第5話 祭祀場の惨劇

「子犬のように震えて、可愛らしいですね」

 差し出された手を取ることなんてとてもできないでいると、エルプクタンの方から身体に触れてきた。中肉中背のオーウェンの身体を、彼はまるで羽根のように軽々と片手で抱き上げてしまったではないか。

 抱き上げただけでなく、エルプクタンの身体そのものが床を離れて浮いている。

「ひい!」

 オーウェンは恐怖から、思わずエルプクタンの胸元に縋りついてしまった。

 それからはっとして、衣服を掴んだりして機嫌を損ねたのではないかと、おそるおそる彼の顔を見上げる。

「うん?」

 壁画に描かれているよりもさらに美しい顔が、目を細めて微笑みを形作っていた。

 あまりにも顔が近いことに気づき、オーウェンの顔は瞬時に熱くなった。きっと耳まで赤くなっている。心臓の鼓動もうるさい。

 どうやら自分は本当に男が好きなようだと、こんな時に性癖の自覚をしてしまった。

 長く白い指が、オーウェンの頬に伸びる。エルプクタンの手が、丁寧に肌に触れていく。まさかこの場で口づけかなにか行うつもりなのか。大胆な行いを連想して、顔から火が出るかと思った。

 けれども、そうではなかった。

「可哀想に」

 先ほど殴られた箇所を、刺激しないようにか、エルプクタンは指先だけでそっと触れた。優しい手つきだった。どうやら見てわかるほどの痕が残っているらしい。腫れているような感覚を感じる。

 祭祀場のどこかから小さな悲鳴が響いた。見ると、オーウェンを殴りつけた神官が青褪めていた。

「オレの聖女を殴ったのは、お前か」

 気だるげな口調だったが、きっと怒りが籠っているのだろうと思った。青褪めた神官もそう感じたのか、傍目から見て取れるほど震えている。

「し、しかしながら、その男……聖女さまは、ぬ、盗人で、ございまして」

 神官は口を開いてしまった。神官の口から出た言葉を聞いて、この男は決定的な失態を犯してしまったと、この場の誰もが感じた。

 雷鳴が轟き、雷光が閃いた。

 思わず瞑った目を開くと、先ほどまで神官がいた場所に、一つの人型の黒い炭が生まれていた。

「……は?」

 神官は、雷で焼かれて死んでしまったのだ。完全に炭と化しているのか、人が焼け死んだというのに炭の匂いしかしなかった。

 祭祀場が悲鳴に包まれた。

 恐怖からか、弾かれたように何人かの神官が、走り出す。

「お前と、お前と、お前は、オレの聖女に触れ、あろうことか縛り上げたな」

 幾度も奔る雷鳴と雷光。

 逃げ出そうとした神官は、全て炭になってしまった。

 止める間もなく始まってしまった惨劇に、エルプクタンの腕の中でオーウェンは真っ青になって震えていた。

「聖女さまの罪は、不問といたします!」

 頭を垂れたまま神官長が叫んだ。

「主の伴侶たる聖女さまの罪を問うたことは、間違いでございました! 天羽の冠でもなんでも好きに、いえむしろ献上させていただきたい次第でございます!」

 神官長の額を大量の汗が伝っている。一世一代の勇気を振り絞った、渾身の叫びだ。

 神官長の叫びを聞いて、エルプクタンはすっと指を動かした。

 轟く雷鳴、雷光。

 神官長は黒焦げになった。

「そもそもが間違っている。オレの聖女は盗みなどしていない」

 オーウェンを有罪と決めつけたことが、勘気に触れたようだった。

 エルプクタンの勘気に触れることなく、祭祀場から逃げおおせた神官も数人いる。オーウェンを捕縛した際もかたわらで見ていただけの、ほとんど少年のような若い神官たちだ。

 そうして祭祀場に最後に残ったのは、エルプクタンと、それに抱き上げられているオーウェンと、頭を垂れたまま震えている金髪の聖女だけとなった。

「お、お姿をお見かけしただけで、盗んだなどと、ひ、ひどい早とちりを証言してしまい、死を賜っても仕様がないと思っております。申し訳ございません、オーウェンさま。心から悔いております」

 彼女は涙ながらに反省の言葉を口にした。

「エルプクタンさま、どうか彼女は見逃してさしあげてください! ご覧の通り、反省しています」

 彼女を救えるとしたら自分しかいないと、オーウェンは横抱きにされた状態のまま言葉を尽くした。

 エルプクタンはオーウェンに視線を向けた。銀の睫毛に縁どられた紅い双玉が、血濡れたように光った。

「聖女さま。それはこの女の本性を知らないから、そんな風に思えるのです」

「本性……?」

 彼の言葉に、金髪の聖女の震えが酷くなった。顔色など蒼白になっている。

「髪飾りを盗んだのは貴様だ、女。神の目を誤魔化せると思ったか」

 エルプクタンは言い放った。

 金髪の聖女は何も答えられない。沈黙が雄弁に真実を物語っていた。

「この女は最初から、オレの聖女が下手人ではないとわかっていた。濡れ衣を着せたのだ。それを黙っているなど、欠片も反省していない証左ではないか。一番の大罪人だ」

「あ、ああ……ああ!」

 彼女は言葉にならない叫びを上げると、ほとんどもんどりを打つようにして、無様に逃げ出そうとした。

 エルプクタンは指先で彼女に狙いをつける。一瞬あとには、女の形の黒炭ができあがっていた。

 もう誰も残っていない。

「殺すことはなかったのに」

 救えなかったと、オーウェンは後悔の涙を流した。オーウェンの涙を目にして、エルプクタンは不思議そうに首を傾げた。

「聖女さま、理解していないんですか? あの女は聖女さまを陥れたのです。そのせいで聖女さまは拷問を受け、殺されるところでした。あの女は聖女さまを殺そうとしたのです。どうしてあの女のために悲しむのです? 聖女さまを害す者は滅されて当然です」

 元気づけようとしているのかなんなのかわからないが、彼はにこりと笑顔を浮かべた。

「そうだ、なんならこの神殿全部を焼き払ってしまいましょう。それがいい。聖女さまを虐げて殺そうとする神殿なんか、いりませんよね」

 彼の思い付きに、オーウェンはぶわりと全身から冷や汗が浮かぶのを感じた。

「だ、駄目です! 神殿には無関係の人も大勢います! 特に下働きの人たちは普段から僕を助けてくれて、親切で、優しい人ばかりで……!」

 目の前で行われた惨劇を思えば、自分の言葉なんかで彼が止まるはずはないが、それでも訴えずにはいられなかった。

「あー……そういえばそうでしたね。わかりました、やめておきます」

 だが意外にも、エルプクタンは理解を示してくれた。オーウェンはほっと胸を撫で下ろした。

「それでは聖女さま、行きましょうか」

「どこに……?」

「聖女さま、夫婦は共に住むものなんですよ」

 オーウェンを横抱きにしたまま浮いている彼は、さらりと答えた。

 目の前で繰り広げられた惨劇にすっかり忘れていたが、エルプクタンはオーウェンを嫁にするなどととんでもないことを言い出していたのだった。

「あの……つかぬことをお聞きしますが、神様というのはどこにお住まいなのですか?」

 彼は、人差し指で空を示した。

「神の国、天界です」

 どうしてこうなってしまったのだろう。オーウェンは改めて思った。

 ただ故郷で畑を耕していたいだけなのに、どんどん遠ざかり、遂には故郷と地続きではない場所で、軽々と人を殺すとんでもない神の伴侶として暮らすことになってしまった。

 これから自分はどうなるのか。否が応でも不安が胸の内で膨らんだ。

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