第8話 オーウェンさん
着替えが終わると、犬が先導して歩き出す。
また案内してくれるのだと、ついていった。てっきり部屋に戻るのだと思っていたが、彼らが案内してくれた先は食堂だった。既にオーウェンの席が用意され、向かいの席にはエルプクタンが座っていた。
「お風呂、気に入っていただけました?」
うわあ、神様が目の前にいる。こりゃとんでもないことだ。
時間を置いて再会したことで、衝撃を再実感した。
「は……はい。気持ちよかったです」
犬と鳥が力を合わせて椅子を引いてくれたので、席に着きながらぎこちない笑みをエルプクタンに向けた。
「それはよかった。お腹が空いたでしょう、今から夕食にしますからね」
彼が合図をすると、動物たちが空を飛びながらカートを押し、料理を運んできた。オーウェンの前に皿が置かれた。皿に載っているのは、半透明な塊の中に切った野菜が閉じ込められたものだ。
「聖女さまの口に合うよう、下界の料理を参考にして作らせました」
「下界というのは、人間の住む普通の世界のことですか?」
「はい」
思わず尋ねたのは、見慣れない食べ物だったからだ。オーウェンの食べ慣れた食べ物と言えば、スープと硬いパン。それだけだ。牛乳と小麦粉が手に入ればスープがシチューになるし、卵があればもうちょっと食卓に彩りが出る。
だが、こんな半透明のものは見たことがない。作り方など想像もつかない。神官や聖女の食事として、こういうものを供した覚えすらない。本当に下界の料理なのだろうかと、オーウェンは疑った。
この料理の名前はゼリー寄せというのだと、のちに知ることになる。
「さあ、食べてください」
「わ、わかりました」
オーウェンは匙を手に取り、見慣れない食べ物をすくってみた。匙の上でぷるんと食べ物が震えた。勇気を出して、えいやっと口の中に含んでみた。
「ん……」
半透明なものは味がついており、中の一口大の野菜を美味しく食べることができた。思わず二口、三口と手が伸びる。
「おいしい」
ぽつりと呟きが漏れた。思わぬ美味に、緊張が解れていく。
それにしても、視線が気になる。オーウェンが食べている間、エルプクタンがじっと視線を注いでいるのだ。まるで食事風景に大事な情報が隠されていると言わんばかりに、つぶさに観察してくる。
「あの……エルプクタンさまは食べないんですか?」
彼の前には皿がない。自分だけ食べているから、見られているのが気になるのだと思って聞いてみた。
「聖女さまはオレと一緒に食事をしたいんですか?」
赤い瞳がこちらをじっと見つめたまま、まばたきをする。
「ええ、そりゃ。一人で食べたい人間はいないと思いますよ」
当たり前の質問に戸惑いを覚えながら答えた。
「なるほど、そういうものなんですね。では次の皿からは、そうしましょう」
「次の皿……?」
次の皿とはどういうことかと思っていると、動物たちがスープの入った皿を運んできた。食事はこれだけではなかったのだ。一体全部で何皿あるのだろう。
スープの皿は、オーウェンとエルプクタンの前にそれぞれ置かれた。
なんらかの野菜を擦って作られたらしきどろりとしたスープを、口に運んだ。
「わあ、これも美味しい」
旨味が口の中に広がる。
「なるほど、聖女さまはこういう味を美味しいと思うのですね」
エルプクタンもスープを飲んで呟いた。
同じ食べ物を食べていると、距離が縮まったように感じられた。惨劇を忘れたわけではないが、そんなに怖い人ではないのではないかと感じられてくる。
「あの、ところでなぜ僕のことを『聖女さま』と呼ぶんですか?」
親しみを覚えたオーウェンは、最初からずっと聞きたかったことを聞いてみた。
「聖女さまは尊い存在だからですよ」
彼は当たり前とばかりに微笑んだ。
「下界ではそうですけど、エルプクタンさまは神様じゃないですか。聖女よりも偉いんじゃないですか?」
「何を言うんですか。オレなんかよりも、聖女さまの方がずっと尊い存在です」
「え、そうなんですか……?」
まさか神そのものよりも、聖女の方が偉いなんてことがあり得るのか?
オーウェンは混乱してしまった。彼は嘘を言っているのではないだろうか。神の言葉を疑うのと、鵜吞みにして神よりも偉い存在を認めるのと、どちらの方がより不敬なのだろうか。
「ええと、神様に聖女さまなんて呼ばれて敬われるのはむず痒いので、オーウェンと名前で呼んでもらいたいんですが……」
神様にお願いをするなんて偉そうだなと思いながらも、聖女さまと呼ばれ続けるのも耐え難いので、勇気を出してお願いしてみた。
「オーウェンさまですね、わかりました」
「あの、さま付けもできればやめてもらえば……」
「オーウェン………………さん」
気だるげな、あるいは優しげな表情のまま従ってくれた。
呼び捨ては抵抗感があったのか、ぎこちなくさん付けされた。無理をさせてしまったかなと、むしろ申し訳なさを覚えた。
「あ、それで大丈夫です」
「わかりました、これからはオーウェンさんと呼びますね」
オーウェンが頷くと、彼の表情はにこりと嬉しそうなものになった。ドキリ、と心臓が跳ねた。
彼の控えめな笑顔を見ていると、不思議な気持ちになる。まるで、そう。遠慮がちな子供にお菓子をあげたときの笑顔を見たかのような気分だ。そんなに遠慮しなくていいのに。お菓子くらいもっとあげるのに。そう思ってしまう。彼のことなんて、何も知らないのに。何も知らないどころか、傍若無人に人々を殺すのを見ていたのに。こうして表情の一つ一つを見ていると受ける印象は、真逆のものだ。ずっと我慢してきて、ほしいものを主張することを知らない子供のよう。
「じゃあ、代わりにオレのお願いも聞いてもらいましょうかね」
「えっ」
彼がお願いをしてくるとは思わず、声が出た。
「もっと親しげな口調で喋ってくれませんか。オレの使い魔にしていたように」
「使い魔……?」
「ほら、言っていたでしょう。オレの目が宝石のようだとか。空の星よりも赤いとか」
兎に話しかけていた内容のことを言っているのだと気づき、オーウェンの顔は沸騰したかのように瞬時に赤くなった。
「え、な、な、なんで……? 動物さん、あ、聖獣……? に話しかけたことは全部聞こえているんですか?」
綺麗な人だとかなんとか言ったのが、全て聞こえていたなんて。穴があったら入りたい。
「聖獣全てではないですよ。兎はオレの使い魔なので、伝わってくるんです。ちなみに聖獣ではない下界の兎も全て、オレの使い魔、眷属というやつです」
先に言っておいてほしかった。よりにもよって、兎を選んで話しかけてしまったじゃないか。
「ああいう口調で、オレにも話してくれませんか?」
気遣いなのか、それとも言われ慣れているのか、綺麗だとかなんとか言っていたことには、彼は触れなかった。その代わりとんでもない頼みごとをしてくれた。
「無理です! 神様にタメ口を利くなんて、恐れ多いです!」
赤い顔のまま、必死に身振り手振りで拒否した。
「じゃあ、オーウェンさんと呼ぶのもやめます」
「そんなぁ……」
聖女さまと呼ばれ続けるのと、神様にタメ口を利かなければならないのと、どちらの方がよりマシなのだろう。
考えた末に、自分のお願いを聞いてもらったのだから、彼の頼みも聞き入れるべきかと結論付けた。
「じゃ、じゃあ、こういう風に話す……ね?」
兎に話しかけていたときの自分は、こういう風だったろうか。よく思い出せない。
「……ありがとうございます」
じっと堪能しているかのような間があった末に、聞こえた礼の言葉に、やはり遠慮がちな子供のようだと連想した。
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