第25話 黒い洞
「オーウェンさん、すみません」
「いいんだよ」
日が経つごとに、エルプクタンは弱っていった。
こうして水差しからコップに水を注ぐことすら辛いので、オーウェンが水を注いでコップを手渡すと、礼を言われた。もっとも、神は水を飲まなくてもいいのだと言われたが。
こうして水を飲ませてあげるのは、オーウェンの自己満足だ。
エルプクタンは、寝台から身体を起こすのも辛そうにしている。だから最近ではオーウェンとミルクで彼の部屋に入り浸って、ずっと付きっきりだ。食事も彼の部屋で取っている。
「そうだ、今日のお昼ご飯は僕が作ってあげようか」
オーウェンは思いつきを提案した。
神が普通の食事を食べることが無意味でも、愛を食べるのは無意味ではないに違いない。食事を作ってあげることは、愛情表現だと言ったのは自分だ。
「本当ですか」
思った通り、エルプクタンの顔色がわずかに明るくなった。
「今から作ってくるよ! ミルクはエルの傍についててあげて」
「ぴゃう!」
気分だけでも明るくなってくれればと、部屋を飛び出した。
大急ぎで台所まで向かいながら、さて何を作ってあげるべきかと思案した。病人のような状態なのだから、あまり重くない食事がいいだろう。燕麦のミルク粥に、蜂蜜とリンゴを入れてあげるのはどうだろうか。名案だと自分の考えに頷き、台所への扉を開けて入った。
食材の中からリンゴを取り出し洗ったら、ナイフで皮を薄く剥いていく。鮮やかな赤い紐が、しゅるしゅると伸びていった。
皮をすっかり剥き終わり、さて果実を切り分けようかという頃合いだった。
「ぴゃう、ぴゃう、ぴゃう!」
ミルクが大騒ぎして入ってきた。
「どうしたの、ミルク⁉」
「ぴゃう、ぴゃう!」
ミルクの様子は尋常ではなかった。オーウェンの服の裾を噛んで引っ張ろうとしている。
まさかエルプクタンの身に何があったのかと思った瞬間だった。
遠くから男の悲鳴が聞こえた。
「エル!」
きっとエルの悲鳴だと、オーウェンは走り出した。
息せき切って、エルプクタンの部屋に飛び込んだ。
瞬間、目の前に広がった光景は、幻想的なものに見えた。視界を覆いつくすほどの大量の舞い散る羽根と、鮮やかな赤い薔薇。
瞬きをしたら、薔薇ではなく羽根に付着した血液だとわかった。
点々と羽根の塊が落ちていて、一際大きな塊が引き千切られた翼だと気がついた瞬間、息を呑んだ。
「ぐあァッ!」
部屋の中央で、今まさにエルプクタンの最後の翼が引き千切られていた。止める間もなく翼は引き千切られ、切断面から繊維のような真っ赤な線が垂れて揺れた。
言葉を失うほどの残虐な蛮行を目の前で行っているのは、風の神ウキアロワトゥル……だった存在だ。かろうじてそれがウキなのだとわかるが、以前会ったときとはまるで見た目が違っていた。
美しい翡翠色だった髪は黒く濁って淀み、肉体も歪んで、あちこちから夜の闇よりも暗い色の膿のようなものが滴っている。膿がまるで自ら意志を持っているかのように蠢き、触手のようにエルプクタンの翼を捥いだのだった。
これが邪神なのだと、一目でわかった。
エルプクタンを陥れた神は、邪神と堕しているはず。つまりエルプクタンを陥れた犯人はウキだったのだ。
邪神と化したウキはオーウェンの存在に気がつくと、ぱっと笑顔になった。濁った淀みの中に、三つの裂け目が生まれたかのような恐ろしい笑みだった。開かれた二つの目と口から、体内のもっとどす黒い闇が顔を覗かせていた。
「オーウェンさん! 私です、ウキです! 助けにきましたよ!」
何を言っているのか、理解できなかった。
「あれから私は、一切エルプクタンの領土に侵入できなくなってしまいました。だからオーウェンさんを助け出すために考えたのです」
ウキは目を見開いたまま、滔々と説明をした。
「どうすれば助け出せるだろう。エルプクタンを倒すしかない。しかし、どうやって。考えた末に、人間たちを利用することを思いつきました!」
後ろの方で震えているミルクに、今のうちに逃げるように身振りで伝えた。ミルクは躊躇うような素振りを見せたあと、翼を動かして必死に逃げていった。
「下界に赴き人間たちに教えを流布し、雷の神への信仰心を失わせました! 私の神としての力を奮えば、教えを流布するのは簡単なことでした。ええ、ええ、下界に行くのは危険なことです。けれども私は、オーウェンさんのためならばなんだってできるのです!」
オーウェンが受け答えしていないにも関わらず、ウキは勝手に盛り上がっている。
「私の目論見は成功し、ほら、このように助けに来れるようになりました! 翼を捥いでやったのも私ですよ!」
ウキの口調は、まるで褒められたくて仕方のない子供のようだった。
美しかった三対の翼は、全て無残に引き千切られてしまった。翼を引き千切られたエルプクタンは、痛みのあまり気絶してしまったのか目を閉じて倒れている。まさか死んでしまったのだろうか。
できるものならば、今すぐ彼に駆け寄りたかった。
「ずいぶん弱っていたのか、コイツは抵抗一つしませんでしたよ。命乞いのつもりなのか、『話し合いたい』だなんて笑わせます!」
ウキの言葉に、オーウェンははっとした。
エルプクタンはきっと抵抗できなかったのではない。抵抗しなかったのだ。暴力はいけないとオーウェンが訴えたのを、覚えて実践しようとしてくれた。
こうなってしまったのは自分のせいだ、と愕然とした。
「さあ、オーウェンさん」
いつの間にか、ウキが目の前にいた。触手のような膿がオーウェンにまとわりついてきて、脛を撫でる。
「もう私たちの仲を邪魔する者はいませんよ」
「私たちの、仲?」
彼が何を言い出したのかわからず、狼狽した顔でただ繰り返した。
「オーウェンさんは、毎日のように愛のメッセージを私に送ってくれていたでしょう? 私たちが出会ったあの中庭にクッキーを置いて、『助け出してくれ』『ウキさんと一緒になりたい』と必死に訴えてくれていたじゃないですか。クッキーを食べにはいけませんでしたが、メッセージはちゃんと届いていましたよ」
「ち、違う……!」
あのクッキーがそんな勘違いを引き起こしていたなんて。オーウェンは反射的に首を横に振った。
「違う……? オーウェンさん、一体何を言っているのですか?」
途端にウキから表情が抜け落ちて、二つの瞳から真っ黒な
「ああ、なるほど!」
ウキは勝手になにかに納得して、暗黒が裂けたかのような笑みを取り戻した。
「エルプクタンの前だから、本当のことを言えないのですね! 大丈夫です、翼を失ったアイツはもう無力です! オーウェンさんを無理やり娶って、蹂躙の限りをし尽くしてきたアイツを恐れる必要はないんです!」
「蹂躙なんて、されてない……!」
恐怖に震えながら首を横に振ったが、彼の胸にオーウェンの言葉が届いている様子は一切ない。邪神と化した風の神は、思い込みの中に生きていた。
「そうだ、せっかくなのでエルプクタンの前で
膿の触手が、頬まで伸びてきて、ねっとりと撫でた。
「は……?」
愛し合うの意味が予想通りであれば、これから最悪のことが始まる。それなのに、身体が固まってしまって動けなかった。
「オーウェンさん」
膿の触手が衣服の間に侵入し、素肌に触れた。
「い、嫌だ!」
触手がその先に進むことを想像した瞬間、拒絶していた。衣服の中に侵入した触手を引き抜こうとしたが、それより多くの触手が身体にまとわりついてくる。
「オーウェンさん、私を受け入れてください。オーウェンさんのために、邪神にまでなったんですよ?」
エルプクタンは決して、自分に無理強いなどしなかった。いつでも意志を確認してくれた。
対してウキは金貸しのようだ。勝手にオーウェンのために行動して、貸した分の愛を返せと言う。
ウキの行動に、自分への愛があるはずがなかった。
「エル……!」
オーウェンは思わず、胸元の羽根のお守りを強く握り締めた。
視界が膿の触手に覆われ、暗く閉ざされ――――
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