スーサイド・ジェリーフィッシュ

雨野水月

スーサイド・ジェリーフィッシュ

 灰色の雲が、まるで地上からの出口を塞ぐかのように、空を厚く覆っていた。

 六月の曇天の中、渋谷の片隅に、寂れた外観の雑居ビルがぽつりと立っている。更にその3階に居を構えているのが、仁科哲雄にしなてつおが仕事場とする探偵事務所であった。

 年季の入った応接室で、仁科は今回の依頼者の話を聞いていた。

「娘さんが自殺した理由が知りたい……と」

 仁科の目の前には、依頼者である女性が深刻な顔でソファに座っている。

「……はい。やっぱり、分からないんです。どうして私の娘は死ななければならなかったのでしょうか。確かに最近はよくケンカしていたけど、昔は本当に良い子だったのに……」

 山口夏帆やまぐちかほと名乗った依頼者の女性は、細く、掠れた声で話していた。年齢は、仁科と同じく40代半ばといったところか。肩ほどまでの長さの髪には、ところどころ白髪が混じって見える。目尻には少しの涙が浮かび始めていた。

 仁科は、女性の気分を落ち着かせようと冷静に紅茶を促しながら、今回の依頼内容を脳内で嚙み砕いていた。

 自殺したのは、山口真希やまぐちまき。16歳、女性。渋谷某所ビルの屋上から飛び降りた。都内の高校に通っていたが、現在は登校拒否中。半分家出状態で、最近は夜な夜な渋谷や新宿の街に繰り出しては帰ってこない日もあったという。

 仁科が無言で待っていると、やや落ち着きを取り戻した山口が恐る恐るといった様子で質問を投げかけてきた。

「それであの……探偵さん、実際わかるんでしょうか? 真希が自殺した理由は……」

「ええ、安心してください。今回のようなケースなら、理由が全く掴めないなんてことはないと思いますよ」

 自殺の原因調査は、探偵の仕事としてはさほど珍しくはない部類のものだ。概ね、死亡者に関係する人物に聞き込みを行い、情報を集めていくことになる。

 二十年近くのキャリアのなかで、仁科自身もこの手の依頼は何回か経験していた。いずれの案件でも、確度の高い理由を聞き出すことができていた。

 しかし仁科は、はっきりとした理由はわからないが、今回の依頼にどこか得体の知れない不安を感じていた。不安というよりは、嫌な予感といった方が正しいのかもしれない。

 それはこの渋谷という街で、「自殺」について深入りすることに対する不吉な実感であった。

「ただ、昨今の渋谷は色々ときな臭いですからね……想定よりも調査に時間がかかってしまうかもしれないことに関しては、予めご承知おきください」

 仁科は、できる限り声色から不安を悟られないように、抑揚を大げさにつけたビジネス用の口調で念を押した。


 ここ数ヶ月、渋谷の街で自殺者が急増しているという、妙なニュースが連日報道されていた。10〜20代の若者を中心に、犠牲者の総数は数百人にも昇る。死因は飛び降り・首吊りなどが多数を占めている。

 多くの評論家が、この異常事態について様々な背景を論じてきた。不景気による経済的な苦境が自殺を招いているという説から、犯罪組織に加担してしまった若者が追い詰められて自殺を選んでいるというもの、果ては自殺者の増加が地球の終わりを招くシグナルであるというトンデモ陰謀論まで、様々な憶測が日本中を飛び交っていた。しかし、それほど多くの注目を集めている事象にも関わらず、根本的な原因そのものをずばり看破してみせる者は現れていない。

 高層ビルの煌びやかなネオンとは対照的に、街には陰鬱な空気が霧のように立ち込めていることを、仁科は肌で感じ取っていた。

 だからこそ、今回の依頼は慎重に進めなくてはならない。

 仁科はばれないように顔を引き締め、依頼人との事務手続きを進めていった。

「それでは、本日から本格的に調査を始めていきます。何卒よろしくお願いいたします。」

 最後の説明を終えると、二人はお互いに一息ついて、ソファから立ち上がった。窓の外ではもう日が落ちてきている。かなりの時間喋り続けていたことを脳が認識して、どっと疲れが湧いてきた。

 山口が、理性で抑えつけていた思いが溢れ出てきてしまったのか、帰り支度を進めながら突然ぽつぽつと語りだした。

「私の夫は、真希が生まれてすぐに病気で亡くなりました。真希は、たった一人の家族だったんです。もう半年くらい前から碌に口もきいてくれなかったけど、一人で死ぬことを選ぶような、そんな子じゃなかったはずなんです……」

「──ええ、心中お察しします」

 仁科は神妙な面持ちを作り共感した。このような感傷的な場面には仕事柄慣れている。山口は辛い表情のまま、事務所を後にしていった。


 玄関から応接室に戻ると、寂れた事務所はいつにもまして静かに感じられた。

 仁科は少し休憩しようと、仕事場に備え付けられたテレビの電源を点け、なんとなくニュース番組でチャンネルを止めた。ちょうど、経済評論家というテロップを貼られた男が、渋谷での自殺者増加の件について持論を展開していた。

「自殺者が増えているのはねえ、若者の経済的な苦境のせいなんですよ! こんな社会じゃ、誰も未来に希望なんて持てやしない! 政府は今すぐにでも経済政策を転換するべきです!」

 その意見を受けた別のコメンテーターが反論を返し、またそれに反論が繰り返される。なんだか議論が白熱しているようだった。

 未来への希望。未来ある若者。未来のための政策。

 みんなが語る「未来」という概念。

 仁科は、「未来」がわからなかった。未来を語る人の目は、それがどんなに悲観的なビジョンであったとしても、どこか輝いているように見える。しかし、仁科が想像してみる「未来」では、その曖昧な輪郭が形を結ぶことはなく、ただ漠然と、もやがかかったような光景が見えるだけであった。何の感慨も得られなかった。

 そんなことよりも、今目の前にある仕事について考えないといけない。

 先ほどの依頼について考えを巡らせていると、気づけばニュース番組は違う話題に切り替わっていた。

 どこかの海で、クラゲが大量発生しているというニュースだった。どうやら、地球温暖化の影響で、漁業に深刻な影響を及ぼしているらしい。

 評論家は、何十年も前から対策を怠ってきた過去の我々に責任があると語っていた。未来のために、過去の責任を問うていた。

 

 過去のことも未来のことも、考えたくもなかった。思い出すことも、計画することも、すべてが鬱陶しく感じる。ただただ、目の前の仕事のことだけ考えていたい。


 ──いつから自分は、こうなってしまったんだろうか。

 おそらく仁科はその答えを知っていた。

 仁科はテレビの電源を切った。

 こんなことに時間を割いている暇はない。仕事をしなければならない。依頼を受けた以上は、結果を出すよう全力を尽くさねばならない。

 まずはどんなものでもいいから、山口真希という人物の情報を集めよう。

 頭を仕事モードに切り替えた仁科は、とりあえず調査を始めるべく、渋谷の中心街へと向かっていった。 



 山口真希のプロフィールから交友関係として想定されるのは、やはり10〜20代の若者が中心だろう。仁科は、真希の母親から渡された顔写真を手に、渋谷を歩く若者に手あたり次第話しかけていった。

「山口真希?? いや、知らないですね……」

「すんません、全然知らないっすね」

「あんた誰? 探偵? いや、全然知らないけど、もう行っていい?」

 探偵を名乗る謎の中年男に時には訝しげな目を向けられながらも、仁科は調査を粛々と進めた。

 とはいえ、探偵業の現実は厳しい。ざっと数十人程度には話しかけたが、目ぼしい成果は「顔は見たことある」レベルの人間が数人いた程度であった。

 時刻は既に23時を回っていた。街は酔っ払いを中心とした雑踏に溢れ返り、連日報道される陰惨なニュースが嘘のようだった。皆が、楽しそうに浮かれた顔で歩いている。しかし仁科は、本当に全員が心の底からこの現実を楽しんでいるとは、到底信じられなかった。今日もまたこの街で、この楽しそうな酔っ払い達の中から、自殺者が出るのかもしれないな、などと思った。

 今日はそろそろ潮時かもしれない。六月のじめじめとした暑さで、体力もかなり消耗している。仁科は自らの老いを実感しつつ、事務所へ帰る道を歩き始めた。


「おじさん、何してるの?」

 ふいに、後ろから何者かに呼びかけられた。その声は、いつまでも喧騒が止まないこの街の中にもかかわらず、はっきりと聞こえてきた。

 明らかに、少年の声であった。不安定に高く、声変わりをしていない少年の声。

「さっきから見てたけど、色んな人に写真の女の人のことを聞いてるよね?」

 仁科は思わず振り返った。

 見ると、立っていたのは背の低い男の子だった。大きくて丸い目をしていて、やけに童顔だ。中学生くらいだろうか。夏らしい青いTシャツに、ショートパンツを履いていた。

 そして何より際立っていたのが、クラゲのように透き通った、美しい銀髪だった。いわゆるボブと呼ばれるくらいの、男子にしてはかなりの長さの髪を赤いヘアピンで留めていた。

 はっきり言って、あまりにも目立つ外見だった。中学生くらいの幼い見た目も含め、夜の渋谷にはどう考えてもそぐわない。仁科は強烈な違和感を隠して、あくまでも温和に答えた。

「ああ、ちょっと知りたいことがあってね……関係ありそうな人に話を聞いて回ってるんだ」

「へえ~、なんでそんなことしてるの? 不審者?」

 一瞬、ややこしい事情は隠そうかとも思ったが、不審者扱いされて厄介なことになったら困るという判断が勝る。何より、この少年の方がよほど怪しい。

「おじさんはね、探偵をしてるんだよ」

「探偵!? かっこいいね!」

「どうかな……アニメとかと違って、実際の仕事は地味なもんだよ」

「いやいや、かっこいいよ!」

 少年は嬉しそうに笑うと、予想外の一言を口にした。

「探偵かあ……ねえおじさん、僕も一緒についていってもいいかな?」

 仁科は驚いた。どうしたものかと思わず考え込んでしまった。

 常識的に考えて、中学生の子供を夜の11時に連れ歩いていいはずがない。そもそも、こんな少年が何故こんな時間に渋谷を歩いているのか。どう考えても訳アリとしか思えない。純朴そうな見た目の少年だが、やはり思春期特有の事情の一つ二つくらいあるのだろうか。髪を銀に染めていると思われるのも、何かしらの悩みの発露なのかもしれないなどと考えた。

 仁科は悩んだが、中年としての親切心が辛くも勝った。終わるつもりだった調査を、もう少しだけ続ける決断をした。

「──ああ、わかったよ。それじゃ、一緒に聞き込みしてみよう」

「やった! おじさんありがと!」

 少年の口角が美しく弧を描き、仁科は思わず見惚れそうになった。

「ゴホン。そういえば少年、名前はなんていうんだ?」

「名前? サク。サクっていう名前」

「サク、ね。よろしくな」

 サク。なぜ苗字を言わないのか気にかかったが、あえて聞かないことにした。

 こうして、中年おじさん探偵と謎の銀髪美少年との、バディ調査が始まったのだった。


「こっちの路地裏に行ってみたらどうかな?」

「あのアロハシャツ着てる陽気そうなおじさんとか、なんか事情知ってそうじゃない?」

 始まったはいいものの、思いのほかサクは調査に意見を挟んできた。実際に対象と話し込んでいるときは大人しく仁科の陰に隠れているが、二人になった途端に饒舌になる。

「なるほどなあ、いやあ、あのおじさんは流石に関係ないんじゃないかなあ……」

 邪険にはしなかったが、仁科は正直あまり良い気はしていなかった。20年近く探偵で食ってきて、それなりにノウハウも持っているつもりだ。プロである自分が、いっぱしの少年に指示されるままに動くというのは、プライド的に許したくない気持ちが強かった。

 ただ、仁科一人での調査が行き詰まっていたことも事実だった。まだこれといった成果が出ていない中、趣向を変えて、サクが話を聞きたがっている人間に聞き込みをしてもいいかもしれない。

 仁科は深呼吸した。もともとこんなよくわからない状況で、探偵としてのプライドなんて気にしていてもしょうがないのかもしれない。ダメでもとより、やってみるしかない。

「おじさん、どうしたの? はやく次の人に聞き込みしようよ!」

「──いや、なんでもないよ。よし、次からはサクが聞きたいと思った人に話を聞いていこうか。正直調査も行き詰ってる感があってね」

「ほんと!? 嬉しい! そしたら、あの通りを歩いているおじさんに聞きに行こう!」

 サクは遠くを歩いている怖めのおじさんを指さすと、すごい速さで歩いて行ってしまった。子供が走るスピードは思ったより早く、ついていくのもやっとである。実際に話しかける段になると仁科の背中に半身引っ込んでしまうので、聞き込み自体は仁科が行った。

「あの、すみません。わたくし探偵をやっております仁科哲雄と申します。現在この女の子の情報を探しておりまして──」

「ああ、その女の子ならバーでよく一緒に飲んでたぜ」

「え!? 本当ですか!?」

「は? 何をそんな驚いてんだ。お前から聞いてきたんだろ」

「あ、いや、すみません、はは……」

 なんと、一撃で引き当ててしまった。

 仁科は慌てつつ、真希についての話をできる限り聞き出した。どうやら真希は未成年でありながら身分を隠してとあるバーに潜り込んでいたらしく、その店内でこの男とよく喋っていたようだ。

 なんという僥倖だろうか。仁科はこんな自分にもツキが回ってくることがあるんだなと思った。

 

 しかし、どうやらそれはただの幸運ではなかったようだった。

 その後もサクに従っていると、これまでの空振りが嘘かのように情報が次々と集まってきた。

 サクが行きたいといった場所には必ず何らかの関係者がいたし、サクが話したいと言った人は必ず何かの情報を持っていた。まるで神通力だった。

「順調だね、おじさん!」

「ああ。この調子だと、この依頼は明日にでも終わっちまいそうだな、はは……」

 二人で公園のベンチに座って話していると、嬉しいやら悲しいやら、自分だけで歩き回った数時間は完全に徒労だったなと実感し、仁科は苦笑いした。サクはなぜか楽しいのか、ベンチに座って体を左右にゆらゆらと揺らしている。

 山口真希の件も、大筋は整理された。

 直接的な死因を上げるなら、常習的に渋谷に入り浸っていた山口真希は「悪い連中」とつるむようになり、市販薬のオーバードーズなどを繰り返した結果精神を不安定にした、といったところだろうか。自殺する直前にはどうやら売春を斡旋する違法なビジネスにも巻き込まれていたようだ。最終的には、まだ通行人も少ない明け方に、ホストクラブが数多く入居するビルから飛び降りたらしい。

 話を聞いた人間は、皆が口を揃えて同じようなことを言っていた。

「まあ……考えなしだよね笑。若気の至りってやつ?笑」

「10代の女なんて、まあちょっと不安定なところあるからねぇ~」

「この辺うろついてる女なんて、みんな知能の低いやつばっかでしょwそりゃそうなるわw」

 まるで、至極順当に、死んでもおかしくない人が死んでいったかのような酷い言い草だった。若い女は、自分とは違う生き物であって、後先のことも考えずに刹那的な衝動で自殺にまで走ってしまうような存在だと。

 仁科は、本当にそうだろうかと思った。若い女も若い男もいったい自分と何が違うのだろうか。山口真希は、そして同じように渋谷で死んでいった者たちは、理解できない存在だから命を絶ったのだろうか。

 仁科には、真希が死んだ理由がなんとなくわかる気がした。真希にも、「未来」が見えていなかったのかもしれない。そんなことを思った。


 そして、山口真希の件が解決に向かうと同時に、仁科はある感情を覚え始めていた。それはもはや、無視することはできない大きさにまで膨れ上がっていた。

「よかったね、おじさん!」

 隣で、サクがニコニコと笑っている。月のように綺麗な笑顔だった。

 仁科は、このサクという少年を恐れ始めている。

 なぜ彼の推測はすべて当たるのか?事件について既に何かを知っているのか?それとも、もしやサク自身が事件に関与しているのか……?挙げだせばキリがないほど、怪しい点はたくさんあった。

 そして、怪しいどころではなく、もはや「異常」と言えることもあった。

 今日聞き込みをしたすべての人間が、この童顔の中学生にしか見えない少年のことを、一切気にも留めずに去っていくのである。誰一人として、サクの方を見向きもしないのだ。

 普通は、こんな夜に子供が歩いていたら何かおかしさを感じるものではないのか?場合によっては警察を呼ばれたりするものではないのか?まさか、自分にしかこの少年のことが見えていないのか……?

 このサクと名乗る少年は、いったい何者なのか?

 じわりじわりと、得体のしれない黒いものが、形を持たない恐怖が、腹の底からせり上がってきているように感じた。 

 サクが、話しかけてくる。

「いやあ、探偵って楽しいね、おじさん!」

「──ああ。サクにはほんと助かったよ。手伝ってくれてありがとう」

 サクは笑った。相変わらず身体がゆらゆらと揺れていた。


「僕さ、おじさんと一緒に行ってみたいところがあるんだけど、行ってみない?」


 流れるように繰り出されたその提案に、思わず仁科は黙り込んだ。

 仁科は、この少年の言うことをこのまま聞き続けていいものか掴みかねていた。何か、おかしな存在であることは間違いない。どう考えても普通じゃない。

 とはいえ、ここまで調査に貢献してもらった手前、話も聞かずに突然切って捨てるのは少々気が引けた。場合によっては報酬をあげなくてはならないとも思っていた。

  そして、恐怖と同時に、仁科は少しだけ浮足立ってもいたのだった。一体全体、何が起きているのかさっぱりわからない。現実離れしたこの不思議な状況で、この少年についていけばものすごいものが見られるのではないか、という予感がしていた。

 それは例えば、仁科には見ることができない、「未来」のこと──

 そんな破滅的な思いが頭をよぎった結果、仁科は首を縦に振ったのだった。

「ああ、いいよ。一緒に行ってみよう」

「うん! ありがとう、おじさん!」

 サクは、この世のあらゆるしがらみと無縁であるかのような、軽やかな笑みを浮かべて言った。


「ふふ、きっとおじさんにも、面白いものが見れると思うよ♪」



 サクは楽しそうに、よく知らない道を流れるように歩いていった。気付かないうちに、大粒の雨が降り出していた。

「ほら、こっちこっち! 雨降ってるし早く行こ!」

「ちょ、ちょっと速い……」

 仁科はサクについていくのに必死だった。湿気と気温の相乗効果で、すぐに汗だくになっていた。

「それにしても、こんなところに道なんてあったか……?」

 サクがそこら中の裏路地を抜けていくので、仁科は今自分が渋谷のどのあたりを歩いているのか分からなくなっていた。渋谷で20年近く事務所を構える仁科だったが、こうして見覚えのない道を歩くのは久しぶりだった。

 しばらくそうして歩いていると、そこそこの大きさのビルに辿り着いた。コンクリートが剥き出しになったいかにも古そうな感じのビルで、人の気配はなく、怪しげな雰囲気が漂っている。

「ほら、おじさん! 屋上に行こう!」

 サクはビルの中に入り、するすると階段を登っていってしまった。仁科はへとへとになりながらもそれについていった。10階程度だろうか、かなりの階数を登って、最上階にたどり着いた。

 最上階には、屋上へと続く扉があった。既にサクが行ってしまったのか、扉は開け放たれていた。仁科は、なにか嫌な予感を感じ取った。これ以上進んだらまずい気がする。最初に渋谷で自殺調査をすると決まった時に感じたような、不吉な第六感だった。

 だが、今さら引き返す選択肢も仁科の中にはなかった。明らかにおかしいとわかっていながら、サクにこうしてついてきた時点で、仁科の心は決まっていた。

 仁科は、屋上へと足を踏み入れた。


 そして、仁科は信じられない光景を目にした。


 無数のクラゲが、雨が降る夜空を自由に飛び回っていた。ほど近くに、渋谷の中心であるスクランブル交差点が見える。ビル群が放つネオンの煌々とした光が、クラゲたちの傘と雨水を通して過剰に乱反射していた。オーロラのような、七色の光があらゆる地点から降り注ぎ、屋上全体が映画のスクリーンかのようにきらきらと輝いていた。

 足がすくむほど、蠱惑的な光景だった。

「なんだ、これ……!? 一体なんなんだ…!?」

 呆然と立っていると、仁科は屋上の手すりの側で立っている少女の姿を見つけた。

 途端、仁科の胸に激しく動悸が走り出す。


 あり得ない。


 そこに絶対にいるはずのない顔に、仁科は驚きを隠せなかった。

 そんなはずはない。

 そこにいる少女は……仁科哲雄の娘は、既に死んでいるのだ。

 三年前、自ら命を絶って──


 仁科は激しく動揺していた。

 何かがやばい。絶対におかしい。

 今すぐに逃げないと……!

 そう思って仁科が踵を返そうとした瞬間であった。


 仁科の娘が、ビルから飛び降りた。

 一瞬だけ、ふわりと宙に浮かんだように見えた。


 仁科の体は、完全に硬直してしまった。

 やがて、膝から崩れ落ちた。

 サクが、隣で恍惚とした表情を浮かべて笑っていた。

「な、なんなんだよ、これ……」

 クラゲが自分の周りをぷかぷかと浮かんでいる。死んだはずの娘がビルの屋上から飛び降りていった。サクは不気味に笑っている。

 まったく訳が分からない。仁科はこの状況にだんだんと怒りが湧いてきて、サクの肩を激しく掴み、詰め寄った。

「おい……! どういうことだこれは……! 何が起きてるんだよ……!」

 サクは言った。

「僕はね、この街のクラゲなんだよ」

 相も変わらず恍惚とした表情で。いやに煽情的な目と、紅潮した頬で。

「どうして僕は生まれたんだろう。きっとこの街の、この世界の絶望が、僕を生み出したんだ。街が生んだクラゲの亡霊、もしくは街自体、と言ってもいいかもしれないね」

「は……? クラゲ……?」

「僕にはね、【本当】の世界が見えているんだ。普通の人は見ることができない、クラゲがたくさん泳いでいる世界」

「【本当】……? 【本当】の世界って、なんなんだよそれは……!?」

「この世界を見ると、みんな飛び降りたくなっちゃうみたいだね。このビルの下の、広ーい海に向かってね。山口真希も、おじさんの娘さんも、みんなそうだった」

 サクが、どこか遠くを見つめながら語る。

 仁科には、サクの言っていることの意味がほとんど理解できなかった。にも関わらず、これからサクが何を話そうとしているのか、なんとなくわかってしまう気がした。

 それは、仁科もずっと薄々気付いていたが、ずっと目を背けていたこと。日々目の前の仕事のことだけを考えることで、見ないふりをし続けていたこと。

 仁科の──「未来」に関すること。


「【本当】の世界っていうのが何なのか、気になるよね?」

「それはね、今ここ、まさにこの瞬間のことだよ。過去でも未来でもない、現在いま。それが、普通の人には見えていないんだ」

「みんな、未来か過去を見てる。希望と悲観に満ちた目で未来を見て、郷愁と憐憫を湛えた目で過去を見ているんだ。それしか見えてないんだよ」

「でもね、おじさんみたいな人は──縋るべき記憶もない、生きがいになってくれる夢もない、未来にも過去にも、自分には信じられるものが何もないって気づいちゃった人は」

現在いましか見えなくなる。未来もキャリアも過去も思い出も、なーんにも見えないし、感じられなくなるんだよ。そして──」

現在いまって場所は狂ってる。みんなが見えていないだけで、本当に狂っている。毎日どこかで人が死に、悲しみ泣き叫ぶ人たちは軽んじられ、悪人が堂々と大通りを闊歩している──こんな狂った場所で、正気のままいられる人なんていないんだ」

「ある意味、普通の人たちは自分が正気でいるために、現在を見ないことを無意識に選んでいるのかもしれないね」

「で、逆に現在いまを避けることができなかった、おじさんみたいに正気を失い狂ってしまった人たちは──意思もなくただ現在いまを漂うことしかできないようになって、そのうち海の中でゆっくりと溶けて死んでいくんだよ」

「──そう、まさにクラゲみたいにね」


 サクは、仁科に優しく語りかけるように言った。


「ねえ、死のうよ、おじさん」


 仁科は、ビルの屋上から下を見た。

 雨の中、傘を持ったたくさんの人々が渋谷の街を歩いている。皆が思い思いの動きで、蠢いて、揺らいでいる。

 上から見ると、傘を持った人の群れは、大量のクラゲが海を漂っているようにも見えた。

 仁科はあの中に入ってみたいと思った。真っ黒な海で、ゆらゆらと漂って、そのままこの渋谷という街に溶けていきたいと思った。溶けて、消えていって、この重苦しい身体から解放されたいと思った。

 それは、どんなに寛大で、気持ちいい行為だろうか。


 仁科は笑った。簡単なことだったのだ。

 自分は、正気ではなかったのだ。そしてそのことを、うっすらと自覚してしまっていたのだ。

 あの日、娘を失った日から。すべての過去と未来を奪われた日から。


「やってらんねえな、こんな世の中」

 仁科は、眼下に広がる無限のように深い海へと、高らかに飛び込んでいった。


「ふ、ふふ」

「ふふふ、ふははははは!」

「ね、僕と一緒にいて、悪くなかったでしょ、おじさん! これでおじさんも、この苦しい現実から解放されるんだ! ははははは!」

 サクが遠く呼びかける声は、もう仁科には届かない。

 

 仁科が落ちていったあたりから、甲高い悲鳴が上がった。

 やがて、けたたましいサイレンの音とともに、救急車が現れ、去っていった。


 特に何事もなかったかのように、渋谷の街は、変わらない喧騒を演じ続けていた。

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