第2話

 遅いなぁ。

 いつ来るんだろう? 施設の人。

 亜希子はふと我に返った。

 すでに部屋に案内されてから30分近くが経っている。

 亜希子は疲れからか、だんだん眠くなってきた。

 施設の人……

 お母さん……

 える……


「亜希子さん」


 誰かが呼んでる。


「亜希子さん」


 聞いたことのない声だが、とても透き通っていて耳に心地よい。

 亜希子は身体を声の方に向けるのも面倒だったので、そのまま机に突っ伏していた。




 

「亜希ちゃん」


 急に声がはっきりと亜希子の耳に聞こえた。

 亜希ちゃん……?

 その呼び方、少しハスキーだが甘い声色には聞き覚えがあった。

 亜希子が反射的に身体を起こして振り向くと、そこには満面の笑みでえるが立っていた。


「える!」

「亜希ちゃん」


 えるを見たことで、亜希子は自分の中の感情の発露を抑えることができなかった。バネが弾けるように、一気にえるのもとに駆け寄った。椅子が倒れるのも気にならなかった。泣き出しそうにも、笑い出しそうにもならなかった。ただ一心不乱にえるだけを見ていた。

 えるが両手で亜希子を抱きしめた時、亜希子は胸が熱くなるのを感じた。それは両親と弟が死んで以降、久しぶりに感じる血の通った熱だった。

 

「える、どうしてここに?」

「学校の先生に聞いたの。ここで施設の人と会うって」

「うん。まだ来てないんだけどね……」

「そのほうがよかった」

「え?」


 えるは椅子に座ると、亜希子にも座るよう促した。


「どういうこと?」


 首を傾げながら椅子についた亜希子に、えるは一枚のパンフレットを差し出してきた。

 人工衛星補完プロジェクトと大きなゴシック体で書かれ、字の背後にはSF映画に出てくるような、銀色の独楽のような形をした衛星のイラストが描かれている。


「うちのパパがアメリカの民間宇宙開発会社に勤めているのは知っているでしょ?」

「う、うん」


 亜希子は、えるの父がその会社の日本支社の社長だと、前に聞いたような気がした。


「実はその会社で今、若いアルバイト探してるの。それで亜希ちゃんならどうかな? って思ったんだ」

「アルバイト?」


 中学生ってアルバイトしてもいいんだっけ?

 というか、そもそも今度行く施設では、アルバイトとか認められてるのかしら? 

 そんな疑問を抱きながら、亜希子はおそるおそる聞いた。


「でも、私、宇宙とか、衛星とか全然分からないよ。それでもいいのかな?」


 もちろんこれまで読んできたSF小説の中では、何度も宇宙に旅してきた。それどころか、自作の小説では亜希子自身、月面基地で仲間たちとの友情や恋物語を楽しんでいるのだ。だが小説と現実は当然違う。まったく違う。

 ああ、そういえば、あの作品、まだ書きかけだったんだ。亜希子はふと思い出した。色々なことがあって、すっかり忘れてしまっていた。そして、あれの続編を楽しみにしていると言ってくれたのは、他ならぬえるだった。果たして、えるがまだあの作品の続きを気にしていてくれているのか、亜希子は少し気になった。


「全然大丈夫」


 えるはパンフレットを裏返した。

 そこには大きな盾のようなものを持った人間が、穴に隠れて盾で蓋をしているような図が載せられていた。

 字が細かく、書かれている内容はさっぱり分からなかったが、亜希子はその図を見てなぜか嫌な気持ちになった。


「実は来週、この日本から衛星を打ち上げる予定なの。それで、今回打ち上げる予定の衛星って、表面にいくつか穴が開いてるのよね。ちょうど人が一人通過できるくらいのスペース。で、その穴っていうのは、宇宙に出た時に他の衛星とドッキングさせるための穴なんだけど、設計のミスで穴をふさぐためのドアに開閉機能を取り付けるのを忘れちゃったんっだって」

「え~!?」


 亜希子が驚きの声を上げると、えるはくすりと笑った。


「驚くよね。なんでそんなこと、打ち上げ直前まで気付かなかったんだろうって思うよね。社員のやる気の問題なのか、ちゃんと連絡がいってなかったのか、予算をケチったのかは知らないけどさ」


 そう言ってえるは肩をすくめながら苦笑してみせた。  

 つられて亜希子も笑ったが、少し気になることがあった。 

 えるって、こんな口のきき方する子だったかな? もう少しおしとやかな口のきき方だった気がするけど。


「打ち上げ前から穴を開けっ放しにしておくっていうのは、ダメみたいなの。なんでも空気抵抗の関係とかで。だから最初は穴を塞いだまま打ち上げて、宇宙空間で蓋を開けるしかないんだって」


 亜希子はもう一度、パンフレットを見た。

 人間が盾のようなものを持って、穴にうずくまっている。ちょうど穴の入口に蓋をするような感じで、手を伸ばしている。

 この人はこの後、どうなるんだろう?

 ただのイラストにも関わらず、なぜか亜希子はそう思った。


「誰かが人工衛星のドッキング孔に入ったまま、内側から開閉部に蓋をして、宇宙空間に出たら、内側から今度はその蓋を外す。それしか方法はないみたいなの。ね?」


 えるはそう言って、小首を傾げた。

 ね?

 え?

 える?

 える、あなたが何を言ってるのか、さっぱり分からない。

 いや、本当は分かっている。


「ロマンチックだと思うなあ。だって死んだ後も、ずっと宇宙に居られるんだよ。永遠に流れ星になれるんだよ?」






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