は自らの告白を切って捨ててしまった。まるで、少しも期待してはいけないと思っているみたいだ。

「僕は嬉しかった」

 はっきりと言い放った。中途半端な言い方をしても、堂々巡りになると思ったからだ。

「な……オーウェンさんは、意味をわかっていません!」

 彼は血相を変えた。

「オレの告白は、つまり、オーウェンさんを伴侶として独占して、その……。ええと、毎晩あなたと口づけする度に、押し倒してしまう妄想を掻き消すのが大変だったんです! オレが口にしたのは、そういう類の愛しているなんですよ!」

 伴侶だというのに彼がいつまで経っても手を出してこないのは、愛玩動物扱いしているからでも、父性愛を求めているからでもなく、彼が紳士的な男だからだった。

 咄嗟に彼に押し倒されている自分を連想してしまい、頬が熱した鍋のようになった。

「うん、わかってるよ。そのうえで『嬉しかった』って言ったんだけど」

 彼の顔が、ぽかんとしたものになった。オーウェンの言ったことが、欠片も理解できてなさそうな間抜けな顔だ。初めての物事に直面したミルクが、大口を開けたこういう顔をすることがある。いつの間に夢と現実が入れ替わったのか、とでも思っていそうだ。

「えーとだから、押し倒されても……いいんだけど……」

「はあ、押し倒されても、いいと……?」

 必死に理解しようとしているかのように、彼は言葉を繰り返す。自分の欲望を口に出して繰り返され、こちらは恥ずかしいのだが。

 緩く首を振ると、改めて自分の気持ちをきちんと言葉にすることにした。

「僕は一目見たときからエルのこと綺麗な人だと思っていたし、祭祀場で助けてもらったことを感謝しているし、一緒に食事したりお酒を飲んだり出かけたりが楽しくて……ううん、一番はなにより、いつでも僕のことを思って行動してくれたからだよ。僕が一番喜ぶ贈り物はなにか考えてミルクを贈ってくれたし、出かける先も、一緒に飲むお酒もいつも僕のことを考えて選んでくれた。押しつけることなんてなかった。だからいつも楽しかったんだ。僕の方こそ、エルが嫌だと言っても人間になってもらって、助ける気だった。僕も独占欲っていうのがあるのかもしれない。僕もエルのこと、愛しているんだ」

 言葉を重ねるごとに、じわじわと彼の表情が変わっていった。オーウェンにとって幸いなのは、その表情が嬉しそうなものだったことだ。

「オ、オーウェンさん、それは本気ですか?」

「実際にエルのこと人間にしちゃったのに、疑うの?」

「あはは、本当ですね。嬉しいです、オーウェンさん」

 顔面をくしゃりとさせて、彼は満面の笑みを浮かべてくれた。

 想いが通じ合う瞬間というのは、思いのほか暖かくて穏やかなものだった。

「それで、この先のことを話したいんだけれど」

「この先ですか?」

「だってほら、エルは人間になっちゃったでしょ。今までの暮らしは続けられないから、人間としてどうやって生活していくのか、考えなきゃいけないでしょう?」

「このオレが、人間として生活……」

 まるで意識の埒外だったと言わんばかりの驚いた顔をしている。彼一人では、人間界で生きていけないのではないだろうか。

「うん、そうだよ。人間として生活していかなきゃいけないんだ。そこで僕から提案があるんだけれど」

「はい」

「僕と一緒に暮らさない? 一緒に畑を耕して暮らそうよ」

 オーウェンの言葉を聞いた、彼の黒い瞳が潤んでいく。赤い瞳でなくとも、相変わらず綺麗な目だと感じた。

「オレに……そんな平和な生活が、できますかね」

 震えた声音を聞いて、彼も戦いばかりの生活をやめたかったのだと気がついた。

 奪うことしか知らなくて、それを止めたくても、領土を取り返しに来た神との争いに強制的に巻き込まれる。争いの止め方が彼にもわからなかったのだ。

 だから、オーウェンはにっこりと笑ってみせた。

「うん、できるよ!」

 黒い瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれ始めた。

 彼の中の小さな少年は、やっとほしかったものを手に入れたのだ。

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