第26話 告白

 雷光が全てを白く染め上げた。


 視界が戻ると、お守りが眩く光り輝いていた。

 視界を覆いつくさんばかりだった触手は、雷に打たれたかのように脆く崩れ去っていた。お守りが守ってくれたのだと、直感した。

「レ……の……」

 聞こえた声は、ウキのものではなかった。

「オレの伴侶に、手を出すな……ッ!」

 翼を捥がれ、血を垂れ流しているエルプクタンが、それでも必死に立ち上がって、手を伸ばしてくれている。

 オーウェンは勇気を出して、その手を掴んだ。

 エルプクタンはオーウェンを引き寄せ、強く抱き締めた。

「かえ、せ……かえせ……」

 膿の触手が崩れ去っても、まだウキは倒れたわけではない。身体から新しく膿を噴き出しながら、オーウェンに追いすがる。

「これしか解決する術を持たなくてごめんなさい、オーウェンさん」

 エルプクタンは小声で囁くと、指先をウキに向けた。

 彼が悲痛な顔をしているのは、決して翼を捥がれた痛みのせいばかりではないだろう。結局暴力に頼るしかない己が嫌われても仕方がない、とでも思っているに違いない。

 雷鳴と雷光が迸り、ウキを貫いた。

 幾度も、幾度も。

 雷を落とす方向を指し示す指先が、わずかに透けていた。

「もういい! これ以上は、エルの神気がなくなっちゃうよ!」

 オーウェンはエルプクタンの腕に縋りついて止めた。

 翼を捥いだから無力だと、先ほどウキが勝ち誇っていたのだ。エルプクタンに神気はほとんど残っていないに違いない。雷を一撃落とすたびに、エルプクタンの命が削られている。

「オーウェンさんを、守ら、な……いと……」

 その場で崩れ落ちそうになる彼に、慌てて肩を貸して支えた。

 何度も雷に貫かれたウキは身体が折れたように傾いていたが、それでもまだ動いていた。

「かえ……せ、かえせ、かえせかえせかえせかえせかえせかえせかえせ」

 次々とウキの身体の内側から膿が溢れ出してきて、ウキの身体を膿が覆いつくし、本来の身体の大きさ以上の体積になっていく。

「な……」

 ウキの身体は際限なく膨らんで、遂に部屋の天井にまで届いた。

「かえせ」

 ヘドロのような膿の塊が、二人を押し潰そうと向かってくる。

 エルプクタンが指先を膿の塊に向ける。

 もう駄目だと目を閉じた瞬間だった。

「ごぼ、がぼ、が……ッ!」

 異様な声が聞こえて、オーウェンは目を開けた。

 見ればウキは口だった場所から、赤黒い液体を垂れ流していた。まるで血を吐いているかのように。オーウェンは思わず、力の神の最期を想起した。

「な、なぜ、ちからが、うしなわれ、て……」

 膿の塊の奥から、困惑の声が聞こえる。赤黒い液体と共に力が流れ出していっているかのように、膿の塊が萎んでいく。

「自業自得だよ」

 聞き覚えのある声が耳に届き、オーウェンは振り向いた。

「イシュラビキさん!」

 見れば、火の神イシュラビキが呆れたように膿の塊を見つめながら、室内に入ってくるところだった。

「遅れてすまなかったな。コイツを始末するのに、ちょっと下界で工作をしていたんだ」

 イシュラビキは、顎でしゃくってウキだった膿の塊を示した。

「工作?」

「風の神の眷族といったら、なんだと思う? 誰もが連想する通り、鳥さ。コイツはエルプクタンへの信仰を失わせるために、翼を持つ者を邪悪だと定義した。だから俺は下界の人間たちに『教義に従って鳥を捕らえて殺せ』と命じただけさ」

「え、そんな……」

 無関係な鳥たちは可哀想だが、眷族を失った神は力を失う。イシュラビキの工作のおかげで、目の前でウキが消えようとしている。

「俺の工作がなくても、いずれこうなっていたろうなァ。俺はただ早めた。欲に囚われるあまりに、己の眷族のことを忘れてしまった報いだな」

 イシュラビキが話している間に膿はぐずぐずと崩れ、萎み、ついにはミルクよりも小さくなってしまった。

「かえ、せ」

 最後の一言を遺し、膿は床の染みになって消えた。

 最後まで自分を所有物だと勘違いしている言葉が、気持ち悪いというより物悲しさを感じさせた。

「エル!」

 気が抜けたのか崩れ落ちそうになったエルプクタンを、ゆっくりと床に横にした。引き千切れた衣服の間から垣間見える素肌が、うっすら透けている。透けそうなほど白いと思っていた肌が実際に透けているのを目にして、ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちた。

 彼の神気がなくなろうとしている。どうにかならないか。瞬間的に思考を巡らせ、はっとした。自分の神気を彼に移してあげればいいのだ。

 オーウェンは大きく息を吸い、一瞬躊躇ったあと、エルプクタンに口づけした。視界の端で、イシュラビキが背中を向けるのが見えた。

 神気の送り方などわからないが、やってみればなんとかなるはずだと信じて、舌を入れて懸命に送り込むような動きを繰り返してみた。神気を送りこめているのか、何もわからない。

 彼の様子を窺わなければと口を離すと、赤い瞳と目が合った。

「オーウェンさん、駄目です。穴の開いたバケツに水を注ぐようなものです。神としての完全な形を失ったオレは、神気を注がれても留めておけません。もう消えるしかないんです」

 エルプクタンの言葉に、愕然とした。

「そんな……!」

 これから幸せになるはずではなかったのか。彼の知らなかった、家族と過ごす暖かい日々をこれから知っていくのではなかったのか。悔しさに涙が止まらない。

 彼の言う通りに諦めることなど、到底できない。だって彼はまだ目の前にいるのだ。なんとか救う方法があるのではないか。

「身体を交わらせれば……」

 身体を繋げれば、もっと神気を移せるのではないか。オーウェンの思い付きは、最後まで口に出すことはできなかった。

「それだけは駄目です!」

 エルプクタンがオーウェンの腕を掴み、強い口調で拒絶したからだ。

「オーウェンさんを、汚せません」

 彼は震える声で訴えた。

 それから、彼は小さな声で語り出した。

「実はオーウェンさんが聖女に選ばれたときから、天界からオーウェンさんの様子をずっと見ていたんです。最初は、男の聖女なんて珍しいと眺めていただけでした。でもオーウェンさんは神殿の人間たちからどんなに邪見に扱われても決して怒らず、腐ることもなく、常に笑顔で働いて、他者を助けていました。オーウェンさんみたいな人を見るのは、初めてでした。これが優しさというものなのか、これが愛というものなのかと、オーウェンさんを見ていて初めて知りました」

 初めて聞く事実に、オーウェンは息を呑んだ。まさか彼がずっと見ていたなんて。

「いつしかオレは、オーウェンさんには幸せになってほしいと考えるようになっていました。誰かに幸せになってほしいなんて考えるのは、初めてのことでした。オーウェンさんを通して、オレもまた今までとは別の存在になれたような心地がしていました。だから、オーウェンさんは誰よりも尊い存在なんです。オレには、オーウェンさんは汚せない」

 彼の語り口はまるで遺言のようで、オーウェンは口を挟めず静かに続きを聞いていた。

「けれども、オーウェンさんは下界で冤罪をかけられ、殺されかけました。もうこれ以上オーウェンさんを下界にいさせることはできないと思いました。だから、オレが迎えに……。けれども、それは間違いだったのかもしれません。オーウェンさん、どうかオレを見捨てて下界に帰ってください。オーウェンさんなら、きっと幸せになれます」

「下界に……?」

 彼の言葉に引っかかりを感じて、繰り返した。

「正確には……独占欲、だったのです。オーウェンさんが殺されかけたとき、これでオレが娶る口実ができたと思いました。汚したくないけれど、それと同じくらいオーウェンさんを自分のものにしたいとも思っています。今でも。オーウェンさん、愛しています」

 彼が口にした愛の言葉は、まさしく遺言だった。

 けれども、オーウェンの頭の中は別のことで占められていた。

「……それだ!」

 なぜなら、確実に彼を助けられる方法が思いついたからだ。

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