第6話 天界の楽園
神の国というのは、雲でできているのだと思っていた。
祭祀場での惨劇を起こしたあと、オーウェンを横抱きにしたままのエルプクタンは、三対の翼を力強く羽ばたかせ、高く高く飛翔した。
地面が遠く離れていき、オーウェンは怯えてしがみついた。身体の震えが彼に伝わったのか、途中で彼がくすりと笑いを零すのが聞こえた。
だんだんと空気が冷たくなっていくのが感じられ、このままでは凍えることになるのではないかと思った瞬間、エルプクタンが一際力強く羽ばたいた。オーウェンは思わず、ぎゅっと固く目を閉じた。
「……聖女さま、着きましたよ」
「へ?」
身体に感じていた風圧や冷たさが、急にピタリとなくなった。
おそるおそる目を開けると、一面の花畑が広がっていた。
「わあ……」
純白の花が隙間なく咲き誇っている光景に、感嘆の溜息が零れた。なんて綺麗なのだろう。本当に神の国に来たのだと実感した。美しさと、そして神の国が雲でできているわけではないこととに衝撃を受けていた。
「聖女さまに気に入ってもらえたようで、なによりです。用意した甲斐がありました」
「は、はい、用意した……?」
まるで、オーウェンのために花畑を用意したかのように聞こえた。まさかそんなわけはない。
「ほら、あそこがオレたちの家ですよ」
相も変わらず片腕で力強くオーウェンを抱き上げたままのエルプクタンが、片手で指し示した。指先の方向には、お屋敷……神殿、いやお城かもしれない。ともかく大きな建造物があった。あれが神の家なのだと納得できる威容だった。花畑を突っ切るように、家までの細い道が続いている。
神の国に着いたのだからそろそろ地面に下ろしてもらえるのかなと思いきや、彼はオーウェンを抱き上げたまま道を進んでいく。
「あの……自分で歩けます」
おそるおそる主張した。
どうにも抱き上げられたままというのは、沽券にかかわる。そうでなくても、何をしでかすかわからない危険な神に密着していたくはない。
「こんなに震えているのに? それとも、地面が遠いから怖いんですか?」
エルプクタンはオーウェンに柔らかい微笑みを向けた。それこそ、小動物を見つめているかのような優しい視線だ。どうやら神にとっては、オーウェンの存在は子犬と大差ないようだ。
「はい、今下ろしますからね」
両脇を抱えられたオーウェンは、ゆっくりと地面に下ろされた。久しぶりに自分の足で、地面を踏みしめることができた。
「一緒に歩いていきましょう」
普通に歩こうと思ったのに、すかさず手を掴まれた。まるで親に手を引かれる幼子のように、手を繋いで彼の家まで向かうことになったのだった。
エルプクタンが近づくだけで、門戸が勝手に開いた。神の世界では、門に不思議な魔法がかかっているのだろうか。
門から正面玄関までの距離を歩くと、またもや勝手に玄関の重い扉が開いた。玄関にも魔法がかかっているのかと、中に入りながら扉を振り返った。
「えっ」
目に入ったものに、驚きの声を上げた。
なんと翼の生えた猫やら兎やら鳥やらが、紐を引いて扉を開けていたのだ。もしかして、先ほどの門も動物たちが引いていたのだろうか。門の方も確認してみようとしたが、扉が閉まったあとで見れなかった。
なんて可愛らしいのだろう。頬を緩めて不思議な小動物たちを眺めていたが、扉を開ける役目を終えると、すぐにどこかへと散っていってしまった。
「聖獣たちが気になりますか?」
「聖獣?」
「ああいう風に、神に仕える獣たちを聖獣と呼ぶんですよ」
子供に対するような柔らかい口調で、教えてくれた。
「あんなに小さいのに働いているなんて、偉いなあ」
顔を綻ばせると、横顔にじっとエルプクタンの視線が突き刺さるのを感じた。顔に汚れでもついていただろうかと、頬を手で拭ってみる。何もついていない。
「聖女さまのお部屋に案内しますよ」
「僕だけの部屋があるんですか」
「もちろんですよ」
伴侶ということで連れてこられたのだ、そりゃ個室の一つや二つは用意されているに決まっている。
けれどもオーウェンは驚いた。ここまで伴侶というより愛玩動物のような扱われている気がしていたので、そこら辺の床に寝ることになるのではないかと思っていた。
「この部屋ですよ」
廊下を進んだ先の扉の一つを、エルプクタンが開いた。
扉の先に広がっていた光景に、オーウェンは目を剥いた。
オーウェンは神殿でも、一応下男との相部屋を与えられていた。その相部屋の五、六倍は広さがあろうか。
壁も床も真っ白で染み一つなく、家具の一つ一つも全て真っ白だ。天蓋付きの寝台も、ティーテーブルや椅子も、箪笥や鏡台も。一つ残らず白なのを見て、エルプクタンはとても白が好きなのだなと考えた。
「本当に僕の部屋なんですか?」
間違えてエルプクタンの部屋に案内されたのではないのかと、室内に入ってみたオーウェンは彼を振り返った。
「いえ、ここで合っていますよ」
振り返ってみて、平素の彼はとろんと目が垂れていて、いかにも穏やかそうな青年に見えるなと感じた。そうではないことは、知っているのだが。
「ええと……僕にはもったいないくらい、素敵な部屋だと思います」
穏やかなそうな赤い瞳がなにかを期待するかのように輝いているように見えたので、オーウェンは感想を述べた。
次の瞬間彼から感じたのは、安堵だろうか。表情は変わらないが、身体から余計な力がふっと抜けたように感じた。
「お部屋も聖女さまに気に入ってもらえてよかったです。では、この部屋でお休みになっていてください。今、聖獣たちにお風呂を用意させていますので」
「お風呂?」
オーウェンはきょとんとした。聖獣たちに風呂を用意させて、誰がどうするというのか。
「聖女さま、お風呂というのはですね。湯舟にお湯を張ったもので、身体が清潔になるし入ると気持ちがよいものなのですよ。聖女さまにくつろいでもらいたくて」
風呂という概念を知らないと思われたらしく、説明されてしまった。
彼の口ぶりからすると、自分が風呂に入るようだ。くつろいでもらいたいだなんて、こんなに丁寧に扱われるのは生涯で初めてだ。聖女だと発覚したときですら、こんな歓待は受けなかった。
「どうしてそんなによくしてくれるんです?」
戸惑いが疑問となって、口から出た。
「どうしてなんて、そんなの聖女さまはオレの伴侶だからですよ」
伴侶。そう、伴侶らしいのだ。
神様で、しかも人を軽率に何人も殺してしまうようなとんでもない神様が、なぜか自分を伴侶に選んだ。
一つの要素として、理解はできそうにない。だから自分がこんな風に歓迎される理由もまた、理解の埒外なのだった。
「ほら、休んでいてください。寝台で寝ても大丈夫ですからね」
オーウェンを部屋に残し、エルプクタンは去った。
一人になったオーウェンは、そっと室内を見回した。王族のためみたいな寝台も、ふかふかしていそうな長椅子も、全て自分が触れていいもののようには思われなかった。
床にまで信じられないくらい柔らかい絨毯が敷かれていて、もうここでいいやと床に腰を下ろした。長毛のラグがふわりと、四十路のおっさんの尻を受け止めた。
こんなにも上等なもの触れたのは初めてだ。絨毯のくせに、故郷や神殿の藁の寝台よりもずっと柔らかい。
見知らぬ場所で眠れるわけなどないと思っていたのに、上質すぎる絨毯が眠気を誘った。
オーウェンはいつしか、眠りに落ちたのだった。
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