第22話 神の死

 それからオーウェンはエルプクタンの理想の父親として、穏やかな日々を送った。

 朝はエルプクタンと談笑しながら朝食を食べ、そのあとはミルクの食事を作り、ご飯をあげ、遊び、あれこれとしたならまた彼との食事の時間。時には外へと出かける日もある。夜になれば、神気を供給される。もう口づけ以上は求めないし、なるべく心を乱さないように努めた。

「よし、今日はお菓子を作ろう」

 することもあまりないので、お菓子作りはほとんど日課となっていた。姪のためにお菓子を作っていたときは蜂蜜やジャムを使っていたが、ここではたっぷりと砂糖を使える。

「ぴゃう!」

 オーウェンの言葉に、ミルクがはしゃいだ。ミルクもオーウェンのお菓子が好きなのだ。姪も大好きだった。エルプクタンも好きだと思ってくれていると、嬉しい。

「ぴゃう、ぴゃう!」

 ミルクは翼を羽ばたかせると、ふわりと浮かび上がった。そして台所の台の上に上がってしまったではないか。ミルクは最近、飛べるようになったのだ。

「あらら、だーめだよミルク。お料理をするところに土足で上がっちゃいけません! めっ!」

 得意げな顔のミルクを持ち上げ、床に下ろす。材料を混ぜ、クッキーの生地を作る。また上がってきたミルクを下ろす。生地を成型する。ミルクを下ろす。成型した生地をオーブンに入れる。ミルクと顔を見合わせながら、クッキーが焼けるいい匂いがしてくるのを待つ。

 そんな工程の末に、クッキーは焼き上がった。

「焼きたて食べよ!」

「ぴゃう!」

 焼きたてのクッキーを数枚、ミルクと分け合って食べた。クッキー作りでもっとも楽しい瞬間の一つだ。

 ミルクと十分にクッキーを楽しんだなら、残りのクッキーをバスケットに詰め、部屋の外へと出る。聖獣たちにクッキーを配るために練り歩くのだ。

 最近ではクッキーが焼き上がる時間帯が知れ渡っているのか、部屋の外に非番の聖獣が待機していたりする。

 今日も扉の前で待っていた黒猫やら兎たちやらに、クッキーを配ってやった。

 館中を巡って、最後に中庭に出る。聖獣に配るためではない。オーウェンとミルクが運動をするための中庭に、勝手に出ている聖獣はいない。

 オーウェンはなるべく目立つように中庭の中心にハンカチを敷くと、その上に数枚のクッキーを置いた。

 誰のためかと言えば、いつかここを訪れてくれるかもしれない翡翠色の小鳥のためだ。

 エルプクタンが侵入防止策を施したのか、あれから一度もウキことウキアロワトゥルが訪れてくることはなかった。

 けれどもクッキーぐらいは食べていってくれると嬉しいなと、定期的に数枚のクッキーを中庭に置いているのだった。

 そのあとはエルプクタンがいれば彼にもクッキーをあげにいくし、いなければ夕食のときに出してねと聖獣たちに託す。

 平和な一日だった。


「オーウェンさん、今日はお出かけの日ですよ」

 朝早く、エルプクタンが起こしに来てくれる瞬間が好きだ。

 エルプクタンと外に出かける日はお弁当を作るので、早起きすることになっている。聖獣たちに起こしてもらうのは申し訳ないとぼやいたら、彼が起こしにきてくれることになったのだ。

「ふあ、んーっ! おはよう!」

 身体を起こして伸びをすると、彼に笑顔を向けた。今日の外出も楽しみすぎて、はち切れんばかりの笑顔になった。

「そんなに楽しみですか? ふふっ」

 自分の笑顔を見て、彼もまた目尻に皺を作った。

 彼がだんだんと人間味のある表情を見せてくれるようになって、仲良くなれていると実感する。こういう何気ない瞬間が、どうしようもなく嬉しかった。

 お弁当を作っている間、ミルクだけでなくエルプクタンまでもが、横から手元を覗き込んできた。

「ミルク、上がっちゃ駄目って言ってるでしょ。まったくもう」

「オレが捕まえてますよ」

 台に上がったミルクを、エルプクタンが抱きかかえた。真っ白な彼がふわふわな白い仔犬を抱えているのがあまりにも可愛らしくて、一瞬見とれてしまった。

 はっと気を取り直し、お弁当作りを開始する。聖獣たちに作ってもらった、パンに具材を挟んだ携帯食が美味しかったので、以来、真似して同じお弁当を作っている。

 パンを四角形に切り、バターを塗り、燻製肉や野菜を挟み込んだ。

「完成したよ」

「じゃあ、行きましょう」

 出かけている間のミルクの食事は聖獣たちに任せ、いつものようにお弁当の入ったバスケットを持って、エルプクタンに抱きかかえられて大空へと飛翔した。

 空の空気はちょっと冷たいけれども心地よく、オーウェンは目を細めた。やがて眼下に天界の景色が広がる。

「あれ、なんだろう?」

 風景の中に異様なものがあるのを発見して、不審に思う。

 普通なら明るく眩く光っているはずの領土を区切る線が、暗く濁った色になっている箇所があったのだ。

「あれは領土を支配している神が弱っている証拠ですね。興味があるなら、近寄りましょうか?」

 オーウェンが返事をする前に、エルプクタンはすいっと高度を下げていった。

 本来は領土を区切る線に遮られて領土の中を見ることはできないが、暗く濁った境界線は半透明になっていて、わずかに中を垣間見ることができた。

「あそこに人がいる……!」

 上空から見えた人影を指さした。見ている間に、人影は大きく体勢を崩した。どうやら倒れたようだ。

 エルプクタンは何も聞かずに、人影に近づいていく。倒れた人を放ってはおけないので、助かった。

 高度を下げていくと、エルプクタンはすいっと境界線を通り抜けてしまった。

「えっ」

「こんなに脆い境界を越えることくらい、訳ないですよ」

 勝手に越えてしまっていいのかと思ったが、これは緊急事態だからと思い直した。

 境界線の向こうは、一面の銀世界になっていた。真っ白な雪がどこまでも積もっている。

 倒れている人影の、すぐそばに降り立った。

 倒れている人は、きっとこの領土を支配している神なのだろう。毛皮のマントのような、毛量の多い長髪が雪景色の中で目立っている。

 足跡と……血痕が点々とここまで続いている。倒れた男の元に跪いてみると、口元から血を流しているのがわかった。吐血していたのだ。

「一体、どうしてこんな酷いことに……」

 男の首元にそっと手を触れてみると氷のように冷たくて、死の気配を感じてぞっとした。よくよく見れば、男の肌はすりガラスのように透き通っていた。神気がなくなろうとしているのだ。

「その男は力の神です」

 そばにエルプクタンが来て、説明してくれた。

「力の神の眷族は狼です。ところが最近、下界では家畜を食われないように、狼に毒を盛って殺し始めたようです。そのせいで狼が減りすぎてしまいました。眷族がいなくなった神は力を失ってしまいます」

 説明の合間にも、力の神は自分が毒を盛られたかのように、血反吐を吐いた。

 眷族がいなくなれば、神は力を失うだなんて知らなかった。

「そ、そんな、一体どうすれば……!」

 オーウェンの問いに、エルプクタンは首を横に振る。

「どうしようもありません。力を失った神は消えるだけです。こうなる前に下界に下りて干渉する手もあったんでしょうが、下界に下りると著しく神気を消耗しますし、下界で神気を消耗しすぎると、神から人間へと堕してしまいます。下界へ下りるのは危険なので、迷っているうちに力の神は機会を逸してしまったようですね」

 どうしようもないとの返答に、愕然とした。

「でも、どうにかしないと、このままでは……」

 言い募ろうとした瞬間、力の神が大きく咳き込み始めた。驚いて振り向くと、力の神は背中を大きく弓なりに曲げ、大量に血を吐いた。辺り一面が血に染まるほどの血を吐き、オーウェンが瞬きをした次の瞬間、ふっと消えてしまった。

 あとに残されたのは血みどろの雪だけだった。

「あ……」

 何もできなかった。目の前に苦しんでいる人がいたのに、何もできず死なせてしまった。なにかできたかもしれないのに。

「……オーウェンさん、今日はお出かけはもうやめましょうか。用意してくれたお昼ご飯は家で食べましょう」

 その場から動けないでいるオーウェンを、エルプクタンの腕が抱き上げた。

「オーウェンさんが傷つくとわかっていれば、ここにつれてきませんでした。ごめんなさい」

 ふわりと、エルプクタンの身体が浮かび上がる。

 力の神の死に動揺している間に、屋敷に着いていた。

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