第20話 エル

「オーウェンさん、お腹すいていませんか?」

 エルプクタンの心配する言葉を聞いて、空腹を自覚した。

「うん、お腹すいたかも。ランチにしようか」

「ええ」

 バスケットから敷物を取り出して地面に敷き、次に昼食を取り出した。小麦でできた柔らかな白いパンにバターをたっぷりと塗り、中にはローストした肉を薄切りにしたものや野菜を挟み込んだものだ。携帯食ですらこんなに豪勢だなんて、信じられない。

 オーウェンは目を輝かせた。

 それを見たエルプクタンが、くすりと笑いを漏らした。

「オーウェンさんはわかりやすいですね。早く食べたいって顔に書いてありますよ」

 指摘されて、オーウェンは気恥ずかしさに顔が熱くなった。

「あ、ごめん」

「いいんですよ。オーウェンさんのおかげで、オレも『早く食べたい』という気持ちを知ることができますから」

 彼の言葉に、顔だけでなく胸の内まで熱くなってくる。

 決して合わせているだけでなく、彼自身も喜びを知ってくれるのが嬉しかった。彼の役に立てているのだ、とも感じる。

「ほら、食べてください」

「うん」

 促され、肉を挟み込んだパンにかぶりついた。

「美味しい!」

 バターの塩気で旨味の増した肉の味に、オーウェンは満面の笑みになった。

「ええ、美味しいですね」

 彼もパンを口にする。それから彼の浮かべた微笑は、本当に美味しいと感じているように見えた。

 空気の綺麗な森の中での昼食は、幸福なひと時だった。こういう日々が続くのならば望郷の思いを捨ててしまってもいいのではないか、という考えが頭をもたげるくらいに。

 幸せな昼食のあと、オーウェンは恥ずかしげにエルプクタンにこんな頼みをした。

 「森の魔獣を見てみたいな」と。

 木の枝にとまる小鳥は見かけたが、あんなものでは満足できない。森の中で生活している可愛い魔獣を目にしたいのだ。

「なら水源に向かいましょうか。それも神気を含んだ水の湧き出ている水源がいいですね」

「水に神気が含まれていることがあるんだ」

「時にはそういう水源もあるんです。オレから離れないでくださいね」

 エルプクタンは神気の含まれている水源とやらの方角がわかるのか、確かな足取りで歩きだした。オーウェンはそのすぐ後ろをついていった。

 四半刻も歩かなかったと思う。

 エルプクタンは立ち止まると、木立の間をそっと示した。

「ほら、見てください」

「わあ」

 オーウェンは小さな声で感嘆した。

 木立の間から、清水の湧き出る泉が見えた。泉にはリスやシカの魔獣がいて、水を飲んでいた。魔獣には翼は生えておらず、代わりに尾の先が黒かったり、蹄が大きかったりと、自分の知っている下界の動物と少しずつ姿が違った。

「わあ、トカゲの魔獣もいるよ。可愛いね」

 目のいいオーウェンは、小さな動物が泉のほとりで休んでいるのを見つけて、隣のエルプクタンに囁いた。

「え、爬虫類も可愛いんですか?」

「うん、顔つきがエルプクタンくんに似てて可愛いよ」

 つぶらな瞳をしていて、のんびりした顔つきをしているのがそっくりだと思う。

「……兎以外に似ていると言われたのは初めてです」

 エルプクタンは複雑そうな顔をしていた。そっくりなのにな。

「オーウェンさんが爬虫類も好きなら、聖獣を……伏せてください!」

 突然、彼に身体を押さえつけられた。

「グルァッ!」

「ぐ……ッ!」

 獣の咆哮と、彼の呻く声。それから鉄の臭い。

「はぐれ魔獣……血迷ったか」

「キャンッ!」

 獣の悲鳴が聞こえたかと思うと、ガサガサと葉擦れの音が遠ざかっていった。

「何が起こっ……」

 身体を起こしたオーウェンの言葉は、最後まで続かなかった。エルプクタンのまとっていた衣服が大きく裂け、背中から腕にかけてを大きな爪痕が抉っていたからだ。今この瞬間も、真っ赤な血が溢れ出している。

 オーウェンは事態を理解した。魔獣が襲ってきて、エルプクタンが庇ってくれた。

 自分を庇わなかったら、魔獣などに傷を負わされるような彼ではないだろうに。

「き、傷が……! どうしよう、傷が!」

 オーウェンはまるで自分が傷ついたかのように、狼狽した。

「落ち着いてください、オーウェンさん。か弱い人間と違って、この程度の傷なんてすぐに治ります」

「でも……!」

 すぐに治ると言われても、目の前で赤い血が流れているのだ。落ち着けるわけがない。

「しょうがないですね。傷が早く治るように、あの泉まで連れていってくれませんか」

「わかった!」

 傷ついていない方の腕に肩を貸し、彼を気遣いながらも、急いで泉へと向かった。

 木立から二人の人影が出てくるのに気づくと、水を飲んでいた魔獣たちは一目散に逃げていった。

 オーウェンは手で泉の水をすくうと、エルプクタンに差し出した。

 手の縁に彼の唇が触れ、水を嚥下した喉仏が上下する。すると、ゆっくりと傷が塞がっていくのが見て取れた。

「よかった……!」

 実際に傷が治っていくのを見て、オーウェンはようやく安堵した。

「僕のことなんて、庇わなくてもよかったのに」

「何を言っているんですか!」

「え……」

 思わぬエルプクタンの語調の強さに、オーウェンは目をぱちくりとさせた。

「オーウェンさんは傷ついたら、簡単には治らないじゃないですか! もしかしたら、死んでしまうかもしれない! そうなったら、オレは、オレは……!」

 彼は血を垂れ流していたときよりも、よほど悲痛な顔をしていた。

 どれだけ大切にされていて、そして必要とされているか、痛いほどに実感した。

「ご、ごめん。お礼を言うべきだったね。守ってくれて、ありがとう」

「……はい。オーウェンさんが無事で、よかったです」

 礼の言葉を聞いて、エルプクタンは穏やかな微笑を取り戻した。

 エルプクタンが伴侶の意味を正しく理解しているかどうかなんて、小さな問題ではないか。むしろ伴侶に向ける感情が性愛でなければならないなんて考えているのは、人間だけではないだろうか。

 彼の想いは本気だ。

 大事にされている。必要とされている。伴侶であるためには、それだけで十分なのかもしれない。

「ねえ、エルって呼んでもいいかな」

 彼を寄りかかってもいい相手だと思えたオーウェンは、自然ともっと距離を縮めたいという欲求が湧いてくるのを感じた。

 駄目かな、いいかなとちらりと彼の顔色を窺った瞬間だった。

 ぎゅっと強く、身体を抱きすくめられた。抱擁する力の強さに、一瞬息が止まるかと思うくらいだった。

「……とっても、嬉しいです」

 耳元に低い囁き声。

 心臓がばくばくと跳ね回る。

「ぜひ、オーウェンさんの口から聞きたいです」

「エ、エル?」

 おずおずと愛称で呼ぶと、一度緩んだ腕の力が再び強くなった。

「はい、エルです」

 軽い気持ちでした提案が、こんなに喜ばれるとは思わなかった。

 これから何度でも呼んであげようと思うのだった。

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