穂乃果の瞳
長井景維子
5分で読めます。
(茶柱、立ってる〜!)
スーパーのレジ打ちのアルバイトを終えて、家に帰り、お茶を一杯。今日も疲れた。茶柱が立っているのを見つけて、ほっと一息ついた。年老いた母が淹れてくれるお茶に茶柱が立つことは多い。
そうそう、今日はスーパーの仕事ついでに、桜餅を買ってきた。穂乃果はエコバッグから桜餅を取り出して、母に手渡す。母は小皿に桜餅を装って、父にもお茶と一緒にお盆に乗せて持って行く。
穂乃果は、15歳の時に右目を失明した。網膜剥離を患ったのだが、医者に診せるのが遅れて、手遅れとなり、手術も間に合わず、失明したのだった。左目は普通の視力がある。高校一年生だったが、失明のショックで学校に行けなくなった。
ほぼ一年間、家でぶらぶらしていた。心療内科に通って、薬を飲んでいた。何度も死にたいと思った。医者は、しばらく入院することを勧めてくれた。入院といっても、どこが悪いって、心の病だと言う。目が悪くて入院するわけではないのだから、甘ったれてる場合じゃないと、目が覚めた。
穂乃果は心療内科の医師に、もう診察はいらない、と言ったが、医師は、穂乃果は心の病だから学校に行けないんだ、学校に行かない以上は、この診察をやめるわけにはいかないという。穂乃果は、それはちょっと屁理屈だなぁ、と思った。どっちが優先順位高いんだ?学校に行くことは、診察をやめる言い訳ではないはずだ。
そんな思いで、診療内科に通いながら、医師と相談して、盲学校に行くというオプションを考えてみることにした。失明前に通っていた元の高校は、単位が足りなくて、二年生にはなれない。それに、普通科の生徒たちと過ごすことがハードルが高いのなら、盲学校も選択肢としてあるよ、と、その若い女医は教えてくれた。
穂乃果は両親と相談し、盲学校に進んだ。
盲学校を卒業して、総合病院の電話交換手の職を得た。地道に働いた。恋もした。でも、いつも片思いだった。右目のことを知ると、どの人も変に意識して、普通の男女の交際には至らなかった。
穂乃果は同情されるのは、真っ平御免だった。心療内科の女医は、職業故か、必要以上に心配し、穂乃果を過保護に扱うように思った。しかし、彼女の束縛から解き放たれることはなかった。薬は飲みなさい、と言われると、医学を知らない穂乃果も穂乃果の両親も、何も言えなかった。しかし、その女医の態度は穂乃果の嫌いな同情を帯びたもので、穂乃果は次第に嫌気がさしてきた。
「お母さん、私、あの先生、好きじゃないの。」
穂乃果は思うままを母に言った。
「お医者さんにどこが悪いか聞いて、右目のことを言われるなら当たり前だけど、あの先生は、私の心が悪いというのよ。そして、しつこく効かない薬を飲ませて、私のこと、薬がなければ生きられないんだと同情するの。まっぴらだわ。」
母は、穂乃果の気持ちがわかるだけに、うなずき、
「本当に薬が必要なのかねえ。それがわからないよね。」
と、途方に暮れたものだった。
(茶柱立ってる〜!)
穂乃果は母が淹れてくれたお茶を一口飲むと、昔を思い出していた。
総合病院の交換手の仕事は五年続けた。はっきり言って、飽きた。贅沢かもしれないが、パソコンを打ちながら、カッコよくオフィスで働く、っていうのがやってみたくなった。そして、総合病院には辞表を出し、ハローワークで仕事を探し始めた。障害者雇用の枠には、左目が正常な視力なので、該当しなかった。しかし、普通枠で、せっかく面接まで行っても、右目のことを話すと、決まって採用されなかった。
心療内科の女医に再就職先が決まらないことを話すと、女医は、分かりきったことのように、
「気持ちわかるわ〜。焦らなくていいのよ。あなたは一生懸命頑張っているのだから。」
と又、同情たっぷりの職業用の心配顔をしていた。穂乃果はあっかんべーをしてやりたくなった。そして、穂乃果は知っていた。この女医の白衣の下のどうしようもなく趣味の悪いブラウスを。
女医はこう続けた。
「私が思うに、あなたは支援が必要だと思う。思春期に片目を失明して、高校を途中で退学して、障害者向けの高校に行くことになった。そして、電話交換手の仕事に飽きてしまい、オフィスワークがしたくなって、探しても、差別がある。不公平よね。」
不公平?穂乃果はこの言葉には違和感がある。不公平と思ったことは正直言ってなかった。目が悪いことは自分でも十分納得しているし、受容している。この先生、私が差別にあっているから、怒るべきだと言ってるの?やめてよ。私、そんなに弱い人間じゃないわ。
高校を退学したことは、自分のせいだ。私が弱かった。若かったし、まだ右目のことを受け止められなかった。時間が必要だったのだ。それを不公平って、私、思ったこともない。
(何かお願い事しようかな、この茶柱に。)
穂乃果は桜餅をかじって、お茶を一口含み、又、物思いに耽った。
再就職先は、中小企業だったが、正社員で採用された。コールセンターだった。パソコンの資格を取っておかなかったことを後悔したが、それより手っ取り早く職が欲しかった。コールセンターでは前職の電話交換手のキャリアを活かして、毎日楽しく働いた。
OL仲間には目のことを悪く言う人はいなかった。きっと影で気遣ってくれていたのだろうと思う。車の免許も片目が普通に見えれば取れるらしいと知って、貯金を貯めて、普通免許に挑戦した。
ずいぶん時間はかかったが、免許はようやく取れた。両親は、両親用の車の保険に、穂乃果の名義も足してくれて、穂乃果は時々運転もするようになった。
(今度こそ、心療内科の先生に、私はもう助けは要らないってわかってもらいたい。)
穂乃果は、茶柱にそうお願いした。
コールセンターの仕事は三年半続けたが、会社が倒産してしまったので、職を追われた。そして、今のアルバイト、スーパーのレジ係を見つけて、もう6年になる。
穂乃果は、失明してから、ある程度、人生を諦めてはいる。私は多分、結婚はできないかもしれない。子供を育てることだって自信がない。自分ひとり分の世話をするのが精一杯なのかもしれない。
でも、そのことをあの女医みたいに、他人に同情されるのは、プライドが許さないのだった。それに、彼女はいつも、あなたは私のおかげで生きていられるのよ、と言いたげで、みるからに自信たっぷりだった。あの鼻をへし折ってやりたいと思ってしまうくらいだ。
「お母さん、お茶、おかわりいる?」
穂乃果は急須にお湯を注ぐと、母の湯飲みにもお茶を注いだ。父にも注ぎにゆき、帰ってくると、自分の湯飲みでお茶を注ぎ切った。
(あ、茶柱、終わっちゃった。)
穂乃果は、また、来週の木曜に心療内科に行くのだ。眼医者に行きたいくらいだったが、心療内科だ。目が良くなる薬なら、喜んで飲むが、心に効くお薬って、なんだろう。きみわるいや。
穂乃果は極めて健康な心をしている。それは見えていない右目の瞳の輝きでも良くわかる。これを見抜けない医者は、まさにヤブ医者、節穴の目をしているのではないだろうか。
「必要だってお医者様がおっしゃるなら、飲んだ方がいいよ。」
どの友達に聞いてもそう言う。試しに薬を抜いてみても、何も変わりはなかった。なんだか、心療内科医の自己満足のために穂乃果は患者でいるみたいに思った。
友達はどんどん結婚して行ってしまう。穂乃果は恋人もいないまま、だんだん暗い気持ちになっていく自分に気づいていた。レジのアルバイトでも、なんとか食べていけるし、学歴が盲学校卒なこともとっくのとうに自分なりに清算ができている。しかし、結婚となると、さすがに悩む。
(健常な男性は望めないんだろうな。それに相手に迷惑かけちゃうことも多いだろうな、私じゃ。)
桜餅を食べ終えて、母を見ると、しゃがんで足の爪を切っている。父はハズキルーペをかけてパソコンに向かっている。こんな日常は私が作り上げた幸せではない。親から与えられた幸せだ。
私は家族を持てないかもしれない。でも、今が幸せだったら、この幸せを大切にしよう。
両親は年老いている。いつかお別れが来るだろうが、それまで、一緒に住んで、最後まで側にいよう。
初めて、心療内科の医師の言っていた、不公平がなんとなくイメージできた。つまり、私は恵まれない人間なんだね。私は障害者なんだ。考えたこともなかったよ。
でも、彼女の存在は私にとってマイナスだ。今度こそ、予約をすっぽかそう。別の心療内科の医師に相談してみてもいい。私に治療が必要かどうか。
後日。
穂乃果は別のクリニックを探して医者に診てもらうと、
「あなたに必要なのは薬じゃない。お金と言う名の支援。片目が見えないのだから、障害者年金を受け取ることを勧めます。当然の権利ですよ。五年間、遡ってもらえるから、結構な額になりますよ。」
「いいんですか?」
「いいんです。今の法律で守られているんです。そのくらいの嫌な思いはなさってきたでしょう
、色々と今までに。」
と言いながら、その医師は微笑んだ。穂乃果もこういう言い方なら角がたたずにすんなりと納得できた。今までに心療内科で受けてきた嫌な思いでコチコチに固まっていた心が、じんわりとほぐされる気持ちだった。
「それには、まず、眼科へ行って、右目の診断書を書いてもらってください。………….」
穂乃果はやっと納得できた。目が悪いから年金もらう。私、全然後ろめたくない。そして、アルバイトは続けてもいいらしい。収入が増えるのだ。良かった、先生変えて。
「もう、私のクリニックには来ないでいいですよ。年金でうまく行ったら電話でいいので知らせてください。じゃ、頑張ってね。」
本当にスッキリした。長いこと、薬のせいで飲めなかったお酒が飲みたくなった。本牧まで足を伸ばし、おしゃれなバーで、ピナコラーダで一人乾杯した。
(完)
穂乃果の瞳 長井景維子 @sikibu60
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます