第16話 神気の供給
「僕は思い上がっていたな、ミルク」
ミルクと夕方の散歩に中庭を散策しながら、オーウェンは独りごちた。
「ぴゃう!」
ミルクと並んで歩きながら、オーウェンは頭の中で反省点を並べた。
「僕はエルプクタンくんと何日か過ごしていくらか仲良くなっていた気でいたのに、初めて会ったウキくんの話が事実である前提で話を進めてしまった。まず、本当かどうか聞くべきだったよね。エルプクタンくんは、僕のこと泥棒じゃないって言ってくれたのに……」
祭祀場でエルプクタンに助けられたときのことを思い出し、自己嫌悪に溜息を吐いた。自分の行いを思えば、彼が悲しい顔をしても仕方がないと思った。
「ぴゃう」
ミルクがその通りだと言わんばかりに返事した。
「事実だったとしても、どうしてそんなことをするのか理由を聞くべきだった。僕のお説教は、一方的だったな」
姪を叱るときには、必ず事情を聞くように気をつけていたのに。
エルプクタンが傷ついた顔を見せるまで、彼にも人間と同じ柔い心があるとわかっていなかったのだ。自分が何を言っても、平然とした気だるげな反応しか返ってこないのだろうぐらいに思っていた。
自分が彼を傷つけてしまったのだ。
「はあ……」
改めて自己嫌悪を感じ、深い溜息を吐いた。
「あ、れ……」
不意にオーウェンは転んで、芝生の上に倒れこんでしまった。
突然、足の感覚がなくなったのだ。上体を起こして自分の足を確認してみると、足先が半透明に透き通っていた。
「な、なんだこれ⁉」
いきなりの異常事態に、オーウェンは狼狽して顔面蒼白になり、冷や汗がぶわりと噴き出た。半透明になっている場所は、感覚がない。まるで足を切り落とされてしまったかのようだ。
どうしてこうなっているのか。ずっとこのままなのか。透き通っている場所は広がっていくのか。様々な考えが頭の中を駆け巡るが、その場で藻掻くことしかできない。
「ぴゃん!」
ミルクは一鳴きすると、館の中へと駆け戻っていった。助けを呼びに行ってくれたのだと信じたい。
だんだんと身体から力が抜けてきて、上体を起こしているのも大変になってきた。足の透明な部分は広がっていっているのだろうか。もう確かめる勇気はなかった。
「オーウェンさん、大丈夫ですか!」
エルプクタンの声が耳に飛び込んできた瞬間、胸の内に安堵が湧くのを感じた。
彼の心を傷つけてしまったのに、彼はこうして助けにきてくれる。優しい人じゃないか。
「これは……!」
オーウェンの身体を見下ろし、彼は顔色を変えた。
「オーウェンさん、失礼します」
彼は腕を回してオーウェンの上半身を抱き上げた。そして彼も屈んで――口づけをした。
「んぐ⁉」
唐突に唇同士を触れ合わせられ、それどころか舌が入ってくる感触に、思わず彼を突き飛ばしそうになった。
そうしなかったのは、彼の口から己の身体の内側へと、なにかが伝わってくるのを感じたからだ。暖かいものが身体の内側へと、注ぎ込まれている。
よくわからないが、彼が注いでくれているものこそが、自分を助けるものだと直感した。
そうとわかると、オーウェンは身体の力を緩めて身を委ねた。
なにかを注ぎ込み送り込むたびに、彼の舌が前後に動く。口蓋を舌が掠めると、びくりと身体が震えた。
感触に身体が熱くなる。正直に言えば好みな顔立ちをしている男と、口づけを交わしてしまっているのだ。反応してしまうのは、仕方がない。
口づけを続けているうちに、甘い感覚が脳の内側を満たしていくのを感じた。全身を蟻が這い回っているかのような、奇妙な感覚。なのに気持ち悪くない。生まれて初めて、他人から与えられる性感だ。このまま甘い感覚に身を委ねていたら、下肢が兆してしまう予感がした。
なのに、もっとほしいと願ってしまう。淫靡な欲求。そう、これは淫らな欲なのだ。まさか自分が淫らな欲を抱くとは、思ってもみなかった。
「はあ……っ、ひう」
彼が舌を引き抜いたとき、淫らな自分を見られたくなくて、片腕と片足で身体を隠した。
「……オーウェンさんの口を穢してしまって申し訳ありません。神気を分け与えるのに、必要だったのです」
口を離したエルプクタンは心底から申し訳なく思っているかのように、顔を歪めていた。その表情に、むしろオーウェンの方が申し訳なさを感じた。自分は邪な欲を抱いていたというのに。
「神気?」
聞き覚えのない言葉に、首を傾げた。
いや、正確には彼が何度か口にしていた単語だとは覚えている。けれども意味を知らない。
「神気というのは、天界に留まるために必要な力のことです。神ならば、神気は自然と身体の内側から溢れてきます。聖獣たちも神ほどではないですが、神気を身の内に宿しています。人間の中にも、稀に神気を持つ者がいます。オーウェンさんを捕らえていた神殿は、神気を持つ人間を聖女として集めていたようです。なのでオーウェンさんも神気を持っています」
それが自分が聖女として選ばれた理由だったとは。今更ながらに発覚した事実に、オーウェンは目を瞬いた。
神官には、神気を持つ人間を判別する力があるのだろう。洗礼の儀は女性相手にしか行わないから、女性の聖女しか発見されなかったということだ。
おそらく男性相手にも洗礼の儀を行っていれば、男の聖女が発見されることも、ままあることだったに違いない。
「ですが、すみません。触れてみるまで気がつきませんでしたが、オーウェンさんの神気は随分と少なめなようです」
「少ないんだ」
自分は聖女として劣等生だったようだ。
「なので天界で過ごすうちに神気が減っていき、足りなくなってしまったようです」
「神気がなくなったから、足が透けて動かなくなっちゃったっていうこと?」
「はい」
神気が減るというのは、なんと恐ろしいことなのだろう。オーウェンは恐怖を抱いた。
「神気が完全になくなったら、どうなってしまうんだい?」
「身体が完全に透明になり、存在が消滅します」
彼の返答に、オーウェンは息を呑んだ。
消えたくない、と強く思った。故郷に帰りたい、姪に会いたいと次々と思いが浮かぶ。
「消えるのを防ぐには、どうしたら?」
尋ねると、彼は躊躇う素振りを見せた。眉間に皺を寄せて思い悩むような珍しい表情を見せたあと、口を開いた。
「……非常に申し訳ないのですが、オレが定期的にオーウェンさんに神気を供給するしかないですね。それ以外の方法は思いつきません」
「神気の供給って」
「身体を交わすことによって、神気の受け渡しができます。口づけだったり、もっと直接的な交わりだったり」
オーウェンは言葉を失った。それはつまり、これから定期的に彼と口づけしなければならないということだからだ。
「もちろん、神気の供給を盾に同衾を迫ったりなんてしません! 口づけだけで済ませますから」
オーウェンが絶句した様子になにか勘違いしたのか、彼は慌てて補足する。
「むしろ、こんな方法しか思いつかなくてすみません」
彼の申し訳なさそうな様子に、衝撃から立ち返る。
彼が自分を助けなければならない理由などないのに、こうして神気を供給しようとしてくれている。消えないためならば、口づけくらいなんだというのか。むしろ軽いものではないか。
「いいよ、口づけぐらい。エルプクタンくんの方こそ、こんなおじさんとキスだなんて嫌だろうに、ごめんね?」
はにかんで礼の言葉を口にした。
「…………いいえ、嫌だなんてことはありません」
彼が答えるまで、たっぷりの間があった。本心では嫌なのだろう。
中年男との口づけなんて不快なことを定期的に行ってまで、助けようとしてくれている。やっぱり優しい人じゃないか。
あちこちから領土を奪って回っている凶暴な神だなんて、なにかの間違いなのだという思いが強まる。
「それから、さっきいろいろ言っちゃってごめんね。エルプクタンくんにも、事情があるだろうに。僕はそれを聞かなかった」
オーウェンの言葉を聞いて、重たげな瞼がわずかに開かれ、すぐに緩んだ。
「いいんですよ。きっと、オーウェンさんの方が正しいんですから」
彼の言葉が心の扉が閉じてしまったからこその言葉なのか、それとも開こうとしてくれている兆しを見せているのか、オーウェンには判別がつかなかった。
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