第18話 火の神、イシュラビキ

 それから毎晩、来る日も来る日も二人は口づけを交わした。

 回数をこなせば慣れるのではないかとオーウェンは期待していたが、むしろ感覚はより鋭敏になり、さらに快感を拾いやすくなるばかりであった。

 このままでは、口づけするだけで気をやってしまうかもしれない。ありえない想像が現実のものになってしまうかもしれないと危惧するくらいには、彼との口づけは恍惚をもたらした。

 口づけを欠かした夜はなかった。その習慣を破ったのは、意外にもエルプクタンの方だった。

「すみません、オーウェンさん。今晩は友人が訪ねてくることになっているんです。ですから、夜の神気供給ができません」

 昼食の席で、エルプクタンは申し訳なさそうに謝った。

「そっか、それなら仕方ないね。お友達を優先してあげて」

 今晩は口づけをしなくていいのだと、オーウェンは内心で胸を撫で下ろした。

「ですから今晩の分は、このあとすぐしましょう」

 口づけしなくていいわけではなかった。むしろ早まっただけだった。


 オーウェンはいつものように顔を真っ赤にして、息も絶え絶えの状態で、口づけを終えた。

 それからミルクに食事をさせ、ミルクが昼寝を終えたら散歩をする。いつも通りの日常だ。

 ミルクは順調に大きくなってきている。布ボールを投げてやると、一生懸命小さな翼をばたつかせた身体がふわりと浮くことがある。飛べるようになるまで、もう少しかもしれない。

 幸せな一日を過ごしてたっぷり遊んだミルクは、日が沈むと深い眠りに落ちた。すっかり遠慮のなくなったミルクは、自分のベッドではなく、長椅子をどっかり占拠して眠っている。

 一人になったオーウェンは、気分が落ち着かなくなってくるのを感じていた。

 原因は訪ねてきているというエルプクタンの友人のことだ。本当に友人なのだろうか。

 何も友人以上の仲であることを心配しているわけではない。おっさんの人間よりも、美しい神同士で愛し合う方が自然だろう。

 オーウェンが心配しているのは、友人以下の仲である場合だ。凶暴な面貌でウキを痛めつけていた様を思い出し、本当に友人がいるのだろうかと案じた。自分以外の誰かと仲良くしている様子が、どうにも想像できなかった。

 今にも、自称友人を痛めつけているのではないか。そう思うと、いてもたってもいられなくなった。

 ちょっとだけ、様子を見に行ってみよう。ほんの少し様子を窺ったら去るだけだから、大丈夫。

 自分に言い聞かせ、オーウェンは自室を抜け出した。

 オーウェンが困っているときにはいつも忽然と姿を現してくれる黒猫に案内され、エルプクタンの部屋へと向かった。

 彼の部屋は扉がわずかに開いていて、中から話し声が漏れ聞こえた。

「とても……で、どうにも……すぎるんだ。無防備すぎて、オレが守って……」

 エルプクタンがひたすらになにかを語っている。声音からすると、争っている様子はない。オーウェンは一安心した。

 いけないことではあるが、自分以外の者と語らっている彼が珍しくて――特にくだけた口調の彼に興味をそそられて――オーウェンは扉にさらに近寄って、聞き耳を立ててしまった。

「それはもう怖がりで、よく震える仔犬のようになってて」

 自分の話だ、とオーウェンは直感した。彼の前でよく震えていた自覚があったから。それにしてもこんなおっさんを、仔犬のようとは。

「それからぁ……身体も心も、もちもちしていて。腰の肉なんて、むにっとしていてつまめそうで」

 オーウェンははっと自分の腰を見下ろし、肉をつまんでみた。むにっとつまめた。恥ずかしさに、顔から火が出るかと思った。

 それにしてもエルプクタンは、なぜ友人に自分の話をしているのだろう。自分の話などされても、退屈なのではないだろうか。

「へェ、いいじゃねェか」

 聞き慣れない声が聞こえた。この声の主が、エルプクタンの友人なのだろう。苛烈な人柄を彷彿とさせる、荒っぽい声だった。

「ところでさっきから聞き耳立ててる奴がいるが、いいのか?」

「え?」

「へ?」

 間抜けな方がオーウェンの驚いた声だ。

 逃げようとした瞬間、扉から影が差した。見知らぬ褐色肌の男がオーウェンを見下ろしていた。

「あァ? なんだこのおっさん?」

「ご……ごめんなさい」

 オーウェンは仔犬のように震えて、謝罪の言葉を口にした。

「オーウェンさん……っ!」

 すぐにエルプクタンが飛んできて、褐色肌の男を跳ね飛ばしそうな勢いで間に割り込んできて、抱き上げられ、室内へと運ばれた。

「あの、あの、オーウェンさん、どこから聞いてました……?」

 エルプクタンの顔色が悪いのはなぜだろう。そしていつまで横抱きにおひめさまだっこしたままでいる気なのだろう。

「どこからって、仔犬みたいだとか言ってたところから?」

「そ、そうですか」

 オーウェンの答えを聞いて、彼はあからさまにほっとした。

「ところで聞きたいんだが、それ・・がお前の伴侶か……?」

 褐色肌の男が、訝しげな視線を投げてくる。

「腰肉がつまめそうなほど豊満で、いつも仔犬のように震えているような繊細さがあって、それでいてあどけない無防備さを見せる純真無垢な美少女がお前の伴侶のはずでは……? 聞いてた話とだいぶ違うんだが?」

「性別以外合ってるだろ?」

 エルプクタンがあっけらかんと返す。

「たしかに、よく考えたら女だとは一言も言ってなかったな……。にしても趣味が……」

「趣味が? なんだ、言ってみろ」

「いやいや、俺とは嗜好の方向性がだいぶ違ェなって思っただけだ!」

「嗜好が被っていたら、お前の視界にオーウェンさんを晒していない」

 二人は随分と仲良さげに会話を繰り広げる。どうやら褐色肌の彼は、本当にエルプクタンの友人であるようだ。

「オーウェンさん、こいつはオレの友人のイシュラビキです。火の神ですよ」

 オーウェンを横抱きにしたまま、友人を紹介してくれた。彼の友人もやはり神様だった。

 イシュラビキと紹介された男に視線を移す。

 褐色肌に燃えるように鮮やかな赤い頭髪。言われてみれば、火の神らしい姿だ。暑いのか上半身は脱いでいて、鍛え上げられた筋肉がよく見て取れた。老いとは無縁の若い顔は、神らしく美しい。けれどもオーウェンは、エルプクタンの方が美しいなと思った。

「ゆ、友人? うわ猫被ってやがる」

「なんか言ったか?」

 エルプクタンがイシュラビキを軽く睨む。

「あ、あの……そろそろ下ろしてほしいんだけれど」

 オーウェンはエルプクタンに頼んだ。互いを紹介してもらう流れなのに、横抱きにされたままでは格好がつかない。

「大丈夫ですか? イシュラビキが怖くないですか?」

 イシュラビキを怖がっていると思われて、抱き上げられていたようだ。そんな、借りてきた猫ではないのだから。

 彼の言葉通り、震える仔犬のように思われているのだろう。

「大丈夫だから、怖くないから下ろして」

 筋骨隆々で荒っぽい口調の神様が少しも怖くないと言ったら嘘になるが、エルプクタンと仲がよさそうなことからだいぶ恐怖は薄れている。それよりも抱き上げられたまま挨拶する恥ずかしさの方が勝った。

「イシュラビキ、こちらはオレの伴侶のオーウェンさんだ。くれぐれも失礼のないようにしろよ」 

「どうも、オーウェンです」

 正式に伴侶として紹介され、胸の内に自分でも思ってもみなかったほどの嬉しさが湧いてくる。きちんと伴侶として見られているんだ、と心が内側から掻かれているような擽ったさを覚えた。仔犬扱いではない。伴侶として大事に思われている。

 なぜこんなにも嬉しいのだろう。まさか自分は、本気でエルプクタンの伴侶でいたいと思っているのだろうか。故郷に帰りたいとも思っているのに?

「はいはい、わかったわかった。それにしてもお前が人間を娶るとはな。俺が何回勧めてもその気にならなかったくせに、どういう風の吹き回しだ?」

「そんなの、どうだっていいだろ」

 なんと、自分がエルプクタンの初めての伴侶のようだ。初めて娶ろうと思った人間がおっさんだなんて、本当にどうしてなのかとオーウェンは気になった。

「ははあ、本人の前では言えないか。いやあ、まさかお前が恋に落ちるとはなあ!」

 イシュラビキが気安くエルプクタンの背中を叩く。

 恋に落ちるとの言葉に、心臓が大きく跳ねた。別にエルプクタンは恋に落ちたわけではないと思う。もしそうなら、とっくになにか、そういう素振りを見せているはずではないだろうか。だって自分は、彼の伴侶らしいのだから。

「うるさい」

 エルプクタンは、背中を叩く手を軽く払っている。

 気安いやり取りを目の当たりにして、オーウェンは大きな安堵を覚えた。

「よかった、本当にエルプクタンくんの友達なんだね。独りきりなんじゃないかと思っていたから、安心した」

 ウキが告発したようにあちこちの神から領土を奪って回っているのだとしたら、とても孤独な生活を送っているのではないかと心配していたのだ。でもこうして友人がいるなら、心配は必要なさそうだ。

「オーウェンさん、オレの心配をしてくれていたんですか? ……ありがとうございます」

 エルプクタンは嬉しそうにはにかんだ。

「ふうん、なるほどねェ」

 二人の様子を見て、イシュラビキはなにかに納得したように顎を撫でていた。

「ところでお前さァ、伴侶が大事だからって屋敷に閉じ込めてるんじゃないだろうな? たまにはデートの一つや二つくらい連れて行ってやれよ?」

 イシュラビキはにやにやと言ったが、オーウェンには「デート」という言葉の意味がわからなかった。

「デート?」

 それはエルプクタンも同じだったようで、彼も首を傾げていた。

「なんだ二人とも、俺よりも人間の文化に疎いんだな。愛しい人とあちらこちらに出かけて、楽しい時間を過ごすことをデートっていうんだよ」

 イシュラビキは豪快に笑って説明してくれた。

「へえ、デートかあ」

 天界を見て回れるならば、楽しそうだなと思った。

 そんなオーウェンの横顔を、エルプクタンがじっと見つめていた。

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